かわりになってよ





 眠りはまるで泥のなかへ沈んだようだった。
 抜けがたい疲労が、瞼を重くしてイルカは酷く苦労しなければいけなかった。だが、本当の苦労はそれからで、まずベッドから一人で立って歩くだけでいつもの五倍の時間がかかった。
 最初、いつものようにベッドから足を下ろそうとして、足が利かないことに苦笑して、ゆっくり移動させた。そうして、さて立とうかと力をいれて重心をかたむけた途端に、膝がカクンと音をたてて曲がり、イルカはみっともなく床に転がってしまったのだった。転がったまま、暫し現状把握に努めて、それから今度こそ立ち上がった。だがそれには奥歯を食いしばる必要があった。

 苦労しつつ、なんとか身支度と食事を終え、軋む身体を叱咤して部屋を出たときには、イルカはもう額に脂汗を滲ませていた。

 部屋を出れば、今度は太陽の光が容赦なくイルカを襲う。休息の圧倒的に足りないイルカをじりじりと照らし、いくばくも行かないうちに、イルカは道端の壁にもたれかかることになってしまった。
 心のなかでは、朝方去っていった上忍の後姿にむかって、罵詈雑言が吐き出されていた。行為を、仔細はともかく受け入れたのは自分ではあったが、やはり恨み言はでる。自分をこんな体たらくにしておいて、シャワーを浴びてあっさりと自宅へ帰っていけるその体力にも、腹が立った。半ば以上、八つ当たりだとは分かってはいたけれど。

 ぜーぜーと、肩で息をして、なるべく人気のない道を選び受付所へ辿り付いた。頭がクラクラと回る。下を向けばいっそう酷くなって、世界が回っているようだったが、かといって上をむけば、明るいはずの世界が暗くなっていくので危険を感じてやめた。
 建物のなかに入ると少しだけ楽にはなったが、所詮は少し。イルカは、任務の内容によっては一日の猶予をもらえないかと申請するつもりだった。今の体調では、ろくな働きができない。仕事を真面目にこなすぐらいしか取り柄がなかったのに。
 自業自得だと戒めても、悔しかった。
 だが不調は不調で、申請しなければ任務に支障がでるし、ひいては里の信用に関わってくるだろう。
 イルカは大きく息を吐き、軋んでなかなかうまく動いてくれない身体を、受付まで運び、なんとか立つ。案の定、受付の職員は驚いた顔で、大丈夫ですかと声をかけてきた。それに引きつった笑いで答えて、今日の任務を聞く。

「えぇと、うみのイルカ、ですね。うみの中忍の今日の任務は…あれ?」

 訝しげに職員は目をすがめて、手元の資料を何枚か繰った。そしてなにかを確認すると、また何枚か手元の紙を繰って、首をかしげた。

「どうか…?」

 声を出すのも億劫だったが訊くと、職員は小首を傾げつつ言った。

「いえ、…今日は休息日になっています」
「は…?」

 そんなはずはない。昨日、前回の任務報告書を提出しにいったときに、明日受付にくるようにと言われていた。大雑把だが昼前にくるようにと時刻まで指定されていたのだから、なにか振り分けられる予定の任務はあったはずだ。だいたい休息日は規定のとおり一定毎にとっているし、先日とったところだ。

「そんなはずは、ない、でしょう、昨日、は…」
「それが、えぇとですね…あぁ、複務ですね、どなたかが請け負われたみたいですよ」

 複務、というのは一人が一つだけの任務につくのではなく、二つないしは複数の任務をかけもつからそう略しているだけだ。だが、複務は経験や実績がない忍びには許可されない。

「それって…」

 なにがしかの予感を感じながら、訊いてみた。
 答えは、予感の通りだった。

「はたけカカシ上忍ですね」







 帰り道、イルカは鬱に沈んでいた。
 考えがろくに回らない頭のなかを渦巻くからだった。
 聞いたとき、まず腹が立った。身勝手もいいところだと。人の任務をとっていくのも、イルカに一言も知らせがないのも、休息日の申請を済ませてしまうのも。
 さきほど、受付の職員は、さらに違う書類をみたかとおもうと、笑いながら頷いたのだった。

「引継ぎ事項に書いてあったんですが、どうもうみの中忍の具合が悪そうだから、ってはたけ上忍が引き受けていかれたらしいですよ」

 本当に具合が悪そうなイルカに、職員は良かったですね、と人の良さそうな笑みを向けてきた。イルカは苦虫を噛み潰して、受付を去るしかなかった。とりあえず、明日の予定を聞いて。
 身勝手も、いいとこだ。
 イルカがどう思うか感じるかもかまわず、カカシはしたいようにしている。任務の処理数は実績になるのに、カカシのような名の知れた上忍が、たかが中忍の任務を横取りしてどうするのか。休息日さえ、勝手に。
 けれど。
 ムカムカと募る苛立ちの裏側。
 意識しまいとすればするほど、イルカは自覚してしまう。
 カカシほどの上忍が、たかが中忍に、たしかに気を配っていることに。カカシが、イルカへはっきりとした気遣いをしめしていることを、認識してしまう。そして、そのカカシを勝手な人だと詰りながらも、しょうがない人だと好意的に思う自分を、自覚してしまう。

 カカシに対して、好意を。

 一度自覚してしまうと、イルカはがんと頭が重くなった。
 そして鬱々と、空回り気味になる苛立ちを募らせて、そのたび「でも」と意識の端っこが呟くのを、頭のなかで繰り返させている。
 カカシに好意を抱いても無駄なのに。
 むしろ抱いたほうが、これから辛くなるから、はっきり無視したいところだ。
 無視だ無視。
 重い体を引きずりながら、イルカは繰り返す。


 あんな、勝手な人。






2003.6.2