かわりになってよ
里に帰り着いてから、イルカは熱を出した。けれど、二日もすればすっかり熱もひき、あとにはもう、あの名残を思わせるものなどなかった。ときおり左手を擦る癖がついただけで、暗部で銀髪の上忍など、それから見ることもなかったし、イルカは一年もすれば忘れかけていた。いや、忘れようとした。その存在と、あったことを。
それが無駄になったのは、五年が経とうかとするころ。
三日間の護衛の任務の報告書を、受付に提出にいったときだった。おりしも夏を前にして季節風がふき、砂を大量に含んだ風が里に吹いていた。イルカも例にもれず埃にまみれた身体のまま提出を終え、受付からでた。さて、帰りにラーメンでも食べて、と考えていたところへ、不意の力強さで、イルカの腕がひっぱられたのだった。
里人も多い大通り。気も緩んでいたのだろう、あっさりと日の届かない路地に引きずり込まれた。耳元に囁きが吹きこまれた。
「今夜、アナタのとこへ行くよ。家に居てね」
戸惑う暇もなかった。囁かれた内容に驚いて、ばっと視線を向ければ、そこにあったのは何の変哲も無い裏路地。人影はない。イルカの横にも、背後にも。一瞬で、消えていた。
囁かれた耳朶を、イルカは呆然と押さえる。
それはカカシの声だった。
一瞬の囁きを、鵜呑みにしたわけでなかった。だが幻聴だと思うには、イルカの腕を掴んだ「誰か」が必要だった。誰かが引きずったのでなければ、イルカの身体がかってに路地へ傾くわけもなく。なんの気まぐれかと吐き出し、それでも無視はできないで、結局、イルカはラーメンをぼんやりと啜ったあと、自宅に戻ってきていた。時刻は夜九時をとうに回り、イルカは頭痛さえしてくる。
あの時、のことを微かに思い出し、イルカは寒気に身を震わせた。
むっとするような暑い明け方だった。
苦痛と圧迫感、抗えない力、屈服感、溢れる悲鳴。
同時に、深緑の香り、光、木の幹のごつごつとした硬さ、血臭、汗、それから。
―――――――――赤。
コツコツ、と戸が鳴った。
イルカの家にチャイムなどというものはない。いつも来客は戸を叩く。イルカはその控えめなノックに、はっと身体を強張らせ、扉のまえに立った。
深呼吸をひとつ、大きくして、扉を開けた。
まっさきに目に入ったのは、門灯にてらされた銀色の髪。その他は墨流し。忍びの、暗部の装束のままだった。
柔らかな笑みを浮かべて、カカシがイルカを見る。
ぱちりとイルカは瞬きをした。あまりに、覚えのあるカカシとは違っていたから。
「こんばんは」
だから、カカシがそう礼儀正しく告げたのにも返事ができなかった。玄関で突っ立ったまま、イルカはカカシを見つめる。カカシが困ったように、イルカの目の前で掌を振った。
「―――…うみのイルカさん? どうしたの? 返事がないなら上がってもいい? アナタを抱きに来たんだけど」
カカシにとっては至極当然で、イルカにとってはとんでもないことを、いたってさらりと言って、カカシは律儀にも「お邪魔します」といってイルカを押しのけ中へ入った。そこでようやくイルカの意識が戻る。
「え、あのっ…、はたけ、上忍、どうして…」
「カカシでいいよ。他人行儀に抱き合うのは好きじゃないんだ」
「いえ、その、だ、抱き合う、というのは…っ」
サンダルを脱いで、部屋に上がったカカシが、突っ立ったままのイルカを、あれ?とでもいうように見返った。
「いや?」
「…い、いやというか、あれは、その、戦場でのことで」
嫌かと訊かれるまえに、嫌に決まっている。男に抱かれるのが趣味なわけではない。その後の任務に、そんな機会はまったくなかったし、そして、この五年でささやかながら女も経験した。任務先での花街のことであったり、拙い恋話のうえでのことであったが。けれども、それで実感した。女の柔肌の心地よさを。包み込まれる暖かさを。慰めを。
だから、あの時、カカシが女の体温を忘れたくないといって自分を代用したことも、少しだけ理解することができた。
けれど、あれはあれ。今は今だ。いまさら、カカシに抱かれる理由がない。あっても、了承しがたかった。イルカにとって、苦痛でしかなかったから。
それでもそれを面とむかって、立場が上であるカカシにはいえず、言葉を濁した。どうか気まぐれを思い直して、立ち去ってくれと念じたが、通じなかったようだ。カカシはあっさりいった。
「里でしてもいいじゃない」
イルカの足の力が抜けそうになった。
気をぬけば震えだしそうだった。
上忍の気まぐれに、どれだけ付き合えば良いのか。
「けれど…、里には他に女は大勢いるでしょう。他を…」
「ああ、それは無理。俺はアナタとしたいんだけど」
「…っ、俺はみてのとおり男で見てくれも良くなくお相手がよく務まるとも思えませんが…っ」
切羽詰っていえば、今度もまたあっさりとカカシが返した。
「俺はかまわないよ」
ふ、とカカシがイルカの傍らに寄った。
無意識のうちに、イルカの身体が後退さる。背中に壁が当たり、部屋の電灯を背にカカシの影がイルカを覆う。
「―――…怖い?」
カカシは柔らかに笑っていたが、イルカの身体の強張りは解けはしない。むしろ、あのときの印象と違いすぎるカカシに、いっそう疑いの思いがつのった。
左の掌がどうしても気になって、イルカはその掌を拭った。思い出が呼び覚まされたのか、最近ではしなくなっていた癖が、出た。
それをカカシが見ていた。すこし思い出すように容よい眉をひそめ、すぐに思い当たったように苦笑して、そしてイルカの左手をとった。口布が下ろされ、やんわりと汗をかいた掌に口付けられた。
「…まぁ、俺も酷いことした覚えはあるしね。あのときは本当にすいませんでした」
「いえ…」
てらいもなく謝罪したカカシが、どうしてもあのときのカカシと重ならず、イルカは眉を潜める。掌をとった動作にしても、口付けにしても、たかが五年ほどでここまで変わるものだろうか。しかも暗部にいるという忍びが。
訝しさでいっぱいのイルカはじろじろとカカシを眺めるが、カカシも、そんなイルカを可笑しげに、咎めもせずに見ている。
「俺の顔になにか?」
「いえ…ただ――――――」
「ただ?」
「…以前、お会いしたときと随分印象が違うので…」
言えば、カカシは意外そうにした。意外だったのはイルカなのに。
そして束の間、思案したらしいカカシは、イルカに訊いてきた。
「以前、っていうと俺、抱いたときのしか覚えがないんだけど…あの時は気が立ってて本当にアナタには痛い思いさせた、ごめんなさい。けど他には会ってないよね?」
覚えがない、というカカシにイルカは唖然とした。
「い、いえ…、あの日の前日の夕方、お会いしています。作戦の打ち合わせのときに…」
「打ち合わせ…?」
思案するカカシが、やがて「降参」といった。
「夕方でしょ? 多分、起きぬけで俺、寝ぼけてたんだと思う。まったくアナタのこと覚えてないし、作戦内容覚えるのでいっぱいだったんじゃないかな。なんせ、寝起きが悪くてね、俺」
不意に、あのとき、カカシの上司である隊長からいわれた台詞を思い出した。「寝起きが悪いから、気をつけろ」と。当時はさして問題もなく過ぎたから気にもとめなかったが、いまさらこういう意味だったのかと分かっても、もう遅い。あの無愛想にもみえるぼんやりぶりは、寝ぼけていたせいだったのだろうか。
いま目の前にいるカカシは、随分と社交的にみえる。人好きのする柔らかな笑みで、顔立ちのよさが片目だけでわかるから、きっと人当たりは良い。率直に非を認め謝ることができること、気遣いができることが分かる。
「………」
「納得? じゃあこっちは―――?」
考えにおちていたイルカの頤を、カカシがすっとあげて、その唇を、親指の腹でやんわりとなぞった。たったそれだけの動作なのに、カカシの秀麗とさえいえるような笑みで、囁かれれば、イルカの顔に朱がのぼった。
「あ、あなたほどの人なら、他にいくらでも…―――」
「俺は、同じことを二度いうのは苦手だよ」
イルカは瞼を閉じた。
何をいえばこの綺麗な上忍が、しがない無骨な中忍をかまうなどという気まぐれをやめてくれるのか、まったく分からなかった。あんな痛い思いはもうたくさんだった。それに割りきって手慰みになるには、カカシは綺麗すぎた。人柄が良いかもしれない、と思ってしまったなら余計に。
あの、赤い目が、記憶にちらついた。
「他に誓いを立ててる相手がいるの? それだったら先に言って」
「……いません、けど」
「ああ、良かった」
ぐ、とイルカは唇を噛んだ。カカシの柔らかな指の腹が、イルカの無骨な頬をなぞって、耳朶に触れる。こそりと、首筋をなで上げられて、イルカは肩を竦ませた。
抵抗が、できない。
嫌だと訊かれれば嫌に決まっている。イルカにだって男の矜持というものがある。いったいそれが何の役に立つのかは知らないし、ぜんたいどんな形かも知らない。けれどカカシに黙って抱かれることを受け入れるには、何かが邪魔をする。その何かが、たぶんイルカのもつ矜持、というものなのだろうし、それは盛大にイルカのなかで嫌だと叫んでいた。
けれど。
いま。
いつのまにか表れている赤い目が。
居心地よさそうに笑う。
赤い目が―――――――――笑う。
「抱くね」
2003.6.2