かわりになってよ
返事のないイルカを、カカシは抱き上げ、寝室の位置を訊くわけでもなくそれをすぐに探しあて、イルカをベッドに放った。スプリングの良くない安物のベッドは、みしっと音を立てた。カカシが覆い被さってきたときも。
カカシは手馴れたようすでイルカのベストを剥いだ。そして自分も、二の腕まで覆う黒手袋を脱ぎ捨てる。表れたカカシの腕は、電灯もつけられていないままの寝室でも、白く映った。
ゆっくり、カカシの唇が、イルカの瞼におりた。軽い感触。それから濡れた温かい舌。それが目尻を辿って、鼻梁をなぞり、上唇を啄ばんだ。イルカはあまりに穏やかなその感触を、身を竦ませて受け止めた。
可笑しい、こんな感じじゃなかった。
心で必死になって思う。あのときは気が立っていて、とカカシは言ったが、本当にそうだったのか。こんな優しげなキスは、無かった。
そうやって身を堅くしていると、カカシが苦く笑った。
「力、抜いて? 痛くないようにしたいし」
かーっと血がのぼった。まるで処女にむかっていわれるような、甘い言葉。情けなくて恥ずかしくて、両手の甲で赤くなった顔を覆った。カカシが笑っている。
カカシの掌が、アンダーの下、イルカの脇腹を確かめるように撫で上げて、その胸の尖りを掌全体で押しつぶし弄ぶ。自然、刺激にイルカの背がしなり、身をよじる。浮いた喉元にも、唇がおちる。ぴちゃ、と聞き難い音が、やけにイルカの耳に響く。
カカシは熱心にその尖りを弄くり、暫くすると唇もそれに添えた。生温かいものが、やんわりとそれを包み、舌の先らしきものが、刺激にぷくりと膨らんだ先端を抉る。
「……、…っ」
声を出すものかと唇を噛みしめる。それでも今までいじられたことなどないそこへの刺激に、思わず身を捩ってしまうようなむず痒い痺れが走る。
湿った柔らかいカカシの唇が、イルカの平坦な胸を移動し、掌は背に回った。抱きしめるようにされて、体温が伝わる。部屋の気温が低く思えるような、温もり。背骨にそって、指でなぞられて、ぞくぞくと何かが痺れた。
カカシの体温が、イルカの肌に触れていること。急に意識して、心臓が早鐘を打ち始めた。カカシに聞こえてしまう、思わず顔を覆っていた手を、まだ胸の尖りに舌を這わしているカカシの頭部に置いた。そんなところを弄られていると、音が、この早い心臓が、わかってしまう。
だがその仕草をどう思ったのか、カカシはイルカの手首を柔らかく取った。そして指を絡めてきた。まるでもっと、体温を分かち合うように。
カカシの唇が徐々に、ヘソのあたりに下りていって、あ、と気づけば下衣を剥がれていた。とっさにカカシを仰げば、それを邪魔するように、今まで肩口でたくし上げられていた上衣も視界を覆って剥ぎ取られてしまった。手馴れている、としかいえない鮮やかな手つきで身に纏うものが剥ぎ取られてしまい、イルカはベッドを僅かににじり上がる。なぜか今さら逃げ腰になった。
それを見越したわけでもないだろうが、カカシが、イルカの腰を長い腕で巻き込んで引き寄せた。そして躊躇なく、芯を持ち始めていたイルカを口に含んだ。
「ぇ、なに……をっ、やめて下さい!」
今までそんなことをされた覚えがなかった。して欲しいと思ったこともない。イルカはいたってノーマルな性交しかしたことがなかったし、それで満足していた。だから、まさか男で、上忍で、イルカよりずっと不自由のないカカシがそんな真似をするなどと思いもせず。
ねっとりと、舌が先端を包んだ。ずっ、と唇で先走りをすすり上げられ、舌の尖りで、敏感な部分をねぶられた。
「…ぃ、あ…や、めてくださ…、…あぁ…っ」
指が根元に添えられて、唇がいっそう深くイルカを咥えこんだ。長く器用な指先は、イルカを追い立てるように扱き、ぐんっとイルカ自身が熱をもって硬くなった。恥ずかしさに逃げようとする腰を、カカシは片腕で器用に繋ぎとめ、身を捩るぐらいしか出来ずイルカは顔をそむける。あの綺麗な銀髪が、自分の下半身に顔を埋めているなど、直視できなかった。羞恥に涙さえ滲みそうだった。
そのあいだにも、カカシの唇は遠慮なくイルカを攻め立てて、喉の奥で、先端を締め付けた。経験したこともない快感に、イルカの喉が仰け反る。
「ん…ぁ…、は……っ」
やめて、とも言えなかった。いま止められたらきっと止めて欲しくないと言ってしまいそうで。それほど気持ちよくて。
ずずっ、と一気に吸い上げられて、簡単にイルカは精を吐いた。脱力して、ぐったりしてから、はっと思い当たってカカシに詫びた。口に、出してしまった。汚いのに。言えば、果てる前に言えれば。
肘で前身を起こして、カカシをみれば、銀髪のした、濡れた赤い唇がみえた。口端からなにか、液体が零れていた。それが自分のものであるとわかるまえに、カカシが指を、その半開きの唇へ差し入れ、ゆっくりと掻きまわした。下を交差させ、掻きだす様に。その仕草に目を奪われて、唇と同じようにねっとりと濡れた指先が、イルカの身体の奥、後腔へ伸びたのを、ただみていた。
ひく、と抵抗を覚えて、イルカはようやくそこを弄られていることに思い当たる。イルカの出したもので、それを解している。あのときの、痛みがいまさら思い出されて、弛緩していた身体が一瞬、硬くなった。
気づいたのだろう、カカシの顔があがった。笑みはなく、真剣な目。
「痛くないようにするため、だから」
言葉少なく言われたことが、本当のことだと感じた。カカシがイルカに、少なくとも苦痛を与えようとしているのではないことは、再三、カカシが言っていたけれど。なぜかこの瞬間に、すとんとその言葉を信じれた。ふっと力が抜けた。
尻のあいだを、指が這う。普段は触りもしない場所へ、指が伸び、やわやわと刺激をくりかえす。
「―――…、…は…ぁ」
つぷりと指先が埋まった。それでも、身体は覚えているのか、反射的にイルカが強張ると、宥めるようにカカシがイルカの萎えたそれを揉みしだいた。あぁ、と刺激に反応すれば、後腔へ埋めた指先も、蠢いた。ゆっくり、じりじりと内壁を抉るように進む。異物感は確かにあるけれど、あのときほど酷くはない。むしろ、前への刺激が先立って、ただ何かが挟まっているような感覚しかなかった。
カカシが身を起こし、唇をイルカの鎖骨へ落とす。イルカの精にまみれた舌をだして、喉のラインを舐め上げてきて、イルカは自然と喉を逸らした。濡れた音が、耳朶に響く。ぞくりと甘い痺れが襲う。
指先はやわやわとイルカのなかを刺激し、第二間接まで埋まったようだった。ぐり、と擦られてイルカの身体が跳ねる。指先は、丹念に内壁を押し、ときおり擦り上げる。そのたびに、びくりびくりとイルカの身体は反応を返す。カカシが、宥めるようにイルカの口端へとキスをおとした。そして頬や鼻先、瞼、キスはおちていくのに、唇へは寄せられなかった。
イルカは訝しげにカカシをみる。したくない、のか。寂しい、思ったことが目にでて、カカシが少しばかり目を瞠ったのがみえた。イルカの唇が、開くより先にカカシがいった。
「キス、して。アナタから」
なにも言わず、イルカはカカシの唇へ口付けていた。濡れているそれが何であるとか、なにも考えていなかった。ただ、抱き合っているのに、唇だけがカカシの体温を感じていないことに急に気づいただけで。寂しくて。
カカシの唇を、食むように口付けた。離れて、角度を変えたイルカの唇へ、今度はカカシの唇が、貪るように覆ってきた。温い舌が下唇をなぞり、歯列を掠めて、イルカの舌を絡めとった。息まで貪るように、カカシの口付けは思わぬほど激しく、吐息が、重なり合った唇から喘ぎのように漏れた。
唾液が混じり合い、舌は甘かった。唇さえも。
指が、二本に増えていた。蠢く感覚が大きくなり、イルカはむずかるように足を動かしたが、力は入らなかった。一点、カカシの指が、内壁の内側を擦りあげたとき、思わずイルカは息をとめた。イルカ自身が、半ば立ち上がった。
「ここ?」
目ざとくカカシが、もう一度擦り上げた。
「ぃ、あぁ…っ、は、ぁ…!」
腰が浮いて、身を捩った。知らない快感だった。腰の奥から、重くじんわりと熱が広がってきた。
何度もそこを、カカシの指がぐりぐりと往復する。
「…や、…やめ…っ、あぁっ、…変、に……っ」
背筋をはしる快感に、ぞくぞくとする。射精感とも違う、熱を孕んだ痺れに戸惑う。
カカシが、そんなイルカにキスを強請り、無意識のうちに舌を差し出すと、絡めとられる。すぐ間近。吐息がかかるほどの至近で、カカシが囁いた。吐息は熱かった。
「―――も、いい?」
擦れた声音。心地いい声。美声。秀麗な容姿にこれほど似合うものもない。
カカシを言葉なく仰げば、カカシの左目がみえた。色違いの目、赤い。
これほど、似合うものもない。
考える余裕もなく、ただ頷いていた。
カカシは破顔し、イルカの足を抱えあげた。ひやっと室温が太腿の内側を掠めたが、それも束の間で、すぐに滑った熱いものが押し当てられた。ひゅ、とイルカの喉が鳴る。どうしても、消えてはくれないのか。
カカシの掌が、宥めるようにイルカの額にあてられ、汗で張りついた黒髪を、丁寧に撫でていった。温い体温を感じて、イルカは、いつかのときと同じように、両手を伸ばしてカカシへと差し出した。その身を感じたいと。
カカシの背中へ腕を伸ばし、肺へと酸素を入れた。ふとカカシの汗の匂いがした。
探るように入り口を彷徨っていたのは一瞬、イルカが息を吸い吐いた瞬間、ぐっと大きな熱量がイルカの内へ入ってきた。
「あ、あぁ、ああ…―――ッ!」
イルカはカカシの背を抱く。押し付けるように身を進めるカカシの背に、縋るようにして腕を伸ばした。カカシの腕が、同じようにイルカの背を抱く。こちらは抱きしめるように。繋がる強さを確かめるように。
「…、く、あぁっ、…は、んぅ……!」
酷い圧迫感。それは変わりなかった。けれどあのときと、不思議と重なる想いはなかった。痛みか、それとも体温だったのか。カカシが腰をイルカに押し付けて、その動きが止まって、言葉なくカカシが動き出しても、イルカはカカシにしがみついていた。カカシの首筋に顔を埋めて、唇を寄せれば、やはり汗の匂いがして、イルカは突き上げられながらも、それをはっきりと感じる。カカシでも汗をかくのかと、へんに不思議におもった。
ぐぅっとカカシの腰が、イルカから引いて、また埋められる。内臓が引きずり出されるような感覚の合間に、カカシの熱量が、甘い痺れを掠めていく。
仰け反る喉へ、カカシの唇が添えられるのを感じながら、イルカはその痺れを甘く感じる。どうしようもない苦しさはある、それでも甘く腰に響く。
「あ、ん…んっ、…は…ぁあ…ッ」
カカシの指が、イルカの硬くなっていた前へと伸び、それを巻きつけた。イルカの喘ぎのような息遣いが、切なげに漏れる。カカシの熱量が、いっそう増えて、イルカを侵す。
指が、強くイルカを扱きあげ、カカシの腰がひときわ強くイルカに押し付けられた。イルカがこれ以上ないほど背をしならせ、その精を吐き出したと同時、カカシもイルカのなかへ白濁を吐き出した。
そのあと、抱き合ったままどちらも無言で、長いキスをした。そうすればまたカカシのものが芯を持ち始め、否やをいうまえに、カカシがイルカを弄りはじめて、結局、ふたりして泥のように眠りこけるまで抱き合ってしまった。
イルカが目を覚ましたのは、水音が聞こえたからだった。
枕元の時計では夜明け頃。
なにかを考える前に身を起こしかけて、素っ裸の自分に気づいた。そして感覚のない下半身にも。
寝返りをうとうとして、力の入らない上半身はまだしも、下半身が、まるで糸がきれたかのように言うことをきかない。目を瞑れば、そこに無いかのように存在が感じられなかった。原因はひとつしかなく、イルカは溜息と一緒にベッドに転がった。頬にはりついたシーツは、どちらのものともしれない体液で、じっとりとしていた。
水音に耳を傾けながら、イルカはぼんやりと考える。
どういうつもりなのかな、と。
自分のように骨太の男が好みなのだろうかと思い、でもあの時は確かに女と同衾していたし、この五年のあいだに趣味が変わったのだろうか。それとも、まだあのときの話は続いていて、代わり、なのだろうか。
それでもいいな、と思った。
カカシが自分を抱く理由がそれであるならば、イルカもわりきることが出来る。瞼を閉じれば、ちらつく赤に悩まされることも無い。
そう考えていれば、水音は止み、カカシが風呂の扉を開け閉めする音がきこえた。それから何がしかの物音のあと、カカシが寝室へ戻ってきた。
「おはよ。ほったらかしにしてごめんね」
おはようございます、と返そうとしたが、声がうまく出なかった。カカシをみると、手には濡れたタオルを持っている。何をするのかと思っていれば、造作なくイルカを仰向けにして、下半身へ手を伸ばした。驚きつつも、もとより身体に力の入らないイルカだったから、抵抗もなく、カカシは丁寧な仕草でイルカの後腔へ指を入れて、どろどろになった体液を丹念に掻きだし、それから温かいタオルで拭っていった。
されているイルカが呆れるほどに、丁寧な作業。衣服は下衣だけで、均整に筋肉のついた上半身は、薄ぼんやりと明るくなっていく部屋のなか、綺麗に映る。イルカには持ち得ない美しさ。
何が楽しいのかと、カカシの顔を伺うようにすれば、じっさい、カカシは機嫌よさげに手を動かしている。下半身を余すところなく清めれば、タオルを畳みかえて、新しい面で次は上半身へ移ってきた。自然、カカシの顔が、よりはっきりと見える。
整った容。細くすっきりとした、鼻梁。唇。眦。優男のようにもみえる柳眉は、垂れ目気味の目尻でつりあいがとれて、見様によって思慮深くも、精悍にもみえた。もちろん、笑えば優しげにみえることはもう知っている。こんな容姿なら、誰一人、女なら、好意を抱かないはずがないのに。わざわざ俺なんか抱いて、どういうつもりなのかな。
つくづく不思議だとおもって見ていると、カカシが苦笑した。
「なに? 俺の顔、またなにか付いてる?」
昨夜と同じ台詞。イルカの頬が染まる。
「いえ……」
「なにか考えてたんでしょ。言って?」
体温を分け合えば、思考まで共有できるのか、カカシは当然のように促した。
躊躇いつつ、イルカはひりつく喉を動かす。
「―――…はたけ上忍は、」
「カカシ」
「え?」
「他人行儀に抱き合うのは好きじゃない、って言ったよね。カカシ、って呼んで」
言ってからカカシは首をかしげた。
「そういえば俺、名前アナタにいいましたっけ?」
「それは…」
イルカは口ごもった。カカシの名は、あのとき、任務から解放されてしばらくして耳にした。それも素晴らしいとの逸話つきで。いわく、あの戦闘はイルカたち補給部隊が去ったその数日後に、カカシの類まれな忍術により終結した、というのだった。しかも、敵方の壊滅によって。闘うべき敵の居なくなった戦場に、おりしも火影よりも撤退命令が重なっただけ、という側面もあったが、一時にとはいえ敵を壊滅においやったカカシの名は、イルカの耳にも入ってきた。さすが、写輪眼のはたけカカシだ、と。
けれどそれを本人を目の前にしていうのも、気がひけた。
だから口ごもりつつ、
「―――アナタは、有名、なので…」
それだけを言えば、あっさりカカシは頷いた。
「そっか。悪名高いみたいだしね、俺。それで警戒心強かった?」
「え、いえ、そんなことは…っ」
悪名、とカカシからいわれて少し慌てた。確かに、カカシの逸話とともに、下世話な巷談も多々聞いた。そのほとんどが私生活にあるもので、女を切らせたことがないだの、戦場では必ず女を侍らせているだの、そういうことばかりだった。だが一方で、戦地では決めた相手より他は手を出さないことや、大勢で乱れるわけではなくその時に決めた一人を相手にするといった噂話も、イルカは注意深く耳へおさめていた。悪名ばかりでは不公平な気もしたから。そしてそれで良かったと思う。
「でも、次、いつ会えるかわかんないし」
「―――…名前…」
「ん? 名前がどうかした?」
「…カカシ、さん、は…どうして俺の名前を…」
ああ、とカカシが目を細める。
「俺は、聞いたのと調べたのと。実はね、怒られてね。ほら、イルカさんは副だったでしょう、隊長さんにね、かなり怒られた。それで下の名前は知ってたんだけど」
「……」
怒られた、とカカシはいった。ほんの少しばかりだが、前線にもあるべき規律があったのだと今さらホッとした。この五年のあいだに、前線には幾度か赴いたが、あのときのようなことは一度もなかったから、あのときが例外だったのだとは思っていたが。
柔らかな濡れた感触が、イルカの首筋を拭っていく。室温よりも冷えてしまった温度で、イルカは息を吸い込む。カカシが、覚えのある仕草で、イルカの額を温かな掌で覆った。頬にかけて、親指の腹で、やんわりとなぞっていく。
「あのときも…」
「なに?」
「…あのときも、こうやって…?」
思いかえせば、気がついたとき身体の節々の痛みはあったが、それ以上の不具合はなかったようにおもう。それは、こうやってカカシが事後処理を計ってくれたのだろうかと、今、気がついた。
カカシが眉をすこし下げた。
「それぐらいの理性は残ってたよ、さすがに。アナタが気を失ってからも、散々やるだけやって、気が済んだとこで思い出したんだから偉そうにはいえないけど」
その言い分に、イルカは少し頬を緩めた。
「いえ…助かりました。ありがとうございました…」
「やめてよ。ろくなことはできなかった」
そういってカカシは顔を顰める。面を代えて、タオルがイルカの顔をゆっくりと拭っていく。気持ちよかった。
白々と夜が明けていく。
イルカは一度、瞼を閉じ、その闇に赤のちらつかないことを確認した。吐息を吐き出す。努めて平静にカカシに告げた。
「もう、けっこうですよ。ありがとうございました。…そろそろ朝ですから、帰られたほうが…」
また任務がお有りでしょう?
といったイルカを、カカシはじっとみつめた。表情のないその眼差しに、イルカは心中で怯んだが、顔には穏やかに笑みさえ浮かべて見せた。
上忍、ましてや暗部にとって任務は休む間もなく下される。中忍であるイルカにしても、今日、昼前に受付へ行くようにと昨日の報告書提出時に言われている。大した功績もないイルカにしてそういった具合なのだから、カカシにすればさらに過渡的だろう。カカシが望んだこととはいえ、もしこれから任務があり、疲労によってしくじりでもすれば、応じたイルカにしても心中穏やかではいられはしない。早く帰れと取られてもかまいはしない。そう考えての言だった。
見つめあったあいだは、時間にしては数秒ほどだっただろう。息がつまるような眼差しを外したのはカカシで、小さく吐息を吐いたようだった。
「―――そうだね。それがいいね。…身体は? 動く?」
「え、…と、はい」
言われて、咄嗟に返事をした。実際のところ、体中がだるく、下半身にいたっては腰から上の筋力でどうにか騙し騙し、動かせるかという程度だったが。だから返事をしたとしてもイルカはその場から動くわけでもなく、カカシはそのイルカの様子をじっと見ていた。ややあって、また溜息まじりの吐息。
「気を使ってもらえるのは嬉しいけど、―――…すぐバレるよ」
イルカの頬が赤らむ。呆れられたのが分かった。
カカシは無言でイルカを横抱きにし、いったんベッドから床へと下ろした。カカシを見上げると「シーツは?」と訊かれて、しまってある場所を言えば、カカシはベッドのシーツをはがして行ってしまった。そして新しいシーツをもってきて、手早くベッドにかけてイルカをベッドに戻す。
「それじゃあ行くね。またきても良い?」
イルカは瞬いた。至近にあったカカシの顔をまじまじと見てしまう。また、といったが次が、あるのだろうか。自然と浮かんできたのは疑問符で、嫌悪や拒絶ではなかったが、それでも返事ができずに黙っていれば、カカシもイルカを待つように動かない。
たまらず俯くと、自分の無骨な身体が、仄明るい光によく見えた。居心地が悪く、身じろぎをした。どうしてこんな身体をまた抱きたいというのかが心底不思議で、納得できなかった。カカシのほうがよほど綺麗だ。
胸元、鬱血の跡をカカシの指が押さえた。
「だめかな」
指の腹が、やんわりと、ひとつひとつ、押していく。いくつも、それはあった。
鈍くなっているイルカの感覚に、それは微かに響く。
言葉より多く、指はイルカに答えを迫る。
瞼を閉じれば赤がなぜか閃くように灯り、去っていった。
「――――――…いいです、よ」
目をあけて、カカシをみた。驚いたように、ぱっと顔を上げたカカシと、目があう。左目は、朝日なかで暗く、右目とさして違わないように見えた。
「ほんと?」
「ええ」
イルカははっきり頷きさえした。考えても分からないのなら、考えても無駄だし、目を閉じれば閃く色に、疑問の余地はない。それに名前をつけるのは抵抗はあるが、身体にかんして譲れる部分は譲ろう。カカシが望むのなら、たとえそれが誰かの代わりであったとしても、一瞬で捕まってしまった自分が愚かなのだから。
「なら今日はこれで。任務が終わったら来るから」
カカシが笑った。
「イルカさん」
「はい」
「ありがとう」
カカシは、シーツをたぐり寄せ、イルカへかぶせさえして、去っていった。寝室に散らばっていたカカシの服も忍具も、イルカの服も、なにもかもが綺麗に片付けられ目に見える場所にはなかった。カカシが去っていった寝室はふいに静まりかえり、なにも昨夜から変わりがなかったかのように錯覚しそうになる。
イルカは無意識のうちに詰めていた息を吐き出した。
「――――――あーあ…」
呟いてみると、声が掠れていた。喉がひりひりする。腰は感覚がないが、なにか重い。腹のあたりでなにかが溜まっている感覚がする。一つに結わったままだった髪は乱れて、気持ち悪い。寝返りを打つのにも全身がダルい。
数え上げればキリのないことが、ぽつりぽつりと浮かんでは、すぐに消えていった。
瞼が重くなる。
とろりと忍んできた疲労と眠気に、逆らわずイルカは目を閉じた。
照らす朝日が、闇に瞬く色を、覆っていった。
2003.6.2