黄金の月





 翌朝はひどく晴れていた。

 放った忍犬からの収穫は無いに等しく、火影からの伝書もまだ届いてなかった。
 容態はひとつ峠を越したものの、絶対安静といえる女を残し、一行は宿を発った。目的地まであと二日。このまま、この騒動がうやむやになり、任務終了となれば、おそらく失態は木の葉の里の不首尾となるだろう。それはカカシにとって我慢のならないところであったが、このときはまだ、待つしかなかった。

 忍犬をもう一度放ち、苛立ちながら待つ一日。
 街道を見張らせ、国外へと通じる渡し舟や橋へと行かせた。もし、山中を行かれたのなら、すでにその気配は辿ることが困難だ。それならば交通の要所を見たほうが良い。
 カカシは自分の読みが外れていないことを信じていたし、また信じたかったが、それでも隠された事実と待つことへの苛立ちはカカシを無言にしていた。

 おかげで誰もカカシへ話し掛けようとしない。
 一日が終わり、宿へ着いてもカカシは一人で、夜番へと配置についた。
 カカシもまた、すすんで誰かと話をしたい気分でもなかったからだ。
 そこへふらりと表れたのが、昨晩の小鳥と髭男。
 カカシは無愛想に、アスマの顔を見た。

「なんか、分かったの」
「まあそう睨むな。どうせなら女が心配で仕方ないって顔してろ、いい口実だろ」

 どこがだよ、といいながらカカシは座っていた場所をずらし、アスマの居場所を作ってやった。
 狭くもない宿の離れの屋根上は、今夜は風が少しばかり強く、潜む場所としては不適切だったが、カカシが居た場所は、ちょうど風の当たらない、かすかな物音もよく聞こえる場所だった。

「簡単に言ゃあな、この件に関しては、大名の意向に沿うべしってことだ」
「―――…なに?」
「里の方からはな、事情を詮索するは任務の妨げであり、大名本人の護衛に集中せよ、だとよ。つまり、奥方が攫われたことに関しては、大名の意向の内であり―――」

 アスマが言い淀んだ。

「―――もし、奥方がどうなろうと、死んだとしても、だ。たとえそういった事態になっても木の葉の里へ異議申し立てをすることはない、って特約が結ばれていた。この特約にゃ、御付の奴ら全員と、…大名自身の子供も入ってた、ってことだ。ただし、この特約事項は、任務終了まで任務遂行者に明かすべからず、っつーのも付け加えてある」

 なんでもないことのように明かすアスマに、カカシは呆れたような目を向けた。

「なにそれ」
「知るかよ。俺も知ったとこだ。訳がわかんねぇ」

 アスマは小器用に、狭い場所に座っていながらも肩を竦めてみせた。

「こっちは一歩間違えば死ぬような怪我人まで出たんだよ、馬鹿にしてない?」
「そういってもな、依頼者が何かを隠してんのはたまにあるこったし…、まぁ、正直、俺も里がグルでそれを隠してたってのは驚いた。だが、里からの伝書にはこうもあった。里に戻り次第、任務遂行者のうち希望者には事情を明かす用意もある、とな。涙ぐましい心遣いじゃねぇか、現場の一介の忍びによ」

 カカシは鼻で笑いそうになった。
 アスマももちろん、カカシのその反応を予想しての言だ。
 皮肉が溢れている。

「だがまぁ―――、里のほうもよ、誰かに死なれちゃマズイってんで、俺たちを当てたのかも知れねぇ。万が一にも、予想外の損害が出ないようにな」
「ふざけてる、あのふざけた大名も、消えた奥方も、…里も」

 予想外の損害、とはもちろん、忍びの死だ。
 木の葉の忍びの死。
 だが、カカシたちに殺されたあの他国の忍びはどうなるのか。
 全て目論見だったというのなら、算術のように命の足し算引き算をする人間というのは、いったい何なのか。
 奥歯を噛む。
 カカシは里を愛している。
 だが、それを罵倒する言葉が、漏れてしまいそうだった。

「そういうな」

 カカシはアスマへ視線をやった。
 相槌の言葉にすぎないそれに、一言でいえない意味を感じて。
 アスマはカカシを見返さず、視線を遠くへ投げたまま、横顔でぽつりと語る。

「里は断わりきれなかったのさ、この依頼をな。そして里に被害がでない最善の人選をした。そしてそれは、多少の誤算は出たが、上手くいった。事情は知りたい奴は聞けって言ってる」
「それが―――」

 それがどうしたのか、そうカカシは言いたかった。
 アスマがそれを遮る。

「それが里にできる全てだろう」

 ギリッ、とカカシの奥歯が鳴った。
 瞬間に感じたのが、怒りであったのか悲嘆であったのかは分からない。
 所詮は忍びと、突きつけられた事実に対して、今さら虚無に似た嘆きを感じたのか。
 それとも、それでは俺たちはどうなる、と声を荒げ、言葉を飾り巧く言い換えたとしても、それは命の売り買いに過ぎないではないかと、問いただし怒りをぶつけたいと思ったのか。

 理屈では分かる。
 里は、カカシたちが一番、生存率が高いと踏んで、この任務につけた。
 事実死亡者はなく、怪我人が一人のみ。
 里は里で、カカシたちの命を考え、守っているのだ。
 だが。

「――――――…クソッ」

 罵りを吐き捨てた。
 否。
 理屈ではもう、里を責めることができないと、分かってしまったから。
 言葉だけでも罵るしかなかった。

 掌を拳に変え、カカシはそれを額宛てにあてた。
 冷たい金属の温度が、握り締めた皮膚にひたりと吸い付く。

 夜風が急に、カカシの鼓膜を震わす。
 轟音のような渦の風音が、とうとつにカカシに聞こえて来、カカシは瞼を絞り、奥歯をいっそう噛みしめた。

 ここに、平穏な水底は無い。
 音も無く、変化も無い。
 カカシの望む、切望する安定は、無い。

 あるのは、ただ―――現実、だ。
 カカシが人を殺し、曖昧に己を責め、癒され、愚かだと嫌悪し、そして人が死に、思考し、愛し、動く、カカシのままならない現実、だ。

 カカシがどのように思考し、行動しようとも、それにまったく頓着しない人間も居るし、他人を傷つけることを想像しない人間や、契約で縛られた人間を、人と思わない、人と想像できない人間も居る。  多くの人にとって、苦しく傷つく、苛立たしい現実だ。

 ギュッとカカシは瞼を、一度、引き絞った。

 眸裏がチカリと瞬き、白く白く、闇が淡く仄かに灯った。
 光の筋に似た仄かな白色は、闇を薄くする。
 渦を巻く風鳴りが、少し、止んだ。

 額宛の冷たさが、皮膚の体温で、同じ温度に変わった。
 カカシはふっと目から力を抜いた。
 開けた目に、変わらない夜の風景が映る。

「――――――、アスマ」
「なんだ」

 自分は愚かだ。
 本当は強くもないし、賢明でもない。
 女が言うように忍びとして出来ているのでもなければ、人としても、未熟で、愚かだ。
 些細なことで感情は乱れ、人を省みない。
 自分のことで精一杯な、自分。

「俺、――――――強く、なりたいよ」
「……」
「仲間を安心して任せてもらえるように、誰も死なないように、強くなりたいよ」
「手前ぇはもう充分、強ぇだろうが」
「違う」
「どう違う」
「俺は弱い。それを改めて知った。理不尽だ、って腹を立てるのは誰でもできるけど、それで終わる俺は、弱い。理不尽でもなんでも、それをどうにかできなきゃダメなんだって、思った。だから、強くなりたい」

 淡々と言ったカカシの言葉を、アスマはちゃかしもせず聞いていた。
 あとになって、随分と青いことを言ったと自分でも赤らむような言い分だったが、アスマは黙って聞いていて、しばらくして、夜闇のなか、ニヤッと笑った。


「上出来だ」


 豪音のように風音を拾っていた過敏な鼓膜はもう落ち着き、その声は低く、カカシに届いた。
 風は相変わらず強かったが、音はもういつもと同じように聞こえていた。
 拳を、開く。
 開いた掌の先、指先で額宛てをそっとなぞってみた。
 やはり冷たく、だが、―――すぐに体温に馴染んできた。
 カカシはなぜか笑いたくなり、唇だけを歪ませる。

 この額宛てのように。
 全てがこの額宛てのようにいくとは、限らないけれど。


「アスマ、もう寝たら? 俺は最後の寝不番だし、気合入れないと」
「お、いきなり真面目人間になりやがって」
「俺はいつでも真面目だけど」

 軽口を返しつつ、ついでのように言い足した。


「助かったよ、ありがと」


 ぽかんとあっけに取られた顔が、雲間から覗いた月に照らされて、カカシはひとしきり笑った。









 木の葉の病院へ来るのは久しぶりだった。
 来るまでの花屋で見舞い品を見繕い、カカシがその病室を訪れたのは昼過ぎのことだった。部屋は夏間近だというのに、ひんやりと薄暗く、ただベッドの上の女の髪が、浮き出るように赤く映ってみえていた。

「遅くなって悪い。具合、どう?」

 後味の悪いあの任務終了後、女は動かせる容態になり次第、木の葉の里へ運ばれ、病院へと収容されていた。カカシたちはというと、里への帰路までの、新しい任務へと連続で就き、里の大門をくぐったのは昨日の真夜中だった。
 女は、最後に見たときよりも随分と顔色が良くなっていた。
 嬉しげに笑う。

「いいわ。それ、お見舞い?」
「うん。こんなんでよかった?」
「嬉しいわ。綺麗。病室って殺風景でしょ、ちょうど良いわ」

 手を差し向けられて、ベッドに起き上がった女へ花束を渡せば、本当に嬉しそうにそれを抱きしめた。言葉どおりに、具合は悪くないようだと、その様子を見ながらカカシは思う。

「ていっても、あと三日もすれば退院なのよ、私」
「そうなの」
「―――-ねぇ…、カカシ…」
「なに?」

 明るく輝いていた顔が、不意に曇った。そして今度は気弱そうな、何かを恐れるような表情をみせる。何を言い出したいのかが、瞬間、閃いて、カカシは少し急いで口を開いた。

「怒ってないよ」
「……」
「そのことで言いたいこともあって、来たんだ。俺は、怒ってなんかないよ」

 少しばかり焦っていたせいで、言葉がまったく足りないことに言ってから気づき、カカシは言葉を継ぐ。

「いや、違う。怒ってるとか、じゃなくて、そんな権利、俺には無くて、ただ」
「ううん、カカシ、当たってるのよ。違ってないわよ」

 女は少し困ったように笑った。

「私、考えてたの。きっとカカシは怒ってるんじゃないかって。望んでもないのに盾になったりして、いい迷惑だって。そう思ってるだろうなって、ずっと考えてたの。だって、実際、私が勝手に動いてなきゃ、カカシはあいつを生け捕りにだってできたはずだもの。邪魔しちゃったのよね」
「違うよ」
「嘘。いいわよ、本当のことだもの。カカシってカッコ良いけど、たまに不思議なとこで優しいわよね」

 困った顔のまま、女は微笑む。

「ごめんなさい、勝手なことして」
「違う」

 カカシは苦しくなって、眉根を寄せた。
 女の優しさと強さが苦しかった。

「事実としてはそうかもしれないけど、でも、俺は、俺には、腹を立てる権利なんてないんだよ」
「だって」
「ごめん、それから―――ありがと」

 吐き出すように言ってから、あぁ、とカカシは自分に落胆した。
 やっぱり自分はどこまでもバカで子供のままなのだろうか、と。
 労わることも、礼のひとつも真っ当に言えやしない。
 女はしばらく黙っていた。
 訝しく思って目を向ければ、ただ、静かに泣いていた。

「―――…なん、で……」
「…ごめんなさい、でも、―――酷い、酷いよ、カカシ」
「どういう意味…」

 戸惑う。
 泣顔など、いままで共に居て、始めて見た顔だった。
 たまに気弱げな表情や仕草を見せても、けして心から弱い女ではなかった。
 忍びとしての覚悟と気概のある、仲間として認め得る忍びだった。
 こんな風に泣くなど、想像もしなかったことで、カカシはただ、表情には出さずうろたえた。
 言葉も出てこない。
 静かに女の頬を滑る涙を、なす術なく見つめる。
 女は涙を拭いもせず、涙と同じ静けさで言った。

「そんなに、優しくしないで。いっそ放っておいてくれれば良かった」
「……」
「そうしたら、忘れられたのに」

 嫌いに、なれたのに。

 吐息の掠れた最後の囁きは、確かにカカシに届いた。
 面布の下、カカシは唇を噛んだ。
 この場合どちらがより、身勝手なのか。
 そう埒無く思った。
 そして、労わってやれよなどと言ったこの上なく面倒見の良い、あの髭男をなじってやりたくなった。
 だが言えばきっと、だからお前ぇはガキなんだよ、とでも言われるだろうことは想像できる。
 きっとこれは、カカシと女だけの問題だったから。
 カカシと女にも、どうにもならない問題だから。


「ごめんね」


 ようやく、それだけをカカシは言った。
 涙が静かに落ち続けていた。


 そういう意味で、報いることはできないんだ。


 カカシが女に求めていたものと、女がカカシに求めているものが食い違っていることは、二人ともが暗黙のうちに承知していた。
 承知していての関係だったはずなのに、堪えられなかったのか。
 求めては、いけなかったのに。

 カカシは女に背を向けた。
 病室の扉を閉めると、嗚咽がかすかに聞こえてきた。




2003.7.14