黄金の月
翌朝、早いうちにイルカは発った。
女はあれから、イルカを抱きしめたまま寝入ってしまい、イルカもまた昏倒するように寝てしまった。疲れがたまっていたせいもあるだろうし、久しぶりに、少しばかりとはいえ泣いたせいで気が緩んだこともあっただろう。
宿をでて、まだ朝もやが通りを霞ませるなかを歩く。
大門を通用口からだしてもらい、街の匂いとは別の、土と緑の香りを胸に吸い込んだ。
なにか、すっきりとした気分だった。
一歩ぶんだけ立ち止まり、イルカはまた歩き出した。急げば一日のうちに里に帰ることもできる。はやく帰りたいというわけではなかったが、帰りたくないとも思わなかった。
心なしか軽い足取りで、街道を進む。
淡々と歩を進めながら、イルカは胸のうちを探る。
しょうがない男だといった声が、まだ耳に残っている。
ほんとうにその通りだと、イルカは自分を笑う。
カカシの望みどおりになる自分。
カカシになにかを望みたい自分。
どちらも愚かしくて可笑しい。
けれども、それでしょうがないと、イルカは思ってしまった。
たくさんの言えない言葉も飲みこむことにした。
カカシに自分の気持ちを知って欲しいとは思わない、カカシはイルカの気持ちなど知らないままで良い、それでいい。
カカシになにかを望みたい自分は愚かしい。
その愚かしい自分をただ、しょうがないと諦めることにしようと思う。
カカシには、こんな愚かしい自分を知ってほしくはない。
だから隠すことにするけれども、隠したからといってそんな自分が居なくなるわけでもないことは十分承知していて。
イルカは、朝の空気を吸い、伸びをした。
湿度の高い岩土の香りが胸にとどまり、伸びをした体からは、ぼきっと歓迎したくない音がした。
―――ただそれさえも、しょうがないと赦してやることにしよう。
イルカは一晩でずいぶん軽くなった頭を、ぐりぐりと回す。
肩はこっていないが、なんとなくそうしたかった。心因的な軽さを確認したかったのかもしれない。
「さーて、帰るか」
声は、確かに明るく、朝の空気にまぎれていった。
あれ、とイルカは目を止めた。
場所は三日前に泊まった宿の付近だった。朝から歩き昼頃には峠もこして、イルカは旅程の半分以上を帰ってきていた。時刻はそろそろ夕餉にさしかかるころで、イルカはさて一泊しようか、このまま歩けるところまで歩き、野宿にするか迷っていた。
その街道の里にむかう方から、同じ忍服の男が歩いてきていた。
同じ任務ならまだしも、まったくの偶然で、しかも一般人の利用の多い街道ですれ違うなど、珍しいことだった。イルカは視認できる位置までくると、頭をさげて挨拶をした。
体格のよい、髭をたくわえた男の顔には見覚えがあった。以前、任務をともにしたことがある。咥え煙草のその男は、イルカをみて「よう」と返してきた。
イルカはこの豪放な男が嫌いではなかった。上忍としての力強さと、仲間としての心安さを備えた男は、任務でも頼りになる上官だった。
「なんだ、まだ歩くつもりかよ?」
笑い混じりに訊いてきたわけには、イルカのいる場所が、すでに宿場街を後方にしていたからだろう。ご苦労なこった、と男はいう。イルカはそれに黙って笑って、
「それでは失礼します。ご武運を」
腰低く通り過ぎようとしたイルカを、男は呼び止めた。それは剣呑なものではなく、男独特の気安いもので、イルカもなんだろうと振り返った。
「おい、急ぐのは待ってる奴でもいるからか?」
わざわざそんなことを訊いてくる意図がわからず、イルカが返事を躊躇っていると、男はニヤリと、意地の悪い笑みをした。紫煙が、夕闇迫る色のなか、揺れる。
「白粉の匂いがぷんぷんするぜ、せめて落としてから帰らねぇと酷い目あうぜ?」
それだけをいうと、男はじゃあなと片手をあげて、宿場町のほうへ行ってしまった。イルカは後姿を見送ったのち、真っ赤に血の昇った顔を、掌で覆った。頬は熱く、なかなか下がってはくれなかった。
夕月が空にぽっかりと浮かんでいた。
2003.6.11