黄金の月







 帰りたいなぁ。

 誰ともなしに呟いて、カカシは携帯食を頬張った。
 傍らで同じように休息をとっていた男が「まったくです」と静かに応じる。
 あの後味の悪い任務から早二年以上が過ぎていた。
 真冬の寒気が晒した面に突き刺さるようで、カカシは水を一口含むと面布を戻す。夏季よりもずっと早い入相の朱に目を眇めた。
 カカシたち木の葉の忍びがこの地に着いてから、もう二週間になろうとしていた。
多国間の国境争いに忍びを狩りだすのはけっこうだが、無駄に戦地を移動させられたり、忍びの特性を無視したかのような正面攻防を強いられたりと、カカシを含め他の隊員にとっても、溜息のでる様相を呈してきていた。
戦地へと指令を送り、カカシたち忍びを動かすのは依頼人だ。それが下手を打てば、カカシたちも危ない。たいていの場合、あまりに信のおけない依頼人には木の葉からのお目付け役などが依頼人に付き添うのが常套だが、あいにく、今回はそれがなかった。

 はやく終わらせなければ。

 その思いは指揮をとるカカシと、里にいる上層部も同じ思いだっただろう。無能とも判じれる依頼人が下手をうつまえに、一人でも多くの木の葉の忍びを、無事に里へ帰さなければ。
 カカシは疲れた様子で身体を休める部下たちに一言いいおいて、腰を上げる。先ほど答えた男、副長がどちらへ、と律儀に訊いてきた。

「後方からの連絡がそろそろ来るからね。いいよ、まだ時間は有る。休んでろ」

 野営地を離れ、適当に歩きながらカカシは昔のことをぼんやりと思い出していた。いつでも、肝心なところが依頼人任せであるのは変わらないな、と。



 あの日、女の嗚咽を背に病院をでてから、カカシは事実を確認するために資料室へ向かった。
 季節は六月の半ばを過ぎていたように思う。室内は外の陽光溢れる様子とは一転して、ひんやりと薄暗く、いかにも後ろめたい心地がしたものだった。
 カウンターへ顔を見せれば、古びた職員が何も言わず分厚い資料を取り出し、カカシへ手渡した。一番上に"閲覧希望者一覧"と題うたれた書類があり、カカシも何もいうことなくそれへ名前を記して、資料を受け取った。
 いくつか並んだ閲覧机で、資料をめくる。
 それは随分と要らない情報までファイルされていたようで、カカシは知りたいことのみをそれから引き出していった。
 ひとつ、奥方がなぜ消えたか。
 それは籠のなかの刺客が死刑囚であったことにも大きく関係していた。ことの発端といえたのは、奥方の生国が、その刺客と同じ国であったこと。そして幼いながら言い交わした仲の恋人が居たこと、だった。
奥方の身分はそれほど高くはなく、また、大名とその国との力関係も、同じく奥方にとって不利に働いた。大名に望まれ、半ば連れ去られるように生国を去ったということだ。
 良くある話だ、とカカシは物語をみるような心地で資料をめくる。
 近年、大名とその国の交友関係が悪化し、また大名もいっかな靡かぬ女を疎ましく思い始めていた。けれど一度は、政略もあったにせよ、望んで迎えた妻に情もある。そんな中で、大名は己の妻が自ら生国へ帰るすべを模索していたことに気づく。
 子供も生まれ、気の弱さが気になるが、病気らしい病気もなく、妻として役目は果たしたと大名は考えたという。見てみぬふりで、帰してやろうと。しかも、それを刺客に襲われ死んだことにすれば、出奔されるよりは己の面子に傷は付かぬ。そこで、忍びの里に一枚噛ませ、全てが承知のなか、知らぬは末端ばかりで事が進んだのだった。
 カカシは無意識に眉を寄せ、資料の文字を追う。
 そのなかには事後の仔細が僅か、記されていた。
 奥方はすでに"奥方"にあらず、ただの"女"として生国へ帰りついたらしい。生国から出し帰らぬ人となった死刑囚については、その家族へ僅かな手当てが配されたそうだった。そして、カカシたちが殺した忍びについては、木の葉の死体処理班が向かうまでもなく処理がされていたこと。任務は滞りなく予定通りに終わり、大名も満足の態であったことが記されていた。
 カカシは資料を閉じた。
 くだらない、と面布の下で呟く。
 なにが滞りなく、だ。
 ある程度予想はしていたが、やはり読んで気分の良くなるものでもなかった。
 身分、という社会的なカテゴリーが、より少数に、より支配的になるに従って、どうしてこうも身勝手に人は成れるのだろうと、不思議にさえ思う。ただの手足である忍びが考えることではないのかもしれない。だが、人である以上、心はあるのだ。
 Dランクに始まり暗殺もこなしてきたカカシが、いまさらこんな青臭い思いを抱いていると他の者が知れば驚くだろう。けれど、いまさら、といわれようが、それが今回カカシが学んだ実感だった。
 人が、人を殺せと命令できる現実への。
 そして、それを生業として人を殺める己への。
 諦観をない交ぜにした怒り。
 嘆き。
 そして生へしがみつく強さ。
 己の生と、仲間の命への、執着。
 カカシは資料を受付に返し、薄暗い資料室をでた。
 陽光は、薄闇になれたカカシの眸を焼き、一瞬、なにもかもが真っ白に見えた。



2003.12.24