黄金の月







 一度目は、体温を確かめるキス。
 ゆっくりと唇と唇を合わせて、離れる際に名残惜しくてイルカの下唇を喰む。
 それから二度目。
 角度を変えて、口端に。
 音をたてて吸い付くとイルカが身じろぎした。
笑って、カカシは舌先で唇をなぞりあげて、咥内に入り込む。
歯列はうっすらと開いて、カカシを誘うようで、イルカへ覆い被さりながらその内にある熱い舌を絡めとった。
 吐息が、睦みあう舌さきから漏れ出て、資料室に響く。
 カカシが薄めを開けると、腕のなかでイルカが苦しげに目を閉じているのが見えた。その頬はうっすらと染まり、唇はさらに濃く染まっている。唾液で濡れたそれを、カカシはもう一度、舌でなぞった。いくら食べても、食べたりぬように、イルカの唇は何度口付けを繰り返しても柔らかく、新鮮で甘く、飽き足りなかった。
 ふと、先ほどの考えに戻った。
 イルカは誰とでもこんな口付けをするのだろうか。
 こんな甘いキスを、カカシの居ないあいだに誰かと交わしていたりするのだろうか。
 ざわりとカカシの首筋に、なにかが這い、それは後頭部を上っていった。
 それを何と呼ぶかは知らず、カカシは執拗に口付けを繰り返した。
 腕の中のイルカが、根を上げて、もうやめてくれと途切れ途切れに囁くまで。




 その夜にまた会うことを約束して、イルカと別れた。
 口付けを終えたとき、イルカは真っ赤な顔をして、目も潤んでいた。もしかすれば、その先を望めば、抵抗しつつも受け入れてくれたかもしれなかった。だが、アカデミーで性行為に望むのはやめておいたほうがいいとカカシは知っている。なによりも、これからアカデミーで働くというイルカのためにも、他の職員から顰蹙を買うような行為は控えるべきだった。
 だが、イルカを腕のなかから解放したとき、名残惜しかったのも事実だ。
 そのまま、染まった頬と同じように、薄紅に染まった身体を貪りたかった。
 きっと声を抑えようとするイルカも、カカシを煽ったに違いなく―――。
 カカシはひとつ頭を振った。
 やめよう、そう思って考えを散らす。

 受付のあと、時間つぶしに立ち寄った上忍休憩室では、カカシの古馴染みが同じように暇を潰していた。血のついたベストを、受付でもらってきた真新しいものと取替え、近況を伝え合いながらも、カカシのなかで先ほどのイルカと、疑問がゆっくりと巡る。
 馬鹿らしい、と思う。
 イルカが誰と痴態を演じようが、カカシに責める権利はない。イルカはカカシが求めるように身を差し出しているだけであって、カカシのことを慕っているわけでもなく、焦がれているわけでもない。抱いてくれと言ってきたこともない。今まで一度も。

 任務があけて、暗い窓ではなく、灯りがついたそれをみてカカシが訪れたときも、とくに何もいってくるわけではない。不思議そうな表情をたまにちらつかせたとしても、概ね淡々とカカシを受け入れている。あいだが何週間、何ヶ月空こうがそれは変わらない。嬉しげにするわけでもなく、迷惑げにするわけでもない。驚くそぶりをはっきり見せるときはあるが。

 それが不満だというわけではない。
 カカシはイルカが抱きたいのだし、それに応じてくれるイルカに不満などない。
 むしろ身体を重ねるごとに、ぴたりと隙間なく交われるようになっていくと感じることもあり、イルカには感謝していたりする。イルカは確実に、カカシに温もりを分け与えてくれる。
 その身を使って。
 ただ、いつかカカシがイルカへしたように、イルカもカカシの「代わり」を持っていれば。いや、イルカにとって誰かの代わり、がカカシである可能性も確実にある。そちらのほうが可能性としては高いだろう。なにせカカシは、始まりこそ遠い過去であるものの、実際に共に居た時間は恥ずかしくなるほどにささやかなもので。しかもその大部分は、言葉もなく抱き合っているだけで。

 ああ、なんか鬱々してるなぁ。

 心のなかでぼやいた。
 カカシにとってイルカが「代わり」だったのは最初の一度きり。代わりは今回きりだと伝えて、イルカを抱いた。イルカは確かに、あのときのカカシを癒してくれた。その体温で。
 その癒しを、イルカはカカシのほかにも求めているのだろうか。
 たとえば任務で一緒になった仲間や、花街に。
 纏まりそうにない自分の思考に溜息をついて、カカシは席を立った。アカデミーにいるから勝手に思考がイルカを求めるようで、離れようと思った。時間つぶしは他でしよう。もし呼び出しがあるのなら、声高く鳥が飛ぶはずだ。
 用済みの古いベストを、無造作にゴミ箱に放り込み、立ったカカシの背に、古い仲間の声がかかる。それへひらりと一度、カカシは手を振って後にした。




 ふらふらとあてどなく歩いていると、いつのまにか通いなれた道、慰霊碑の道行きを辿っていた。そんな自分に苦笑しつつ、やがて見えてきた小さな石碑の前に立つ。いつみても、硬くて素っ気無くて、名前が刻まれただけの、ただの石だ。これにたいして思いをめぐらせるのは、その向こうに、もう戻らない人の面影を追うから。

「なぁ、どう思う」

 俺はまだ弱いまんまだよな。
 石碑の前に座り込んでの、独り言。
暗いと我ながら思うが、どうせ誰も居ない。もし居たとしても声をかけてくるものもいない。慰霊碑のまえに立つ人間に声をかけるのは、よほどその人物と親しいか、無神経な人間だけだ。
 夏に向かいつつある春の空は、淡く鈍く、青空のようでもあり、曇天のようでもあった。それを仰ぎ見、カカシは嘆息する。
 ここ数年でいろんな戦場を回り、任務をこなし、成功も失敗も重ねた。部下を多くもち、死なせた部下もいる。助けた人間もいれば、見捨てた人間もたくさん居る。
 死んだ仲間も居るし、階級の進んだ仲間も居る。

 それぞれがそれぞれの生を行き、カカシと関係のあるようで無いであろう人生が、いろいろとカカシの目の前を通り過ぎ、そのうちのいくつかはこの慰霊碑にたどり着いた。
 そんな行き先をみていると、さていったい自分はいつ逝けるのだろうと考えてしまう。特段、後ろ向きというわけでもないし、死に急いでいるわけでもないが、ごくあたりまえの成り行きとしての、自分の行き先を考える。

 そして、その己の行き先の上にある、とても大きな引っ掛かりに、自分はいま揺らいでいる。イルカという引っかかりに。
 イルカの人生はイルカのものだし、どこで誰と関係をもとうが、寝ようが、キスしようが、まったく彼自身の勝手であるというのに、どうしてこう、カカシはそれを想像すると気分が重くなるのか。  それが自分で不可解で、どうしようもなく、失望する。イルカの生に干渉したがる己に。身勝手な願いを抱いてしまう己に。
 弱くて利己的だ。

 自分が情けなくて溜息がこぼれ、カカシは胡坐をかいた膝に肘をたてて、頬杖をついた。
 そよ、と春風が過ぎていく。
 寒くもなく暑過ぎもせず。
 晩春の風は温い。
 こんなどっちつかずの温い気温の中では、自分がどうしようも掴みどころがない心地がして、どこかへ溶け入ってしまいたくなる。
 たとえば、水底へとか。

「あーあ…」

 けれど、それはもう随分としていないことに気づく。
 いつごろにそれを止めたのか覚えがないが、ここ数年は全くしていない。
 あの冷たくて硬くて柔らかい水中は、おもいだすととても慕わしくおもえた。沈んでいく身体にかかる水の負荷は心地よく、心は反対に身体のうちから溶け出でて、なにもかもを水底に沈んでいく体のように底へ底へと埋めてしまい、そうして得る平安。

 一歩間違えば、生死にかかわるような真似だったことは当時から承知済みだった。だからこそ、よりいっそう危うい水底が慕わしかったのだろう。全てが消える死と、隣り合わせになれるようで。近しくなることで、自身の厭わしさが薄れるようで。
 だがそれもとうに止めていた。
 いつごろに止めたのかを自身が思い出せないというのは情けないが、おもいがけず、カカシは自分が成長していることを発見した気持ちになった。
 そう。アスマなどからはいい顔をされなかった癖が、いつのまにか絶えていた。
 まるで弱さの象徴のようにさえ感じていたことが、自分のなかから去っている。それはとても大きな発見に思えた。
 カカシは、まじまじと目の前の慰霊碑をながめ、そして刻まれた名前に指を這わせた。冷えた石の感触だけが伝わる。

「お前もたぶん驚くよね」

 無くなった面影へと話しかけた。恩師へも思いは至る。きっと驚くだろう、彼は。情緒の薄い子供だった自分を心配していたそぶりがあったから、たぶん、驚いているカカシをみて驚くのだ。喜怒哀楽がでてきたねぇ、とでも言うかもしれない。
 カカシは腰をあげた。
 ふと、空を見上げると、いましもさえずりを高らかにあげんとしていた鳥が、頭上をくるりとまわっていた。カカシは去るまえに今一度、石碑に視線を戻す。
 いつか。
 いつか、この慰霊碑のまえで、誇らしく思う心地で胸をはれたらと思った。誇れるほどに、自分の弱さがなくなってしまえば、そんな日がくるかもしれない。
 弱音を吐かない自分で在れる日がくるかも―――、ひとつ頭をふってカカシは考えをちらし、足を里へ向けた。
なんて、自分に都合の良い馬鹿げた考えなのだろうか。



2004.06.27