眸の熱





最初に魅せられたのは、眸にだったと覚えている。



 それは三代目火影より、程なく始まる下忍選出において、下忍担当を任せられることを正式に言い渡された日だった。部屋を辞して、ふらりとアカデミーのほうへ足を向けた。いつも任務任務で、幼い頃に僅か利用した記憶があるだけの、がらんどうの建物。
 カカシは、小さく笑う。
 本当に「がらんどう」という表現しか浮かばないところだった、アカデミーは。朝昼になれば子供で溢れるだろう教室も、カカシが訪れるような時刻には人一人いない。教室はもとより廊下も静まり、里を覆う夜が闇を落とし、それを白々しい蛍光灯が照らしている。
 いまもそう。
 カカシが歩く廊下には、彼以外の影は見えず、足音のないカカシの存在を示すのは、蛍光灯のつくる影だけだ。気配もない。
 ひたひたと忍ぶようなカカシの耳に、男の声が聞こえてきた。二人、だろうか。言い争うような強い語調で、気配を探れば、苛立っていることが明らかだった。だが、その気配は苛立っているとはいえ緊迫している、とはいえず、意識も目の前の相手にそそがれているよう。こんな時間にこの場所にいることも考え、それを察すれば、声の男たちはアカデミーの教員だろう。
 声は進む廊下の角むこう。煌々と明かりが漏れ伸びてきている先でもあり、たしか自動販売機が置いてある休憩所だったと、カカシは覚えている。カカシの歩が停まる。
 男たちの声はとどまらず、カカシに気づいた様子もない。
 さて遠回りも面倒、そのまま行くのもまた面倒、窓から里に降りるかと考えたところに、ひときわ大きく男の声がきこえた。

「お前だって知らないわけじゃないだろう、あのガキはなぁ!」
「よせ、俺は聞きたくない」

 どうやら声を荒げているのは一人だけのようだった。相対するもう一人の男は冷静、どこか冷淡に聞こえさえする堅い声音だ。その語尾がわずかに震えているのをカカシは聞き取ってはいたが。

「聞きたくなくても、お前があいつを合格させちまったんだ!これから嫌でも聞かされるだろうさ!」

 男はずいぶんと興奮しているようだ。
 カカシは窓へと向きかけた足を留め、影をつくる壁へと背をあずけた。

「合格するだけの力があいつにはあった。だから、合格した。それだけだ。お前がなにをそんなに言い立てるのか、そっちの方が俺には分からねぇな」
「は! お前があのガキをやたら構ってたことは、アカデミーの奴らはみんな知ってる! イルカ、知ってるか? お前、自分がなんていわれてるか。狐可愛さ目が眩んだか、だとよ、はははははは…!」

 バン!と大きな音がした。
 男の耳障りな笑い声が止まった。
 イルカ、と呼ばれた男が紙の束、おそらく書類だろう、壁に叩きつけた様子。

「…あいつは、自分の力で合格した。俺がなんていわれようと関係ねぇな」

 堅い声。平坦で、それ以上の会話を望まない声。吐き捨てたその声の主は、ひたりと角を曲がってきた。カカシの佇む影へ。
 一瞬、居なかったことにした方がいいやも思ったが、しかしカカシの身体は動かずじまいだった。イルカの歩があまりに静かに進み、角を曲がり姿がみえたときでさえ、気配の明らかさと、その足音の滑るような静けさのギャップに驚いたからだ。気配はこんなに、詳らかに存在を示しているのに、どうしてそんなに足音を殺すのか。面白くも思った。
 だがそのタイミングは失われ、カカシは視線だけ、イルカに向ける。
 さて、立ち聞きを咎めるだろうか。それとも見苦しいところをと詫びるだろうか。
 カカシはゆったりと、背を壁に預けたまま腕を組んだ。
 影に佇むカカシに気づかぬわけでもないだろうに、イルカは歩を揺るがせず、一歩、一歩とカカシに近づく。

「……」

 カカシの視線は、イルカの面に、無遠慮に注がれる。伏せがちの視線が、こちらを向かないかと見ていれば、あと三歩の近しさ。イルカの眸が、カカシをみた。
 その眸の奥。
 ちかりと光る、熱の華。
 怒りで燃える熱が渦まいていた。
 一度カカシを捉えた瞳は、そのまま逸らさず、そしてイルカの唇がしなり、笑んで、開いた。

「こんばんは」

 おおよそ物騒な色音の、平凡な挨拶だった。そのまま「お散歩ですか」と続いても自然であるかのような、極平凡な挨拶。アカデミー教員が、外勤の多い上忍にかけるべき言葉としても、おそらく妥当だっただろう。その眸の熱さえなければ。
 カカシは視線を交わしたまま、イルカと同じように、うっそりと笑んでみせた。
 面白いと思った。

「ええ、こんばんは」

 言って、イルカの視線を追えば、その熱はふっと廊下の先に流れた。
 このまま通り過ぎるつもりらしい。
 聞き咎めもなし、か。
 それはつまらないと思う。第一、話の内容は、他の誰でもない、近く自分の持つはずの子供のことではないか。それにこの男。イルカ。いつかの折りに聞いたことがある。能力こそ磨かれていないものの潜在能力もあり、戦忍としても充分生かせる能力がありながら、アカデミー教員として勤め、そしてよく子を伸ばす忍びが居ると。親の仇と憎んでもいいものを、その性からか、だれより熱心に指導する忍びが居ると、聞き及んだことがある。まったく奇特な者も居たものだと。
 それが、この男か。
 カカシは鼻を鳴らし、はっきり笑った。
 どうにも、暖かくお優しいだけの先生というわけでもなさそうだ。ずいぶん腹に溜め込んで、生き難そうな性格をしているのは確かだが、やられっぱなしをモットーにしているわけでもないらしい。その眸の怒りが、なにより語っている。
 そして今、はっきりと笑ったカカシに、イルカの眸が再び戻った。
 この瞬間にも溢れそうな怒りの奔流が、ひたりとカカシを見た。
 それは、何が可笑しいのかと、言っている。
 カカシはますます可笑しくなった。加えて、怒りっぽいらしい。

「どうして、そこまでするんですか」

 いっそ不思議なほど、柔らかな口調で尋ねていた。
 相手にはきっと、恐ろしいほど嫌味に聞こえただろう。それを知って、わざとカカシは優しく尋ねる。

「あなたが、どうしてそこまでするんですか?」

 イルカの眸が、ひたとカカシを見る。
 奥の華、怒りの矛先を探しあぐねいて渦巻いていた華が、カカシを見る。
 そして、イルカが笑った。
 瞬間、燃えるような熱が姿を変え、揺ぎ無い芯の熱さをもってイルカの眸に、光が戻った。それはいっそ、まとまりの無かった刃が収束し、目的をもって輝きだしたかのようだった。その輝きが、物騒に光り、応える。

「俺が、しちゃいけない理由でも、あるんですか?」

 いっそこちらも丁寧な、慇懃無礼さえ感じる静かな柔らかさでの、応え。笑みさえ浮かべ、イルカは言い、そして今度こそ確かにカカシの傍らを通り過ぎていく。
 すいと外された視線の、残り火は、カカシにフラッシュバックを起させる。
 丁寧な返答の裏側に、口を出すなとのはっきりとした拒絶。
 または、売られた喧嘩は買います、と宣言していったかのようだった。
 くつくつとカカシは身を折って笑い始めた。
 小気味いい。
 なかなかに面白く、小気味いい人物だ。
 あれがイルカか。
 残り火が、ちりりと焼けた。
 そうか、あれが。
 イルカが去り、いつのまにか男も消えた廊下、誰もいない廊下で、闇に屈んでカカシは笑った。聞いていた話しと、おおよそ違う。たしかに子供には「いい先生」だろう。あれだけ真直ぐに怒りを表して、嘘のない眸をするならば、きっと偽りを口にすることも稀だろう。子供にもそれは伝わるだろう。偽りの無い大人は、暖かい。
 だが、それだけではない。
 ひとしきり笑ったカカシは、呟く。

「しちゃいけない理由、ね。理由。確かに、ないよねぇ…」

 こちらが上忍だとわかっていただろう。それでも、ちかりと光った怒りの焔。カカシに向けて、言い返された言葉。笑み。
 あれでは生き辛かろうに。

「理由、か…」

 同時に、偽りの無い大人は、生き辛いのだ。
 カカシはのそりと窓の枠を踏みつけ、その身を風に躍らせた。
 ひゅっと里を吹き上がる風が頬を掠め、木の葉の乾いた音がそれに混ざる。

「確かに、ないよねえ…」

 闇に紛れた呟き。
 それは、先刻までの響きとは違う色の呟き。イルカにむけられた偽りの柔らかさなどではなく、意識の底から湧く、嬉しさが滲んだ呟き。嬉しさがあった。
 そう、あの男がナルトにかまう理由など、ないのだ。
 ナルトに、信頼や愛や、仲間や里への想いを伝える理由など、ない。
 そうするべきだからする、したいからする。
 したいと想うから、ナルトに教えるのだと、そういえる人間が居たのだ。
 カカシは思う。
 面白い忍びも居たんだと。
 あえて自ら、してはいけないかと胸を張る、男。
 喧嘩っ早く短気だが、小気味いい。
 くつくつと勝手に鳴る喉に、唇に、カカシは笑う。
 ちりり、とまた残された焔が胸の内を焼いたようだった。




最初に、魅せられたのは。
眸の熱の―――――――――華。




2002.12.21