黄金の月





 ―――――――――その瞬間は、瞬きの間だった。

 国境から、検問を丁重に通され、小半時も進んだ頃合だった。
 突然、激しい爆風と陽光を遮る土壁が、大名の妻の籠をとりまきそびえ立った。
 籠をかいていた男たちは、先ほどの休憩で忍びに替えていたので、その土壁のうちには男二人にカカシ、そして籠が残された。
 突如の轟音、籠をおそった衝撃、走った緊張に、籠のなかから声があがってもいいようなものだが、カカシの耳には叫び声さえ聞こえなかった。
 カカシは素早く印を切った。

 術返し。
 より圧倒的な、そして高位の土遁の印を切り、険しく人の身長の三倍はそびえ立つ壁が、ぼろりと土くれに還り、崩れ始める。

 一瞬の出来事ではあったが、崩れた壁から覗いた周囲の様子は、慄き震える侍従たちと、険しい顔を取り戻した仲間たちで張り詰めていた。
 カカシはさらに豪風を起こし、術をしかけてきた相手にみせつけるように、さらにすさまじい風を巻き起こし、街道沿いの木々をなぎ倒し、砂埃を空に撒きちらした。
 瞬く間の攻防に、カカシの耳はキンと張り詰める。

 おかしい。

 籠からなんの音も聞こえない。  出立の時、一声をかけたが、確かに応えはあったのに。
 胸騒ぎにそのまま従い、カカシは誰が止める間もなく籠の御簾を跳ね上げた。
 薄暗くみえた狭い暗がりから、カカシにむけて飛び出してきたのは、少なくとも大名の妻という人間ではなかった。一瞬で捉えたその姿は、ぎらつく目でカカシを真っ向に見据え、脇腹に鈍く硬いものを握り締めていた。

 守るべき人間の居る場所からの、殺意。
 体が勝手に反応しようとしたその時。
 温かな影が滑り入ってきた。

 それが、昨晩のうちに忠告し忘れていた女だと認識したのは、愚かにも、殺意が女の脇腹を貫いたあとで、次の瞬間にはカカシは刺客の首を跳ねていた。
 女が力を失い崩れるのを横目で見ながら、カカシは沸くように現れた、見知らぬ忍び装束たちに向き直った。
 無言で動いた。
 脳裏の意識が、殺意へと塗り潰される。
 先ほどの刺客が容易く死体となったことで、カカシは相手の実力を中忍程度だと認識した。
 肌を刺す殺意を振りまきながら、カカシは一人、また一人と喉首を粘土細工を切るように、胴体から切り離していった。
 断末魔も聞こえない。
 その無音であるかのような殺人が止まったのは、こんなときでも紫煙を手放さない、見知った上忍が立ちはだかったため。

「おい」

 咎める声音に、カカシも我に返った。
 しまった、と咄嗟に思う。

「奥方は」
「分からねぇ、連れ去られたようでもねぇ」

 当の籠から敵が飛び出てきたというのにか。
 だがそれを問う隙も惜しく、カカシは籠へと駆け戻る。女が、他のくの一の治療を受けていた。脇腹を貫通した忍び刀へ毒でも塗っていなければ、十中八九、助かるだろう。
 カカシは自分が殺した数を含め、敵の死体を数えた。その血だまりは、およそ八つ。少なくは無い。この奇襲が陽動で無い可能性のほうが高い。
 とすれば敵は奥方の籠を一直線に狙ったことになる。
 だが籠からは、守るべき任についていたカカシたちを狙う刺客。
 籠に刺客が潜んでいると分かっていれば、わざと籠を狙う必要はまったく無い。

「―――…どうなってる」

 カカシは低く呟いた。
 一行は道のなかばで立ち往生し、力ない侍従侍女は震えて一箇所に固まっている。
 濃い血臭が辺りに漂い始めた。
 返り血が滴る腕を振るい、カカシは考える。

 奥方はどこに―――。

 あの籠に奥方が居たならば、話は簡単だ。
 敵の素性は政敵か怨恨かのいずれか。
 これまでにもいくつもあった、知らされていない事情による、敵忍による強襲。だが今回はそれだけではない。
 守るべき奥方が消えている。
 しかもそれを、襲ってきた敵は知らなかった。
 動き、奥方の行方を追おうにも、手がかりがない。
 いつ消えたのかも分からない。
 だがカカシは、朝の時点で、籠へと入っていく姿を確認している。その声も記憶していて、先の休憩の出立際には、声をかけて返答さえ聞いているのに。

 いつ入れ替わっていたのか。
 カカシは、その刺客の死に顔を見下ろす。強張り、目が血に濡れている。死ねば皆同じだ。
 しゃがみこみ、胴体へと手を伸ばし、やがて知りたかったことを知る。
 死体からは、その刺客が、ここからは遠く離れた国の囚人であると判別した。カカシが特に物知りというわけではない、死体の引き裂かれた首に、鎖の刺青が見えたからだ。たいていのものなら知っている。死刑囚、という意味だ。

「アスマ」

 呼べば、男も同じように、転がった八つの死体を探っていた手を止め、カカシを見た。
 言わずとも互いに歩み寄り、小声で話す。

「籠の中のは、この国とは無関係だね」
「こっちはちっとヤベぇな、額宛こそ付けちゃいねぇが、…ここの国の忍びだ」

 やっぱり、とカカシは小さく頷いた。

「てことは別々か、奥方を攫ったのと、襲ってきたのは」
「ああ。俺は朝から休憩のとき以外は籠についてた。けど言い争った声も聞こえなかったし、朝、籠に入る姿を見ている。相手はよほどの手馴か、もしくは自分から付いて行ったか…―――」
「面倒臭ぇ話だな」
「しょうがないでしょ。追っ手をかけないと」

 やれやれとアスマが後頭部をガリガリとかいた。本当に面倒臭そうだ。カカシとしても、自分の失態としかいえないこの事態に、舌打を盛大にしたいところだった。

「心当てはあるのか」

 カカシは首を横に振った。
 だが心当たりがなくても、山歩きなどしたこともない女を抱えての道行きは容易ではない。
 もしかすれば今朝、出立した宿街か、先へ行った宿街か、少なくとも野宿はしないだろうとは推測した。
 だが―――。

「人手が足りないしね、困ったな」

 宿を探すにしても、カカシと、人を借り受けても、それでも足りない。
 連れ去った者が忍びでないとも言い切れない。
 眉を寄せて、カカシは血濡れた手で頭をかく。こうしているあいだにも、着々と、目標は遠ざかっているというのに。
 そのときだった。
 かすかな声を聞いた。
 カカシの名を呼んでいる。

 背後からのそれに振り向けば、仲間のくの一に支えられつつも、女が身体を起こし目を開けていた。
 脇腹の止血帯からは、一面を染めるほどの出血がみられ、一刻も早く横になり治療が必要だった。応急処置だけでは危ない。
 カカシは女の傍らに膝をついた。
 掠れた声が、途切れ途切れに告げる。

「その、男の、国、に。行ったよ、き、っと」

 指は動かせずに、女の目が、血に塗れている縛鎖の刺青をみる。

「どうして分かる」
「歌、をう、たってた。きの、う」

 そういえばご機嫌で歌を口ずさむとは言っていた。

「恋、のうた」
「そうか」
「ふふ」

 青白くなりつつある唇で女が笑った。
 訝しく見つめるカカシに、カッコ良いね、と吐息で女は言い、意識を失った。  







 結局、追っ手はかけなかった。
 否、かけることを良しとされなかった。

 女が気を失った後、くの一の一人を救護につけ一足先に街へと向かわせた。そしてアスマとの短い情報交換に打ち合わせをし、大名へと伺いを立てたのだった。
 そして、そこで話が終わった。
 大名が、追っ手をかけずとも良いと、籠の中から言ったのだ。

 それでは任を果たせぬと、苛立った声音を抑えつつ慇懃無礼に進言すれば、依頼人の希望を聞くは第一の任務だと、大儀そうに返された。
 カカシは音が立ちそうなほど奥歯を噛みしめ、そしてまた、一行は死体を残して進んだのだった。



 夜半、カカシは宿の屋根に上がった。
 そこには示し合わせたように、紫煙をふかす大男が居る。
 手には伝書用の小鳥がとまっていた。

「なんて書いたの」
「これは初めから仕組まれた任務だったってな」

 カカシは鼻を鳴らす。

「こっちは酷い怪我人だして、仕組んだ相手は今、この屋根の下で高鼾か、世の中上手くできてるよね」
「まあそう言うな。これにゃ、裏を取ってくれるように書いてある。本当に仕組んだのは誰か、明日には分かるさ」

 生ぬるい夜風を切って、小鳥は羽ばたいていった。
 しばらくは月が白く、その姿を照らしていたが、やがて闇と同化した。

 カカシたちのまとめた事実、推測はこうだった。
 籠を襲った者と籠の中に居た者は別の目的を持ち、そして奥方は遠い国からの「迎え」を待っていた。
 奥方の籠を襲った忍びは、大名の雇った者たちである。
 忍びは奥方を殺す為に雇われていた。
 ここでおそらく誤算であったのは、籠のかき手が忍びに変わっていたこと。
 カカシとアスマを含めた木の葉の忍びが、想像以上に優秀であったこと。
 そして肝心の奥方が、消えていたこと。

 だが、どうして籠の入れ替わりが死刑囚であったのか、どうして自らの妻を殺そうとしたのか、どうして奥方は消えたのか、不思議は残る。
 せめてと、昼内にカカシは忍犬を放っていた。

「奥方、生きてんのかなあ」

 なんとなしに呟けば、今度はアスマが鼻を鳴らした。

「そんなことより、お前、イロの心配してやれよ」
「うぇー、イロって、そんな言い方やめてくれる、オヤジィ」
「うるせぇ」
「それに依頼人の関係者は、準依頼人じゃない。生きててもらわなきゃ困るし」

 女の容態はさっき確かめてきた。意識は無く、呼吸はまだ荒かったが、積み重ねてきた忍びとしての体が女を生かすだろう。しばらくは床から起き上がれないかもしれないが、命は助かった。
 カカシは溜息をつく。

「どうした、お前でも女に庇わせちまったときにゃヘコむか?」

 からかい混じりに、カカシは苦笑を返した。
 アスマはいつでも、たいてい、こうやって暗い気分を、毒を混ぜても明るくする。
 そういうところはカカシには真似できないと思わせるところであったし、今のカカシにとっては、少しばかり愚痴りたい心地も手伝って、ありがたかった。

「ヘコむよ。庇われなくても大丈夫だったけどさ、それより、庇われたことに、ちょっと落ち込むね。そんなこと、してくれなんて言ってないのに」
「酷ぇ男だ」
「なんでよ。俺は庇われるのなんか真っ平だよ、勘弁してよ。しかもあんな楽勝な場面でさ。死なれるなんて、ほんと、ごめんだよ」

 自分を庇って、人が、仲間が死ぬなど、まったく心の底から遠慮願いたい。

「けどよ、健気っつーんだろ、あぁいうのはよ。報いてやれよ」
「…アスマってホントに人の世話焼くの好きだよね。口癖、変えたら?」
「言ってろ」

 夜の闇に、煙草の白がふわっと広がった。

「一言ぐらい、労わってやれよ」
「…ちぇ」

 忍びとて人。
 アスマの分別有る言葉に、さすがにカカシは反発する気がなくなり、幼く拗ねた。

「ガキだな」

 くつくつと喉を鳴らして笑い、アスマは軒下へ姿を消した。
 きっと夜番へと戻ったのだろう。
 残されたカカシは、憮然と口を引き結ぶ。
 ちぇ、と再度、口中でごちる。
 自分がガキなのは言われなくても分かってる、と言い返したかった。
 女が刺されたときに少しばかり逆上しそうになったのも、そのあとには自分の失態が頭を占めて女を省みなかった態度も、ぜんぶ、自分が子供で、バカだからだ。

 分かってるよ、自分で。

 悔しさが混ざった、拗ねた心地でカカシは屋根に胡坐をかいた。
 太り始めの月がのんびりと浮いている。

 愚かで。
 一人。
 カカシは膝に肘を立てて頬杖をついた。
 人を殺して、自分は生き延びて。
 でも他人は死んで。
 感謝を思えなくて、愚かで。
 自己嫌悪で。

「……あーぁ」

 休息を求める体とは裏腹に、渦巻くような胸の中が、一時の睡眠も許してくれそうになかった。
 こんなとき、深い深い水辺でもあれば。
 そう思ってすぐに、カカシはいっそう気鬱に塞いだ。

「ほんと、バカだよな、俺」

 女、水底、眠り。
 逃げ道ばかりを探している。

「強く、なりたいな」

 零れた弱音は、月だけが聞いていた。



2003.7.14