黄金の月







 始まりは振動。

 ご、ご、ご、と震える空気の鳴動に、応えるかのような木々のざわめき。
 微細な揺れが道々の小石を揺らし、家々の軒を軋ませた。
 やがて唸るような地響きが、寝ている枕の直下から沸き出る。
 横たわった身体が波間を漂うように横揺れし、起き上がった人々は大気のうねりを聞いた。
 暗闇のなかでかがり火は揺らめき、ついに振り子のように大きく傾いで倒れ、油と墨を道に撒き散らす。

 だがそのかがり火の傍らにいるべき兵の姿は酷く少ない。揺れに戸惑い、異変を察知し仲間と連絡をとりあおうとしている姿は、まったく見られないといってよかった。既に、彼らは事切れ、いずれくる敵よりもさきに闇に沈んでいた。
 そして街人は寝ていられないほどの揺れのなか、ようやく異変を感じ取り、我先にと道へ出、そして星空を仰いだ。
 そしてその先にあるのは、大いなる水源。
 大滝、だ。



   ――――――…ド…ッン……!!!



 激しい縦揺れ。
 地鳴り。
 人々は混乱した。
 家から出てきたは良い。
 だがどこに逃げろと。
 日々の戦乱で街には兵が溢れている。おりしも先日からの攻防戦で街には厳戒令がひかれていた。息を潜めるように暮らしていたというのに、このうえまだ天災までも扼するのか。
 天を仰いだ人々がそう呟いたのが聞こえるかのように。
 全てが崩れるかに見えた。
 その瞬間。


 福竜が―――動き出した。







 岩壁の上で、紅は額にびっしりと汗を浮かばせ、チャクラを集中していた。
 ひとつは知覚を惑わせる為の幻術。
 あたかも地面が揺れ、木々がざわめき、家が軋んでいるかのようにみせるための幻術。それはひとつの術ではなく、街の他方面から慎重に組まれた、まるでジグソーパズルのような術。一つ間違えば、なにもかもが夢から覚める。水飛沫の冷ややかささえ幻であったと。
 そしてそれにかぶさるように、今度は聴覚を惑わせる術。鳴動で大気を支配し、人々の鼓膜を震わせ、思考を覆い尽くす。混乱した人の脳裏に、かすかに「大滝へ」と響くように声音を混ぜて。
 最後に、視覚を。狂わす。
 巨大な唸りをあげて、瓦解する"福竜"を。
 まるで鎌首をもたげるように、大滝の流れが竜となり、岩壁を横に流れ、人々を先導するように夜明け前の闇空を駆ける姿を。

 音、揺れ、光、星空、水、軋み、混乱、恐怖、道標。

 全ての術を、よくできた紙縒りを解き、また寄り合わせるように、慎重に重ねていく。
 それらは確かに生半可な者では成し得ないような複雑さだった。
 遠く、闇のかなたに一直線に戦火のおびただしい数が並んでいるのが見えていた。
 汗が額を零れ落ちていくのを感じながら、紅は心中で舌をまく。
 幻術を得意としているわけでもない術者が、これほどの複合術を仕掛けるなど、およそ考えられないことだった。聞いたことがない。それをたいしたことがないという風に、紅に任せていったカカシへ、恨み言のひとつでの言いたいほどだったが、だがそれよりもこの仕掛けを作り上げたカカシへの素直な称賛が胸に浮かんだ。

 あたしもまだまだ、だね。

 紅く彩られた唇を噛み、女は口角を歪め、ひとり笑った。  




 カカシはそのとき、大門へと向かっていた。
 道という道を、家という家を揺るがしている幻術のなか、蹈鞴をふむこともなく、いとも簡単に家の屋根をつたい、そびえたつ街の大門へと走っていた。
 途中で補給員らしきものと接触し、沈静の香を手に入れ、それを撒き散らしながら向かう。効いてくれればいいが、と思う。パニックになった群集は、たとえ忍びでも操作しきれるものではない。
 大門には、部下のうち二人に内からの開門を命じていたものの、おそらく敵もそれは読んでくるだろうとカカシは考えていた。なるべく腕のたつものを選んだが、どうなったか。それが気になって駆けていた。
 果たして着いてみれば、剣戟の名残もなく、しんと静まった場。
 カカシは音の出ない舌うちをひとつ。
 殺気を全身に塗りこめた。
 一拍ののち、カカシは地を蹴る。
 空中に躍り幽かな気配にむけてクナイを放った。
 ガガガッと鋭い音をたて、壁につきささったまさにその壁面からぬうっと影が踊り出たかと思うと、それもまた空中に姿を現した。敵。忍びだ。
 己と同じく闇を纏い闇から死を呼ぶ者。
 カカシの脳裏が一色に染まる。
 闇、だ。
 何も考えず何も感じず、ただどうすれば効率よく―――生き残れるか。
 術を切るカカシの周囲に、さらにいくつかの殺意が湧き上がった。
 おそらく五つ。
 いままでこの戦場で忍びとおぼしき敵と出合ったのは数えて二度。それもツーマンセル。それを考えれば、この数は多い。なけなしの国庫から金を叩いたか。戦火に疲弊した国という財布を。

「ごめんね」

 面布の下で、呟いた。
 生き残るから、ごめんね。
 殺意で全てが塗り潰せるのなら、この世はとても単純で、きっととても美しい。
 見上げた星空のように。
 そうすれば、わずらわしいことを水底に捨てに行かずに済むのに。
 己を自嘲い。
 カカシは闇に―――、溶けた。



2003.12.24