黄金の月





 受付に指定時刻どおりにつくと、すでに任務書が用意されていた。そして傍らに見覚えのない若い女。旅装支度で、長い髪が一つに纏められていた。一見してくの一とは見えず里人のようで、任務書を繰れば、そこには他国への護衛任務となっている。途中、厳しい山道を通り、山賊の跋扈する峠を越えるため、中忍へ任務が回ってきたようだった。
 イルカは女へ一礼して自己紹介し、行きましょうかと促した。
 女は大人しげな仕草で、無口に礼だけを返してきた。

 受付所を出、里の大門でしばらく待ち合わせてイルカは旅装を整え、二人は出発した。女は無口で、イルカも必要事項以外は喋らなかった。昼餉を摂ろうかと促したときと、夕刻に旅宿に着いたときぐらいだろうか。それも、明日は峠を越えるために野宿の可能性もあるからゆっくり休むように、と事務的に告げただけ。

 普段のイルカなら、たとえばもし他の中忍との共同任務だったなら、こうではなかっただろう。心の中で女に詫びながら、それでもイルカは態度を改められない自分を自覚していた。
 最近の、鬱々とした私生活での煩いが、イルカの口を重くしていた。
 とくにカカシに抱かれた翌日などは、意識しまいとしても身体の端々に微かな名残を感じてしまい、舌打ちを堪えれば溜息がでそうになり、溜息を留めようとすれば思考が渦をまく。鬱々と考えることが嫌いだといってもいいのに、まったく迷惑なことだと言いたい。けれどもそれをいう相手も居らず、イルカにできることといえば口を噤んでいることだけだ。口を引き結んでいれば、少なくとも溜息は出まい、と。

「――――――…もし、忍びの方…」
「はい」
「そろそろ休ませていただきます。明日もどうぞよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします。ごゆっくりお休みになって下さい」

 ふとかけられた女の声に、条件反射のように答えてから、やああって、まとまった声音を聴いたことを意識した。
 宿代を含めた支度金の多さに、イルカは女の生活を鑑み、雑魚寝の飯宿ではなく個室のとれる宿を決め、しかも二部屋とった。行程を考えても、それぐらいは充分に補える支度金だった。
 イルカは女の口調や仕草から、大事かと思ったが、やはり値の張る宿を選んでよかったと考えた。こういった生活に慣れている風の人間をぞんざいに扱えば、あとあとで厄介になるとイルカは聞き知っていた。

「それでは失礼します」

 白木の襖は、軋みもなくゆっくりと閉まった。




 翌日の峠は大変な行程になった。
 朝方からの曇天は、山道を登るころになって小雨になり、やがて身体を凍えさせる霧雨となった。冬入りも間近なこの季節、雨の中の行程は辛い。イルカは何度も引き返したほうが良いようだと促してみたが、女は首を振るばかり。よほど急ぐ用でも待っているのか、イルカにむけて訴えるような目を向けてきた。

 イルカはそれを、溜息まじりの吐息で首肯した。
 妨げは雨のみ。峠とはいえ、崩れるような道でもなく岩山だ。依頼人の安全が第一とはいえ、第二に依頼人の望みとなる。こうまで縋るように訴えるのなら、その意に沿うようにするべきだろうと判断した。

 だが、山道を登るにつれ冷える気温と、身体。足取りも重く、予想できたとはいえ、この分では峠も越えずに野宿となりそうだった。そして懸案もある。必ずとはいえないが、ここ最近、この峠で頻発する山賊強盗。手口は残虐で、全て殺し、全てを攫っていく。
おそらくこのあたりの農業従事者であったのではないかとイルカは思う。歩いている山道や木々のあたりを伺えば、みえるのは赤い色がまじった硬い岩石ばかり。こんな岩山では山の恵みは少なかろうし、その麓ではさぞかし農作物の収穫は難しかろう。それを苦にしたものが、街道の辻強盗に転身するのは、おおむね世の常だったし、想像も容易い。
地盤の恵みが少ない土地ほど、搾取は激しく、苛烈になる。強盗も例に漏れず、こんな岩山で人通りが多ければなるほど、手口が非道の一途をたどるのも頷けた。

 だがそれを理解はしても共感する筋合いはイルカにはなく、目下の任務は、そんな他人を搾取することに味をしめた人間から、ひとりの女を守ることにあった。

 イルカは日もやや翳ってきた頃合に、道の脇、都合よく岩が張り出し地面の乾いている場所を探した。長いあいだ使われている街道のためか、明らかに人がくりだしたと思える岩石のへこみが見つかった。きっと、同じように野宿をきめた人間に、そのつど使われ、場所を広げてきたのだろう。そのへこみは女とイルカが立てるほどには高く、炎を挟んで寝転がれるぐらいには広かった。

 ありがたい、とイルカは息をつく。

 髪から滴がしたたり、額宛をぬけて目を濡らす。手の甲でそれを拭いつつ、防水加工をしてあった手荷物から、手ぬぐいと圧縮済固形燃料をとりだした。手ぬぐいは女へ、固形燃料は地面へ。空気の通りよく置いて、火をともせば、薄暗い雨の景色のなか灯火色が暖かくあたりをてらしだした。
 女がそれに、ほっと肩から力を抜いたようだった。知らず、天気の良くない峠道での歩きは、女に緊張を強いていたのだろう。イルカは努めて明るくいった。

「今夜はここで明かすことになりそうです。濡れた雨具はそちらへ置いて、温まって下さい。すぐに夕餉も用意しましょう、宿のようにはいきませんが食えるものを作りますね」

 不思議なことに、女に気をつかって出したはずの作られた声音は、イルカの心持ちも明るく仕立て上げるようだった。僅か、気鬱が軽くなった気がした。

 空元気、っていうのかな。

 ぼんやりと自分を判断しながら、イルカは荷物から鉄製のカップを取り出す。同じく荷物から取り出した粉をカップに半量、それから塩とネギ味噌、水を加えてかき混ぜた。どろどろの半液状のそれを、固形燃料の中に置く。しばらくすればそれは沸騰し、どろりとした粥になる。荷物の奥から干し肉のかけらもだして、削って入れた。
 女はそのイルカの一連を、ただじっと見ている。見張るというほど緊迫はなく、ぼんやりとしている、といったほうが正しいだろうか。
 無言で沸くのを待ち、イルカはカップを布にくるみ匙とともに渡した。

「熱いですよ。布でくるんでいますがカップの部分には注意をして下さい。足りなければ言って下さい。まだ有りますので」

 丁寧に両手で渡しながら、イルカはそれはないだろうと思っていた。見た目も味も、粗食に慣れない舌では辛かろう。はたして女は、恐る恐るといった様子で、匙を動かしている。その手入れされた美しい眉が、心なしが寄せられていた。
 それを見届けてから、イルカは自身の分も用意し、慣れた様子で半液状のそれを口に運んだ。よく味わえば甘味もある。もとは米をすり潰しているのだから当たり前といえば当たり前だが。
 この食事も、イルカにしてみれば贅沢なものだ。肉は入っているし、味噌も入っている。食べれば雨に冷えた身体も、芯のほうから温もり易くなる。せめて一杯は平らげて欲しいものだと思っていれば、コトリと地面に置かれた音。見ると、完食とまではいかないが、カップの底が覗けるぐらいには食べていた。

「もうよろしいですか?」

 はい、と小さな声が答えた。
 か細い声は高く、まさしく女だと、ふいにイルカに意識させた。
 底に残った粥を岩からしたたる水滴でゆすごうと、イルカは腰を上げて、カップを手に暗闇の端境にたった。背後の灯火からの明かりは、雨闇に向うイルカの前半身を暗くしていた。
 怪しい気配はないかとあたりを探りながら、イルカは女を思う。

 いっそ女の身であればこんな鬱々も無かったことになるだろうか。

 それはないか、あっさり思いついた端から否定した。
 女であったとしても、誘蛾灯に誘われる蛾であることには違いなく。
 惹かれる己を意識しまいとする蒙昧な性格がなおるわけもなく。
 かといって思わずにはいられない己。
 その己がさらに嫌気をもよおして鬱々と考え込む。
 そんな愚かな自分が、性別が換わったぐらいで変わるわけもない。

 うっすらと溜まった雨水を確認して、イルカはカップをゆすり、こびりついた粥をそそぎ落とした。小麦色の粥は、薄まれば白濁になりカップの底で揺すられてかすかな波を描く。その濁ってねっとりとした様子は、朝方の行為を唐突に喚起させて、イルカは掌をひるがえして暗闇のなかへそれを放った。



 浅い眠りに引っかかったのは、下草を踏みしだく少なくない気配。
 愚かな。
 イルカは横になった体勢のまま、急速に身体を呼び覚ます。
 護衛が一人だからと高をくくったか。明らかに旅人ではない、夜盗の気配だ。
 足音や物音から数は十人を超える程度。
 イルカは服装を改めずに、忍び服のままでこの任務についていた。だからこそ愚かだと哀れみたくなった。わざわざ忍びの護衛がついていると教えてやっているようなものなのに、斥候も立てなかったのか。遠目にも明かりを焚いているのだから、イルカの服装ぐらいは見えたろうに。

 イルカはのそりと起き上がり、女に起きるようにと促した。いまだ眠りのなかにいた女は、わけのわからない様子だったが、イルカが気配について話すと身を硬くする。イルカは、岩壁を背にして、奥に居てくださいと伝えた。
 ひそりと、声を暗闇に放った。

「止まれ。そして引き返せ。死にたくなければ」

 一瞬、闇のむこうで気配がさわさわと揺らいだのが分かった。イルカのいったことは嘘ではなかった。この岩屋根の端境にそって向こう、ひとつ引き金を与えれば発動する致死のトラップがしかけてあった。
 だが気配は揺らいだものの、そのまま乱雑な物音をたてながら近づいてきた。夜半になろうかとするころ、霧雨は全てを濡らす本降りとなっていた。雨粒の音と、聞き間違えようのない金属の擦れあう音。

 ち、と舌打ちをした。イルカは印をきった。
 微かな音も兆候もなく術は発動した。
 ある一定の範囲に立つものに、悪夢のごとき幻影をみせる忍術。
 恐怖に駆られて蹈鞴を踏めば、足元の簡単なトラップにかかり軽症をおうだろう。その傷さえも幻術によって酷い痛みとなって五感に訴えるだろう。イルカが張ったトラップとはそういうものだった。

 これで諦めて退いてくれればいいが。

 盗賊のなかに、はぐれた忍びがいる可能性は少ないとイルカは考えていた。女が壁を背に、膝を抱えている様子を目の端にとどめながら、油断なく周囲を探る。
 いまや辺りでは降り続く雨よりも騒がしく、低いうめき声や苦しげな罵りがあちこちから上がっていた。なかには刀を振り回し、手近にいた仲間に切りかかっている気配さえする。もしかすれば、待っているだけで同士討ちを始めるかもしれなかった。

 イルカは、道中に目にした光景を思い出していた。
 峠を越えようかとする旅人に、さかんに、護衛はどうかと声をかけていた男たちがいた。一見して、身なりが粗雑で信用がならない集団にみえた。その付近にあった茶店の女が、その集団に眉をひそめていたことをイルカは見ていた。
 聴いたことがある話だが、ひとつ思い当たる節がある。ある峠道では、山賊が護衛も兼ね、旅人から金品とその命を奪い取っているという話だ。なにもしらない旅人の護衛と称し、峠にくればあっというまに寝返り、全てを奪う。その峠は、あまりの略奪をみかねた付近の住人が、盗賊段の一掃を願って、いまではどこにでもある峠道になっているという。もう古い、里の任務履歴から知ったことだ。

 この峠も、その過渡期にあるのかもしれないと、呑気に考えた。
 辺りは小さな阿鼻叫喚の状況を呈していた。
 女は肩を震わせ、なにがおきているのか分からない様子だ。

「大丈夫ですよ、静かにしていてください」

 怯えた風の女に、穏やかに聞こえるように言った。
 いっそ、望めないほどに己が無能であれば。
 いっそこの身が、かの人と肩を並べられるほどに優秀であれば。
 震える女を背に守りながら、埒もない思考が回る。
 最近はいつもこうだ。まるで呼吸をするように、なにもない頭のなかにいつも、終わりのない物思いが忍んでくる。溜息をついても、頭を振っても離れずに、本当に困る。
 こんな任務の最中でさえ、思うのはかの人のことだと、自嘲も漏れるというものだ。

 やがて、刃を交える気配も絶え、足音がいびつな調子で遠ざかろうとしていた。イルカはそれを確かめ、立ち上がり、さらに印を切った。ひとつめは足もとから立ち上る炎火の術。しとどに濡れた地面から、草むらから、容赦なく業火が立ち昇り、暗闇にいくつかの立ったまま火に包まれる男の姿と、草むらの中から断末魔が聞こえた。倒れていたなかにもまだ息のあったものがいたのだろう。

 イルカは一瞬の視認ののち、手元からの千本を躊躇なく、踊り苦しむ火柱に放った。喉へとむけて放ったそれは、狂いなく突き刺さり、火柱は崩れ落ちた。そして地面にのた打ち回る塊にむけ、さらに豪火球の印を切り、断末魔は炎の轟音にかき消されていった。次々と印を放ち、残ったのは消し炭と、真っ赤に焼けた刀身ぐらいだった。

 炎の塊は数にして九つ。
 数が少ないと視線を巡らしたところへ、か細い悲鳴。
 振り向けば、女のすぐ傍ら、胡麻塩の髭面に汗をびっしょりとかいて震える声で、男が刃を女へ押し付けて言った。
 大人しくしろ、とかいう台詞だったと思う。次の瞬間に、イルカの背後へ大きな塊が張り付いてきて、よくは聞こえなかった。一瞬のことに、イルカは舌打ちをする間もなく、気配がなかったことから忍びくずれかと判断した。イルカの背後の人間は、イルカへ忍び寄ったときに足音がなかった。
 汗をかいて震える老年の男の顔が、笑みへと歪む。

「へ、へへっ、てこずらせやがってっ、いい、男は殺しちまえ! 女は」

 優位を確認したからか、男はどもりながら喚きたてた。背後から伸びる手は、イルカの喉元へ刃を押し当てていた。
 たしかに圧倒的に不利だろうな、とイルカは苦笑した。
 女は人質に、護衛である自分は身を押さえられている。
 おそらく女は犯されて、殺すのでなければ売られる。男は皆殺しだ。はっきりしている男の指示に、感動さえした。
 そして言った。

「悪いね」

 次の瞬間、背後の首は落ち、老年の男の眉間には千本が突き刺さっていた。
 が、と呼気の漏れ出る音が、その男の最後の言葉だった。イルカの背後の人間にすれば、それさえもなく、イルカに忍び寄ったときにすでに、イルカによって首を落とされていた。
 よほどの手練でも、近寄る寸前に香った雨水の香りはごまかせなかっただろう。火のそばに居たのでなければ、もとよりイルカにも気づかなかった。少し、イルカのほうが、運が良かったようだった。その弛緩した死体を見、せめて、幻術をしかけた段で気配もなく退いてくれていれば、わざわざ豪火球をつかうこともなかったのに、と嘆息したくなった。

 首に押し当てられた刀が、力なく地に滑り落ち、女は悲鳴もなく気を失う。
 やれやれとイルカは死体を草むらへ放り、女を楽なように横たえた。先ほどまで女が上かけにしていた羽織を、そっと身体にかぶせた。

 幻術と豪火球などと生ぬるい術ではなく、もっと暗闇で全てが済むようにできればよかったのだが、いかんせん、イルカの手持ちにはそんな術はなかった。けれども、気絶してしまった女は、イルカの不首尾を責めているようにも思えて。
 イルカは溜息交じりの吐息をつき、女から離れて、火を挟んで座った。
 火が揺らめき、女を暗く明るく照らす。
 雨は降り続いている。
 襲撃にきた全ての夜盗をしとめたつもりだったが、また残党がくるかもしれない。寝ずの番をすることになりそうだった。



2003.6.11