黄金の月
カカシの実感は、あのころからあまり変わってはいない。
ただ、少し、何もかもをオブラートに包み込み、常識人ぶることを覚えただけだ。
そしてほんの少し、自分の弱さを人に預けることを覚えた、だけで。
だが、そのおかげか、部下はよくついてきてくれる。
カカシは左手をかざし、空から羽ばたき降りる烏をその腕にとまらせた。
がぁ、と一無きして烏はカカシを見もしない。
おもむろに身づくろいなど始め、さっさと足の書簡を取れとでもいっているかのようだ。
カカシも、この戦地のあいだ馴染みになってしまったその烏の態度に気を止めることなく、手早く書筒を空け、中を確かめた。
指示は一つ。
今夜未明、敵本隊より後方に回り込み、陽動をかけよ、とのこと。
対象目標として市街水源である"大滝"と呼ばれる貯水施設が挙げられていた。
"大滝"は他国にも多少は名を知られた、巨大なそびえたつ岩盤に溜まった湖のことだ。国はその岩盤を背に繁栄したようなもので、湖から流れ落ちてくる水流をことに"福竜"と呼び、国の鎮守としている。
それを破壊せよ、とは。
カカシは溜息をついた。
ここなら部下も居らず、頭の痛くなる依頼人も見てはいない。
盛大に、眉をしかめて溜息を吐き出した。
珍しくも忍びらしい、陽動という役割。任務。
やれやっと忍の意義を思い出してくれたかと天を仰ぎ見たのち、だが、カカシは考え込むのだ。確かに陽動にはなるだろう、巨大な水飛沫を跳ね上げて、崩れ落ちる鎮守の水源。そう、治世者のみならず、その―――国民全てに至るまで衝撃を与えるだろう。
だが、それを破壊とは。
「知ったこっちゃないけどね」
呟く。
この指示を出した人物は誰なのだろうか。依頼人か。それとも参謀か。知る由も無いが、そろいもそろってよほどの大馬鹿者に違いない。もしくは、占領と統治のなんたるかも知らない無能者。
おそらく、鎮守を破壊された国民は怒り、恨みを募らせるだろう。それは指導者が暴力的な方法によって取って代わられるよりも、よほど根深く、尾を引く。戦争、とは統治せねばならない地を多大な浪費をもって手に入れる、という意味でもある。もし、カカシたちが指示通りに"大滝"を破壊したとしよう。おそらく、その後、民草の支持だけにとどまらず、産業、工業、国力に至るまで大幅に低下するだろう。鎮守、であるとともに水源なのだから。
実質的に考えるなら、破壊せずに陽動したほうが良いのだろうが、しかし、伝書を見る限り、本隊が攻撃をしかける地点は、ちょうど"大滝"の真正面。敵本隊の真正面から当たるというのだ。
まさに溜息しか出ないというものだ。
パワーゲームをしたいのなら、政治の場でやればいい。戦略でみせればいいのだ。戦術の場で、まさに力と力の押し合い、真正面から本隊同士をぶつけてどうするというのか。
それをどうにかするのが、裏手のカカシたち忍びであるということだが。
「ほんと、知ったこっちゃないけど」
溜息のでる場面でも、いかに忍びとして働き、仲間を多く帰還させるか、それが問われるのが隊長というものだ。カカシ程ともなれば、含まれる期待も相応になり、言葉で表れるよりも、態度に表われる皆の信頼が肩に重くなる。
カカシはひとつ頭を振り、返信のないまま烏を空へ返した。
了承ということだ。
黒い影は、入相を過ぎた蒼い夕空で、一度くるりとひるがえって、遠くなっていった。
感慨なくそれを見送り、カカシも踵を返す。
これから急ぎ、迂回路を走り、敵国裏手へ回らなければならない。
加えて、幻術の長ける者を集めなければ。
カカシは岩壁の際に腰掛けていた。
夜風が、"大滝"がたたえる湖面を滑り、カカシへと、心地よい水の香を運んでくる。
眼下には、これから騒乱に荒れるであろう市街が、ひっそりと眠りについていた。
いや、カカシの目には、その暗闇に紛れ、今か今かと火蓋を待つ敵本陣の様子が、張り詰めた夜気とともに、鮮やかに現れるように見えた。ほぼ真下にみえる櫓のような城には、かがり日がちらついている。
あと約半刻後。
カカシたちの仕掛けた術を発動させる時刻。
発動すれば、この風景は爆音とともに瓦解し、人々は混乱し、逃げ惑う。攻め入ってくる、他国の武力に、なすすべもなく打ち倒されるだろう。迎え撃つ武人は良い、だが武器もない人々を戦に巻き込めば、いろいろと不具合がでることになる。
そんなこと、知ったことではない、とカカシ自身呟いていたことだが、やはり見過ごせなかった。
今、市街のあちこちで、カカシの部下たちが流言を行っている。
寝静まった家人の耳元に、いかにも夢見であるかのように、"大滝"へと逃げろ、"大滝"がその名のとおり『福竜』と成り、人々を守るであろう、と囁いている。間もなく地響きとともに多くの兵が攻め入ってくるだろう。そのとき、目覚めた人々は無意識に"大滝"へ向かってくる。そして時を見計らって、カカシたちは術を発動させるのだ。
人々は驚くだろう、瓦解する"大滝"に。
そして、それ以上に、水飛沫も石礫もない、幻術の"大滝"の崩壊に。
「隊長、用意、相成りました」
「あぁ、じゃあ下の奴ら、手伝ってあげて。ここは俺が居るから」
「御意」
ひとつ頭をさげて姿をけした副長は、カカシの知る限り幻術が得意なほうではない。カカシが今回の策のために、幻術に長けたものを選び出したが、その数は片手に余るほどで、じつのところ、今夜決行しようとしている策はあまり上等とはいえない。もとより、体術を中心に肉弾戦を得意とする忍びを集めての編成だ。依頼の希望内容がそうであったために。
ゆえに、こうやってカカシが"大滝"の幻術の、最後の発動をすることにもなる。
他の部下は街に散っている。
暗闇にまぎれ、囁きを残し、また街に少しばかりのこされた敵の護衛兵を始末している。依頼人の指示を捻じ曲げての策であるから、カカシにとって、点数稼ぎのようなもので。
「苦労、かけるなぁ」
夜風をうけながら苦笑する。
強くなりたいと願ったころと、どこか変われたのかと自問自答するほど、自分はたいして変わってないとカカシは思う。こうやって自分の自己満足のために、部下を走らせている。要らぬ苦労をかけている。
それがたとえ、ひいては多くの人や地への恵みとなったとしても、たった今、依頼人の利益や木の葉の利益とはなってくれない。それが分かっているのに。あとで叱責を受けるかもしれないというのに、これが最善の道だとカカシが確信するがゆえに、部下を巻き込んでいる。
遠くを見すぎて、足元の暗い灯台となるか。
水の香がカカシの鼻先をくすぐる。
わずらわしい澱みを感じることのない香り。
無味、無臭の、黒い、清水。
喚起される想いと、それに惹かれそうになる自分に再び苦笑して、カカシは腰を上げた。
ついでに動揺しているだろう街人に大人しくしていてもらえるよう、暗示をかけておこうか。幻術の印に、ほんのすこし手を加えて。
「えぇと…、どうやるんだっけな」
沈静の印術など滅多に使うことも無く、昔にコピーしたまま、記憶の底だ。誰もみていないこともあって、カカシは手元で、印の確認をする。二度、三度と組んで、やっぱりと首を傾げる。今ひとつ不安だ。
どうしようかな、と思案していたとき、ふと気配がひっかかった。
夜風に波打つ湖面を振り返り、その対岸、夜陰にひっそりと白い影がみえた。
あれ? と斜めになった首のままカカシは影を見やった。
「どうしたの、本物?」
届くはずの無い距離。
それを承知のうえで、カカシは影へ普段のように声をかけた。そして影は、造作も無く答えを返してきた。霞むほどの距離でも、優秀な忍びの耳はその声を拾う。
「本物よ。悪い?」
「いいや、大助かりかも」
風が渡るよりも明瞭に声は届き、そして影はほどなくカカシの側へとやってきた。遠くからは白くみえたその影は、身に纏う衣服のせい。カカシのような忍び服ではない、自前の衣装で、女はいつも悠然としていた。
「紅が居たら楽できるのになーって思ってたから、幻かと思っちゃったよ」
「ふふ」
白い面が笑う。黒髪が闇に溶け、唇も闇色に光っていた。
「あんたの部下から聞いたよ、幻術を仕掛けるんだって」
「うん、そう。やっぱ人類の宝を壊しちゃ駄目でしょ」
「ばぁか」
とびきりの冗談を聞いたように紅は笑み、目を眼下へとやった。背に受けるは福竜の風。
「紅だけなの」
「違うわ。ホントいうと、私は来るはずじゃなかったんだけど。伝令よ、火影様から、あなたへ指名の依頼がきたわ、この依頼も長いし後を引き継いで帰って来いって」
「…今すぐに?」
「さあ。急を要する依頼ではなかったみたいだけど、そう二日も三日も待たせるのはどうかしら。あなたに指名なんだし」
「そう。で、他には誰が?」
「私はオマケでね」
「オマケにしちゃ豪華だね」
「あら、ありがとう。でも本命はアスマよ」
ちらりとカカシは紅を見、眉を上げた。
彼女が密かに、あの男に対して関心を抱いているのを知っているゆえに、もしか、彼女はアスマがこの任務に来るとこになって強いて付いてきたのだろうかと思ったのである。
だが、紅はカカシの思ったことが分かったように、意味ありげに黒髪をかきあげて見せた。
女がそんな仕草をするときは、用心したほうがいい。関係あることにしろ、ないことにしろ、女は「今から攻撃するぞ」といっているのだから。
「もともと腕のたつのをご希望だったでしょ? だからあなたと張れるっていうので彼なんだけど、ついでだし、経験つんでこいって私が付かされたの。ホントよ。無理やり付いて来たんじゃないんだから」
「はいはい」
「アスマは下でもう動いているわ。着いてみて作戦聞いたら、私も役立てそうね?」
「まあね。助かるよ」
本当は「まあね」どころではない。紅の幻術の腕は、上忍に上がるまえから評判になるほどだ。彼女がいれば、術の発動も任せられる。それにアスマがいるならばすぐにでもカカシは里へ帰還できそうなほどだった。さすがに今すぐに、というわけにはいかないだろうが、この夜が明けて、全てが終りを見せかけた頃には帰れそうだ。
「まあこの任務も長かったけど、そろそろ終わりそうだし」
「そうね。タイミング良くて驚いたわ」
「紅はこの術に人を落ち着かせるようなの、追加できる? 俺、やり方をちょっとド忘れしてさ。困ってたんだよ」
「あら、猿も木から落ちる、かしら」
「そう思ってもらえると助かるよ。部下たちには内緒にしててね」
「どうしようかしら」
互いに笑み言いながら、カカシは紅へと立ち位置を譲った。カカシが立っていた場所のほうが、術の発動によく、また足もとに描いた印の中心でもあった。
紅はふと真剣な表情に戻り、熱心に足もとを見つめた。瞬きを数度する間をおいて、紅い唇が、苦笑した。
「これだと術を重ねがけするよりは、沈着の香を撒いたほうがいいと思うわ。風をつくって。下に物資の補充員も連れてきてるの。彼らが持ってるはずよ」
「そっか。重ねがけはダメか。いけると思ったんだけど」
「瀑布を作るのに、興奮させて惑わせる術を使ってるでしょう、それと相殺になるの」
「ふぅん、なるほど」
勉強になるね、と頷いていれば、紅の細くみえる肩が上下に一度動いた。呆れたような仕草。
「今は幻術講座をしてる場合じゃないんじゃありませんこと、はたけ隊長殿?」
「はいはい、じゃあ俺は明日帰るために、下で働いてこようかな」
「そうしなさいな。―――発動は?」
カカシは、指先を闇の向こう。眼下に広がっている、かがり火が揺れる城と寝静まる街の向こう、暗闇の真直ぐ先を示した。
「街の正面、横並びに松明がみえるはずだ。三方から集まってくる、それが一直線にならんだときに始めてくれ。たぶん、もうすぐ」
「わかったわ」
返答が福竜の風にまぎれるより早く、カカシの姿は消えた。
後任がきたとなれば、あとはさっさと策を成らせ、帰るだけだ。カカシの足もはやる。福竜の流れ落ちる岩壁を、まるで水流に流れているかのような速さで降りていく。チャクラを使い伝い降りるのはもとより、暗闇でも衰えない判断能力と動体視力の賜物だ。けしてカカシが"写輪眼"だけの忍びではなく、総合的に優れているのだと示すような光景だった。
足もとに広がるは闇と灯火。
灯火には必ず人がいる。
カカシは吹き上げる飛沫を含んだ風に、目を眇めながら、闇に沈む無数の命を思う。他国の戦、忍びの暗躍、自国の思惑、己の生活。矢羽の届く大通り、並ぶ物のない店頭、枯れたままの街路樹、落書きされたままの家壁、ひり付いた空気の若者たち、そして多くなった兵士の姿。
それらは、すべてカカシの考慮の範疇外だ。たとえどうにかしようとしても、できるものでもない。己はただの忍びであり、ただ任務として関わり、任務長として、課されたものに忠実であることが重要なのだ。
だが、―――それを自覚しても、カカシのなかで何かが声をあげる。
己が出来ることを放棄する理由に、それは成るのか、と。
いま自分にやるべき役割があり、守るべき対象があり、保証される褒美もあるなら、それを第一にすべきだろうと考えつつも、一方で、己に判断できる材料があり、左右できる事象が存在し、かつそれを実行できる立場にあるのなら。
目の前で仲間以外の命が消えるのを見るとき。
かすかにでも抵抗を覚えるのなら。
ならば、己の手の届く範囲ぐらい、どうにかしようとして何が悪いかと。
そう開き直る声が、カカシに答えるのだ。
「バカでごめんね」
頬を切るように掠める飛沫に、呟きを流した。
いまから向かう先の仲間に向かって詫びる言葉。長を任せられている身として誰にも漏らせはしないが、自分を信じて動いてくれている部下へ、仲間へすまないと思う。余計な危険をふやすような部隊長でごめんね、と謝る。
「その分、働くから」
ごめんね、と呟きながら、額宛ての下、カカシの左目が熱をもって疼いた。
2003.12.24