黄金の月





 任務は単調で簡単、そして酷く煩雑だった。

 カカシにとって、自国の大名の護衛は幾度か経験があったが、今回の任務の違いはそれに妻子とその従卒が大勢ついてきていることだった。
 少なくない侍女と童女、黒光りする煌々しい長持ちの数々。どうりでくの一も護衛任務に入っているだと、カカシはその嵩高い様子を眺めながら思った。最初は、大名だけならどうしてくの一を配備させるのか、趣味の悪い大名かと疑っていたのだが。
 そして今、カカシは従卒へと服と姿を替え、端から色よい布をたらした籠へと付き添っている。
 中ではきっと、奥方が退屈なだけの旅程にアクビを噛み殺しているだろう。出立から今日まで、一度も、このものものしい護衛にも関わらず何も起きていない。

 本物の従卒が大半だが、それらにも注意は払いつつ、何も起きない護衛というのはなんとも煩雑で、気疲れのすることだった。まだ若いカカシにはそれが苦痛で、いっそ戦場のほうが、よほど肌にしっくり馴染むとさえ、何度も思ったものだった。
 前を行く大名の籠にはアスマが添っているはずだが、彼はどう思っているのだろう。
 自分と同じように退屈し、かつ気は抜けないと、緩みがちな気を引き締めているころだろうか。



 ちょっとした騒ぎはその夜の、宿での遅くに起こった。
 一人の侍女が悲鳴をあげながら浴場のほうから惑い転げ出てきたのだ。
 慌てたのは脱衣所まで付き添っていたくの一たちで、懸命にその侍女へと声をかけ、落ち着かせようとしていた。カカシたち男衆といえば、あられもなく裸同然で転び出た侍女を見るわけにもいかず、カカシは廊下の柱で姿と目を隠しつつ、傍で様子をみているくの一を指で呼ぶ。

「なんなの? 覗きでも出た?」

 呼ばれた女は肩を竦めて笑った。

「ううん、カエルだって」
「? なに、それ」
「ぴょんぴょん跳ねる、あのカエル。背中に張り付いてるの〜!って大騒ぎ」

 カカシも苦笑を漏らした。

「可愛いね。それで、他には変わりない?」
「そうね。カエルはどこかに逃げちゃったみたい。あんなに大騒ぎしたらカエルも可哀想よね」

 女は笑いながら持ち場へと戻っていく。
 カカシも戻りながら、それでも僅かに引っかかりを覚えた。

 忍びにも苦手・不得手はもちろんある。
 しかしそれはあくまでも「苦手」「不得手」の域に留まるもので、あんなふうに錯乱したようになることは滅多にない。冷静であれ、というのは忍びの心得のひとつだ。
 それを忍びでない一般人にまで求めるのは酷というものだろうが、それにしてもここ数日、山道や川沿いを歩き詰めできた女が、騒ぎに隠れてしまうようなカエル一匹にあそこまで騒ぐものだろうか。

 考えすぎか。

 首を捻りながら、カカシは持ち場へ待機する。
 くの一たちからの要請もない以上、あまり気にしすぎるのもどうかと思うが、少しばかり、この平坦な任務に気を引き締めていく必要がありそうだと思った。

 油断は、死を呼ぶ。







 カカシが二度目に疑問を抱いたのが、旅程も半分を過ぎた夜のことだった。
 あれからなんの騒ぎも起きず、旅は平穏そのものだった。
 翌日には国境を越え、数日も進めば任務完了だ。長いわりに平穏すぎる任務に、大半の忍びは慣れた様子で、侍女や侍従とも仲良く連れ立っているものもでてきた。

 その夜はカカシの夜番だった。
 全体の約三割ほどの手数で、大名、その妻、子の部屋と宿周辺を寝ずの番で警護する。何も起こらないと経験則で学んできた仲間のなかには、手持ち無沙汰で花札までしているものたちもいた。
 カカシは特に注意しようとはしなかったが、一人、大名たちが寝ている離れの外へと位置を決めた。
 屋根裏はすでに夕刻に封鎖ずみなので、あとは外からの訪問者へ注意しておけばいいと思ったのだ。離れのなかは、他の仲間が居るだろうし。

 そう思って、木陰に身を潜めていれば、ふと知った気配が忍んできた。
 やれやれ、とカカシは肩を竦める。

「怒られるよ?」
「だって、会いたかったんだもの、ダメ?」

 顰め面でいうカカシに、赤毛の女は言い訳がましく、それでも窺うような声でいった。
 この夜陰のなかでは女の髪は、むしろ黒に近く見えた。
 あの少年のイメージが、カカシの脳裏を一瞬だけ、掠めていった。
 だがそれは女の肌から香る、かすかな花のような匂いに消えていった。
 カカシにとって、あの少年のイメージはいつも、無味無臭の清水だ。

「それにこんな退屈な任務、初めて。なんにも起こらないんだもの。なのに持ち場から離れられないし、あなたと一緒に居れないし、やっと夜番が重なって嬉しかったんだもの」
「はいはい、分かったよ」
「ふふ」

 すり、と女の体温がカカシに寄り添う。
 この旅のあいだ、遠ざかっていた温もりが素直に嬉しく、カカシは口を苦くするのをやめた。
 女もバカでもなければ弱くもない、いざとなれば自分の身を守れるだろう。

「そんなに退屈?」

 忍びの習い性か、カカシは考えてのことではなく、ごく自然に女に探りをいれた。女のほうはといえば、それを疑う様子も無く、あっさりと首を縦に動かす。

「そりゃそうよ、こんなにたくさん里から出させといて、何にも無いんだもの。休暇と思えばいいっていう人も居るけど、休暇だったらこんなに退屈じゃないわ」
「まあね」
「でも不思議なことはあるわよ」
「どんな?」

 ふふふ、と女がカカシをみて笑った。

「カカシってカッコ良いね」

 すっと夜風が動いて、カカシの口布が下ろされて唇が触れてきた。とうとつな女の言葉に訊き返したかったが、それよりも目の前の温もりを貪るほうがカカシには有為に思えた。そのまま、僅かにひらいた女の唇へ、舌を差し入れて、柔らかな感触を楽しむ。
 暫くの交歓のあと、女は名残惜しそうに頬を摺り寄せてくる。
 それを無言で受けながらカカシは訊いた。

「不思議なことってなに?」
「もう、ほんとにカッコ良いんだから。いつでも忍びの顔なのね」

 ―――ああ、そういうことかと、カカシは苦笑した。

「奥方さま、居るでしょ? 彼女ね、何故だかしらないけど一昨日あたりから随分ご機嫌なのよね。カカシ、お昼間、籠についてるでしょ、歌でも歌ってなかった?」
「歌? …そんなの聞こえなかったけどな。そんなに?」
「そうなの。夜なんて、ニコニコしながら鼻歌まじりで髪梳かしてるのよ」

 確かにそれはちょっと不思議だ。

「旅の始めからじゃないんだ? そのご機嫌な様子は」
「違うわ。むしろ反対。ヒステリー起こすかっていうぐらい喚いてたことだってあったんだから。そんなに行くところが楽しみなのかって、ちょっと思っちゃった」
「ふうん」

 忍びには必要事項以外の説明は受けない。
 任務を遂行する上で、必要だと思われることを、任務を受けるさいに上層部が判断し、訊き、調べるだけで、その他の個人的事情というものは一切詮索を禁じられている。
 といっても、こういった幾日かでも共に行動する任務ならば、忍びの習い性で目や鼻が動くというものだ。また、その習い性に、後になって助けられることも少なくない。

「そういえば部屋、別々で寝てるよねぇ」
「え? あぁ、あの方たちね、そうよね、わざわざ一緒に連れてきてるのに変よね。私たちの目を意識してるってわけでもなさそうだし」

 大名とその妻。
 この旅程の目的自体は、内容までは知らないがただの公務だと知っている。
 行き先の国は大きな国で、確かに温泉や歓楽街、名所や景勝地もあるが、わざわざ妻子を同行させる公人は少ないだろう。
 特別、夫婦仲が睦まじいのであればそれも納得できるが、不思議といえばそれも不思議だった。

「子供…坊ちゃんは何歳だっけ?」
「そうねぇ五歳ぐらいかしら、どうしたの? そんな難しい顔して」

 大名の子は幼い。そんな幼さであるにも関わらず、随分と大人しい。
 この道程のあいだ、考えてみればカカシがその姿を見たのは、宿に出入りするときの、日に二回ほどだけだ。その様子も、俯き加減で、見慣れぬ風景にはしゃぎ笑うでもなく、ここはどこだと戸惑った風。内向的な様子だった。

 ―――むしろ、大名の夫婦仲、家族仲は睦まじいのではなく冷え切り、猜疑心でお互いを縛りあい、こんな公務にも連れまわすほどなのではないだろうか? そして子供はそんな両親のあいだで、ひたすら口を噤み…

「カカシ? どうしたの?」

 女の声でカカシは居眠りから覚めたように、ぱちりと瞬きをした。
 怪訝そうに、闇の中、女が見ている。
 カカシは苦笑して「なんでもない」と首を振った。

「―――なんか隠し事が多そうな夫婦だね。今回のお偉いさんは」
「そうね」

 カカシの言い方が可笑しかったのか、女は小さく笑った。

「でもそれもあと三日ほどよ…それより、ねぇ…」

 囁かれた言葉はふいに熱をおびたようで、カカシの頬を掠めた。
 女の体がカカシにぴたりと合わさる。
 柔らかな体は、鍛えられたしなやかなカカシの体に、夏前のぬるい夜風も入る隙間がないほどに密着する。熱く、どこまでも柔らかい二形がカカシの胸に押し付けられた。

 それに一瞬だけ、血が蠢くような興奮を覚えたが、カカシはその細い肩を押し戻した。
 カカシとてこの短くはない退屈な任務中、馴染みの肌を確かめたい思いはあった。
 この任務がたとえば、はっきりと休息時間や各自の自由にしてよい時間があれば、気兼ねも無く女を誘っていた。だが今回は、何よりの優先事項が依頼人の人命であり、警護する側に一度の過ちも許されない類の任務だ。
 ましてや性交のあいだ、無防備になる自分をどうやって守るのか。
 警護任務において、カカシには誰かを抱こうという気が起こらなかった。
 その完全な任務遂行と、そして自分の安全のために。

「どうして?」

 女は引き離されたことに眉をしかめて、口を尖らせた。

「俺だってしたいけどね、終わってからにしよう」
「だって…」
「どうしたの、そんなに寂しかった?」

 今度はカカシが女を引き寄せ、だが熱を含まない優しげな手つきで、その背中をぽんぽんと叩いてあやす。女は無言でそれを受けて、ややあってぽつりといった。

「だって、今度いつ、あなたと一緒の任務につけるか、分かんないじゃない…」
「なんだそんなこと―――」

 いいかけたカカシを遮って、女は急に声を荒げた。茂みのなかとはいえ、少しばかり大きすぎる声。カカシが止める隙もなく、女は叫んだ。

「―――だって、貴方が抱いてくれるのって任務のあいだだけじゃない! 里に戻ったらまた他の人と…!」
「それは―――」
「いいわよ、もう!」

 ザザッと茂みの葉が激しく揺れ、闇が残った。
 そして去っていってしまった温もりに、カカシは独り、後頭部をかいて苦笑した。
 言い訳をする間もなかった、というよりも言い訳をできる素行をしていない自分に思い至ったからだ。女がヒステリックになるのも理解できないことはなかった。
 だから、カカシとしては苦笑するしかない。

 確かに、任務を離れて抱く女といえば、里の花街の馴染みになる。
 わざわざ任務中に知れた仲となった女たちのもとへ、里に戻ってからも通い通わせるのは、すこし億劫だった。
 里は日常、だから。
 女たちにも生活があり、家があり、知り合いがいる。それらとも繋がりを持とうとは思わなかった。
 だから、任務中だけ、と断わりをいれて抱き合う女もあるし、先ほどのようにいわずとも知れている場合もあるが、ほぼ全ての情人は任務のあいだだけの関係だった。

 場所を変えよう。

 カカシは立ち上がり、音も気配もない動きで、潜む場所を変えた。
 それからようやく、警護には気をつけろと女に忠告しようと思っていたことを思い出したのだった。






「よお、やけにピリピリしてんな」
「―――…まあね」

 翌日の昼も過ぎたころ、そろそろ国境を越えるかという辺りで一行は暫くの休息を取っていた。交代要員で、大名とその妻子の籠には別の者が付き、カカシもつかのまの休息を取っていたところだった。
 腰の袋からだしていた水筒をしまいつつ、カカシはのんびりと言う。

「なんかさ、怪しくない? 今回の」

 アスマは癖のように持ち歩いている紫煙を、火をつけずに口端へ挟んでいた。
 それが小さく動いて、アスマが口を可笑しそうに歪めたのがわかった。

「どこらへんがだよ」

 その問いかけは、幼いころに指導教官から受けた意地の悪い質問に酷似していて、カカシはやれやれと思いつつ答えた。

「まずひとつ、護衛っていって物々しくしてるわりには、特に危険な道を選んでるわけでもないし、急いでるわけでもない。それに実際、何も起こらない。俺やアンタはそれなりに高いだろうに、金の無駄遣いだ。そして二つ、女子供を同行させる必要性に疑問点がある。夫婦仲が良いってわけでもなさそうだし。…まあ俺たちに知らない事情があるのかもしれないけど。それから三点目」
「まだあるのかよ」
「アンタが訊いたんだろ。最後まで聞けよ」
「へいへい」

 飾りだった一巻の先に、ポッと火が灯った。すぐに巻紙を焦がして、篭り火となる。


「奥方の様子が変だね。…何かを待ってるみたいだ」


 アスマの紫煙が昼空へと吐き出された。

「―――何を」
「それが分かってれば、ピリピリしてないよ」

 まったくだ、とアスマが苦く笑む。

「考えすぎだったらいいんだけど」
「手前ぇの勘は、そうそう外れねぇなぁ、嫌な勘は特にな」
「やめてよ、変なジンクス付けんの」
「へっ、有難ぇて拝んでもらっとけよ」

 カカシは軽い溜息とともに、腰掛けていた岩から立ち上がった。立ち姿で煙草をくゆらせていたアスマと、当然ながら視線が同じ高さにくる。カカシはその目を合わせて告げる。

「たぶん、国境、だと思うよ」
「あぁ、人をまわしておく」

 言ったそのとき、休息を終える合図が、国境へと続く道に響いた。



2003.7.14