黄金の月
午後、思ったよりも早く里へ戻ってこれたカカシは、その足で受付へ向った。あいにくと忍服に返り血がついたままで、人目にそうそう晒せるわけもなく、民家の屋根伝いに進む。
さてアカデミーから入ろうかと考えていれば、目に付いたのが一つ結わいの後姿。カカシの隠してある口元が、知らず緩む。
二週間ぶりにみる姿に、里に帰ってきたと感じた。里の大門をくぐることよりも、自分の家の寝台に寝転がるよりも、彼の家の明かりをみたとき、カカシは「ああ、里に居るんだ」と己を確認する。今夜にでも会いにいこうと思っていたが、先に声をかけてもいいだろう。
驚かせようとおもって、こっそり、廊下を歩いている後姿に忍び寄った。そして、怒るかな? と想像しながら、ふ〜、と首筋に息を噴いてみた。
「―――――――…ぎゃ…!!」
――――――バサバサーー…ッ!!
盛大な音をたてて、廊下に書類が広がった。
「あ、すいません」
とっさに謝った。多分、イルカは怒る。感情表現がときに分かりやすい人だから、おそらくこんなときには怒ってくるに違いないと反射的に思った。
案の定、イルカが、スローモーションでゆっくりと、振り返る。息をふきかけた首筋を、掌で押さえながら、赤い頬でぷるぷると震えていた。
「―――……っ、あなたっていう人は〜…っ!」
「拾うの手伝いましょう」
書類を持ってるのはちょっと気づかなかったなぁ、とカカシは思う。たぶん、イルカに会えてほんのちょっぴり浮かれていたせいだと自己診断しつつ、一枚目を拾った。屈んだ頭上から、むっつりと声がふってくる。
「…普通にっ、声を、かけて下さい」
「驚くかな〜って思って」
「気配を殺してすることはないでしょうっ」
「驚いたでしょ?」
「……〜〜っ」
言っても無駄だとおもったのか、イルカはカカシに続いて、廊下一面に散らばってしまった書類を拾いにかかる。赤い丸が無数についた紙片。テストの答案らしいそれは、アカデミーの生徒数にしては枚数が多かった。それにイルカは外務についているから、アカデミーの書類は関係なかったのに?
拾った分を渡しながら、小首を傾げて見せると、イルカは苦く笑った。
「今度入学してくる生徒から持つことになりました。教師、なんて似合う柄でもないんですけど、火影様に薦められまして、ありがたく」
「そうなんですか。じゃあずっと里に?」
「ええ、そうなりますね。今は準備で色々と教えてもらってるんです。これは去年のテストと答案で、テストを作る参考に借りたところです。いまから資料室で見ようとおもって…」
そういう生真面目さが、教師に向いているとカカシは思うが、とりあえず頷いておいた。気になることが、ひとつ。
「…ていうことは、ずっと、居るんですね。里に」
「? ええ、そうですよ。教職ですから滅多に外務に就くことはなくなるとおもいますが…」
それがどうか? と首をかしげたイルカを、カカシは思い余ってぎゅ〜!と抱きしめた。
「わ! どうしたんですかっ?」
答案用紙を抱えたまま、イルカはばたついた。それに構わず、カカシはさらに強く抱きしめる。イルカの匂いがして首筋に鼻先を埋めた。服にこびりついた返り血がついてしまうかもと懸念するのも、一瞬、どこかへ放り投げてしまった。
嬉しい。
「―――それって、俺が帰ってきたら、ずっとイルカさんはイルカさん家に居るってことだね」
これで、里に帰ってきたはいいがイルカを訪ねると窓は暗かった、などということはなくなる。すくなくとも、里のなかにイルカは居る。
「―――…それは、まぁ…そうですね。居ますね」
カカシの喜びをよそに、イルカは複雑な顔をした。カカシはその理由はわからなかったが、とにかく喜ばしかった。イルカが家に居ることが多くなれば、任務のたびにイルカを訪れることもできるかもしれない。
「嬉しいです。アナタが里に居ることになって」
「はぁ…そうですか…」
素直に言っても、やっぱりイルカは言い難い表情をしたままで返事をするから、カカシはイルカを抱きしめたまま移動し始めた。もちろんイルカは驚いて離れようとしたが、カカシは構わず、
「資料室、どこですか? 一人?」
「資料室ならそこの部屋ですけ、ど……―――ッ!」
言い終わるのを待てず、カカシは資料室へ滑り込んだ。人がいるかと思ったが、小さな資料室は埃が舞うだけの様子。部屋に人はイルカとカカシだけのようだった。
扉を閉め、壁にイルカの背をもたせかける。
「…ッ、どうしたんですか…? いきなり、こんな―――」
「キスしていい?」
「は?」
怪訝そうな声。
「だから、イルカさんにキスしてもいい?」
長い空白を挟んでこの関係が始まったときから、カカシはひとつ、心がけていることがあった。それはイルカの了承を得ること。なにも了承、という形に拘りはしないが、もしイルカにとって、カカシ以外と性交渉をもつことが重要になったのなら、それを妨げないようにしようと思ったからだった。最初は。
最近では、この居心地のいい体温を手放したくないという自分が確実に居て、許可を求める形は、ただ形ばかりになって、断られれば寂しいと思う自分を知っている。そして声に甘える色が混じっていることも、知っている。イルカがそれに気づいて、断り難そうに眉を潜めることも、また。
「―――先ほどのお訊ねのことですが」
「ん?」
「人は…来ません。けど廊下に人は通ります。それからキスについては…」
「ダメかなぁ」
「そのあたりを考慮に入れてくださるなら」
イルカの匂いとばかりに首筋に埋めていた鼻先を、ぱっと上げた。イルカが仕方なさそうに笑っていたが、その頬は少し赤かった。
やった、と嬉しげに喉を鳴らしたが、一方でこう思う。
イルカさんって誰にでもこうなのかなぁ、と。
2004.06.27