かわりになってよ





 不意に、森の空気が変わった。
 言いしれない圧迫感。
 足元から立ち上るような、いや、頭上から何かで押さえつけられるような。
 戦いが始まったのだ。

 イルカは素早く、頭上の枝に飛び乗り、枝葉に身を潜めた。
 先ほどまで、僅かながらも何かを食む気配や囁き声が聞こえていたのに、もうそんな気配はどこにもない。皆、各自の持ち場についだのだろう。おそらくカカシも。
 どくどくと心臓が波打つ。
 戦場の気配。
 なにも戦場に限るならこれが初めてというわけでもなかった。それでも、やはり身が引き絞られるように竦む。奥歯をかみ締めていないと、カチカチと勝手に鳴り出してしまうかも。
 情けない、とイルカは闇の中で思う。
 あのカカシを見ろ。同じような歳で、自分とは違う働き。立場。
 悔しいのだろうか。
 羨んでいるのだろうか。
 この胸のうちに浮かぶ感情は。
 熱のひかない真夏の夕刻、幕をあけて出てきた、銀髪の少年。額当てを斜めにずらして、布で口元を隠して、見えるのは右目だけ。熱いとも感じないような涼しげな顔で、彼の周りだけに清涼な風があるみたいだった。
 実際、お遊びで、風遁の術を改良し、体の回りに風をめぐらせる術はある。けれどもそういうのじゃなくて、もっと、目や手で感じれないようなものが。
 潜んでいるイルカの頭で、なぜかカカシのことが浮かんでは消える。
 チ、と微かに金属音が耳に届いた。
 それはおそらく遥か遠くで、敵と交戦した印し。
 忍びの戦いは孤独だ。
 こうやって多くの仲間と設営するほどであっても、畢竟、刃が狙うのは己一人であるし、また己もそうだ。多くを共連れにするような術は、忍びの性質から、そう多くはない。ましてやこんな鬱蒼とした森のなかでは。
 耳をすませば、刃のはじきあう音はいくつも聞こえる。中には近いと思われるものもあった。イルカの身が引きしまる。昼からの疲れもあり、気を緩めれば泥のように眠ってしまうだろうが、神経は冴え切って、むしろ身体は軽くさえ感じるほどだった。

 キ、キン―――ッ。

 葉ずれの音。気配。
 殺気が伝わってきた。近い。
 補給部隊の任務は、朝まで補給物資を守ること。物資に手を出してくる敵にだけ、反応すること。それがタギからの命令だ。もとより実戦経験の浅いものが多い部隊編成なのだ。多くを望めば、手痛い結果だけが残るとわかっている、だからこその命令だった。
 イルカも、自分がけして実戦経験が豊富とはいえないとわかっている。
 いま耳をすませているのは、自分が関わる可能性があるかどうかを探るため。もしか、自分が関わって有利にはたらくならば、そのタイミングを。鋭利に感覚を研ぎ澄ませて、その一瞬を。
 そしてその一瞬はやってきた。

「――――――……ッ!」

 墨を流したような闇のなか、突然、イルカの身を潜めている枝の真横が揺れた。まるで誰かが飛び移ってきたかのように。息をつめて横をうかがえば、荒い息遣いと、墨流しの衣装。木の葉でない。認識すれば身体は勝手に動いた。
 滑るように枝の上を移動し、相手の呼気を計り、息を吐いたその瞬間、手にはクナイをもって突き立てていた。だが相手も忍び、一瞬の殺気を感じ取ったのか、イルカのクナイは相手を逸れ、枝に突き刺さった。
 チッ、と舌打ちする間もなく、相手の刃が、イルカの脇腹を掠める。紙一枚の差でそれをよけると、違う枝に飛び移った。一瞬後、イルカのいた場所に、千本が突き刺さり、敵の姿は闇に消えた。イルカはまた息を潜める。
 敵の気配を探る。
 突然、ギャ、と断末魔が聞こえた。闇の中、敵を追ってきていた仲間にやられたらしい。闇のなかで白くみえる額宛てがみえ、イルカは無意識に、ホッと息を吐いた。気が緩んだその瞬間、その塊はイルカの目の前に現れていた。

「な…ッ――――――」

 驚くヒマもなく、確認したのは墨流しの衣装。先ほどの敵。影からくりだされたクナイから、身をよじることで何とか逃れ、後退しようと後ろ足をずらせば、すぐに枝は途切れ感じるのは闇夜の底。
 下がってはいけない、感じたそのままにイルカは足を踏み出し、みし、としなった枝を踏んで、闇へ踊り出た。
 飛ぶことを決めた瞬間に、右手にクナイを握りこんでいた。震える余裕は無い。殺さなければ殺される。そんな単純な引き算だった。
 敵に向って飛び、伸ばした左手を、闇にひらめいた敵のクナイへ覆いかぶせた。傷つくのは覚悟していたが、それは想像に反して、生ぬるい温度が掌にあたった。クナイの手元を握りこんだようだった。敵の体温が伝わった掌をそのままに、イルカは意味の無い声をあげて、敵の胸元へぶつかっていった。自らの右手に握り締めたクナイとともに。

 勝負は一瞬。

 グ、と感じた手ごたえ。漏れた敵の息。突き立てたクナイを、イルカは捻った。ググ…、と音さえ聞こえそうな重い手ごたえを感じながら、イルカは、いっそう深く、奥へとクナイを押し込んだ。場所は心の臓。ぬるりとクナイを伝って流れてきたのは、生きていた敵の血液。
 いまやただの肉になった敵と、イルカはいっしょくたになって地面へ転げ落ちた。小さくは無い音を立てて、苔生した地面へ、死体は転がった。
 落ちた衝撃を苔が緩和してくれたとはいえ、受身もとっさに取れず、イルカはやや離れたところに転がった。顔を捻ってみれば、死体は二つ。さきほど事切れた敵と、木の葉の額宛をつけた死体と。
 そうか、とイルカはやっと合点する。味方がしとめただろうと思っていた、その断末魔が味方のものだったというだけだ。戦場では一瞬も気を緩めていはいけない、アカデミーで習ったことは本当だった。
 もうちょっと真面目に勉強しときゃ良かった、思いながら、イルカは身を起こした。辺りは、さきほどの一戦のほかに何もなかったようで、静まりかえっている。
 大丈夫か、とどこからかタギの声がして、イルカは大丈夫と答える。
 ケガはなく、イルカににしてみれば上々の戦いといえた。右手の血にまみれたクナイを、一度大きく振って、血糊を落とした。それで全て落ちきれるものでもなかったが、しないよりは良い。ホルダーへしまいこんで、それから思い出したように、左手を腰のあたりで拭った。
 敵の体温がまだ、こびりついている気がした。




 戦いが終わったと判別したのは、イルカたちの潜む付近に、ひとつまたひとつと、気配の明らかな忍びの姿が見え始めたからだった。
 どっぷりと墨をながしたような闇夜はいつのまにか遠のき、気がつけば目の前にある枝葉の葉脈がわかるほどに仄明るかった。
 人影が明らかになり、その額宛てを確認して、イルカは気配をゆるめ、枝から滑りおりた。同じようにタギも、仄暗い茂みからすっと現れ出た。

「捕獲物は一体だな、処理班に任せよう」

 イルカは無言で頷いた。視線の先には、もう冷たくなった遺骸がある。
 右手にこびりついた血液は、かたぶたのように固まらず、べったりと皮膚にまとわりついて、乾いてくればよけいにねばついた。気持ちが悪かったが、懐中の水筒で洗い流そうとまでは思わなかった。
 交わす会話もなく、白々と、頭上の厚い枝葉が明るく染まっていくのをみあげる。そうしていればシノギが現れた。会話ができるほどに近寄れば、さすがに血臭が鼻をついた。イルカは無意識に左手をまた拭った。

「敵も引いた様だ。物資はこちらでわけることにしよう、昨日から休む間もなかっただろう、すまなかったな。出立まで少し休んでくれ」

 僅かに疲れたような声音でシノギは言い、タギも険しい眉をすこし緩めて頷いた。イルカも、その意見には賛成だった。緊張の連続で、身体も精神も、これ以上ないほど疲労していた。
 言葉少なに事後をとりきめ、補給部隊の隊員も散らばっていった。約三時間後に出立ということだったが、それでも充分だろうとイルカは思った。イルカ自身も、適当な場所を探し、その場を離れた。
 短時間の休息に天幕などはない。居座りの良い場所をみつけて、身体をやすめるだけだ。その前に、せめて何かを腹にいれて、それから手を洗いたかった。冷たい水で、生ぬるい手を洗い流したかった。
 ぼんやりとイルカは森の下生えをかきわけて進む。日はすでに昇りきったようで、見上げれば緑は明るく透けている部分もある。それでも森のなかは薄暗く、いまだ明け方のような明るさだったが。
 水場があれば…、思いつつ進めば、やがて大岩が目の前にあらわれた。それは人の背丈よりも大きく、その岩の上にはさらに大きな樹木がそびえ立っていた。大木の下支えのように、岩の表面に、太い根が血管のように張り付いている。イルカはその根元を覗き込み、小さな流れを見つけた。苔と岩の間から染み出るような、沁みのようなものだった。

 イルカは懐の水筒をとりだし、中身をすてた。そして苔に押し付けるようにして、その染みでる清水を長いあいだかけて汲みとった。水筒のやく八割ほどは汲めたそれに、イルカは念のために解毒剤を入れて、振る。敵がもし毒を振りまいていれば、危険だった。
 ホッと息をついて、水筒に口をつけたとき、ふと弛緩した身がなにかに反応した。
 首をめぐらせ、耳をすませる。
 どこかでチャクラが練られ、術が使われている。
 いま居る場所から、もっと、前線に近い場所で。
 ほんとうに微量にしか感じられないそれは、きっと本隊のいる地点からでは分からないだろう。ここまでぼんやりと歩いてきたイルカだから感じ取れた。
 まだ戦いが続いているのかもしれない。
 イルカは水筒を収めて、その地を蹴り走った。



2003.6.2