かわりになってよ
それ、をみたのは果たして偶然だったのか。
明け方の鬱蒼とした森のなか、それは酷く美しく見えて、また酷く醜く思えた。
けれどきっと、イルカはそのときの赤に、捕まってしまったのだろう。
イルカは中忍になったばかりだった。
ようやく、といった感じで中忍試験をパスし、今度の任務は中忍になってから初めてのもので少しばかり肩に力が入っていた。
任務内容は、暗部の投入された戦場への物資の補給。統率力の高い者を隊長に、その補佐にイルカがついていた。物資の補給は、個人戦の色濃い、忍び同士の戦いであっても、疎かにはできない要素だ。ましてや、今回の戦場は、設営地こそ変わることがあっても、始まった日から数えればおよそ一月以上は続いていた。
忍びが投入された戦にしては異様な長さ。ゆえに、おそらく戦以外の要素である、国同士の政治が絡んでいることは容易に想像できる。しかしそれは、現場の忍びにとっては、一杯の粥よりも有り難味のない話だ。食うものがなければ、死ぬしかないのだから。
戦が長丁場にはいったとされる一月を過ぎ、補給部隊が組まれたのだった。
設営地に到着したのは、夕刻だった。
真夏のじっとりとした空気が、忍服の首筋に絡みつくような日暮れだった。
「―――…誰もいない…?」
広大な森のなか、うっそりと茂る巨大樹をみのにして、そのしたに十ほどの天幕が張られていた。おそらく苔が敷かれていただろう森の地面は、踏みしだかれたようになっていて、この設営地が作られてから、一週間ほどだと考えられた。
だが、その天幕からも、そしてその回りにも、ただの一人も人影は見えない。ここが木の葉忍びの設営地だというのは確かだった。
イルカは隊長を見た。
前線といわれるような戦地に来たのは初めてであったし、いったいこれが通常の状態なのかどうかは判別しがたかった。補給部隊長のタギは壮年の威丈夫で、その厳めしい面をわずかながら上下した。
「みな、寝ているのだろう。来い、部隊長へ報告せねばならん」
いって背をひるがえすのへ、慌ててイルカは駆け出し、それから思い出したように背後の部隊員たちへ各自待機するようにと伝えた。
タギへ小走りで追いつき、木の根元であるためデコボコした、苔生す滑りやすい地面に注意を払いながら歩く。中忍になってからの初めての任務、それも副隊長という配任のため、自分の肩に力が入っていることは自覚していたが、常にない意気込みで、イルカの気が疲れていることも分かっていた。気を緩めれば、この樹の根っこにさえ躓きそうだった。
大きな樹の胴を回りんださきに、その天幕はあった。タギがなにかをいうより先に、天幕の前が跳ね上がり、痩せぎすの男がでてきた。ほんの束の間、男は目をすがめ訝しげな顔をしたが、すぐに思い当たったように頷いた。
「そういえば補給部隊がくると聞いていた、ご苦労。私は木の葉第三小隊長、シノギだ」
「補給部隊長のタギだ、こっちは副のイルカ」
イルカは腰から身体を折って、礼をした。
「そちらの副は居ないのか」
「いや、今は違う天幕で休んでいる。呼んでこよう」
「今は休息中だろう、補給隊は明日の朝にはここを発つがそれまでに会えれば…」
シノギは神経質そうな唇を、笑みにゆがめた。苦笑しているように。
「実は今から作戦の打ち合わせをするところでな、いい加減待ちくたびれて呼びにいこうとしていたところなんだ」
「そうか、―――イルカ!」
「はい!」
「ちょっと走って呼んできてくれ、そいつの天幕と名前は…」
タギが顔を向ければ、シノギはすこし肩をすくめた。
「寝起きがあまりよくない、気をつけてくれ。天幕はこの樹の反対側、名前はカカシだ」
イルカが言葉どおりに樹を回り込めば、はたしてやや離れた場所に、ぽつりとひとつ。ただ、隊長や副といえども天幕の大きさや形は、他の隊員とまったく同じで、ほんとうにあっているのかどうかは分かりかねた。
とりあえず気配を平常に保ち、天幕の幕前へ膝をついた。なかからの物音はない。
躊躇いつつ声をあげた。
「お休みのところ失礼します、カカシ副長、シノギ隊長がお呼びです。お出でください」
しかし暫く待ってみても、応えはない。
森の湿気が足元から忍んできて、こうやってじっとしていても汗が額を伝い落ちそうだった。
もう一度いうべきかと「カカシ副長」と呼べば、ごそりと天幕のなかで動く気配がした。
聞こえてきたのは、擦れた女の声。
「…カカシ? 呼んでるわ…起きたほうがいいんじゃない…?」
女の声に、あー、とも、んー、ともつかない寝ぼけ声が重なった。まさか本当に寝ていたとは、と少し呆れた。シノギの肩をすくめたわけが分かる。
「カカシ、起きなさいよ…やだ…ダメだったら…知らないわよ?」
くすくすと、睦言の甘さで漏れ聞こえる女の声に、イルカの頬がかーっと熱くなっていく。イルカは16になったところで、いまだ女の身体も知らなかった。そういうことへの興味は大きくあったけれども、数年前の惨事から今まで、それへの余力は無かった。だからこそ、こうやってたった布一枚隔てただけの、天幕のなかではどんな姿態の女がいるのかと、頭が勝手に想像しだして血が昇るのだった。
けれど女の声は、それで止んでしまい、あとは聞こえるのは衣擦れの音ばかり。
どうしようかと待っていれば、ばさりと幕があいて、出てきたのは女だった。
黒い髪を長く腰にたらし、支給服とはまた違った格好をしていたが、ひと目みれば魅力的な体つきであることはわかった。色のおちた唇と、色素のない薄い瞳で、女は困ったように笑った。
「ごめんなさい、いま服着てるわ」
そういって女は離れていった。ゆっくりと、日の暮れ罹る暗いなか、その白く見える手足が遠ざかるのをイルカはただ見ていた。
しばらくのあいだ、そうしていれば幕があき、今度こそカカシがでてきた。
そのとき、酷く驚いたことをイルカはあとになってもずっと覚えていた。
カカシのその若さに。
「待たせた? 隊長怒ってた?」
声も幼く、どうみてもイルカと同い年か、もしくは一つか二つ上ほど。それがあの美しい女と? 同じ副でもずいぶん違う、と嘘ではなくクラクラする頭で考えた。
後でカカシが上忍であること、今は一時はなれているが本来の所属が暗部であることをきいて、反対に「同じ」と考えたことを恥ずかしくなったのだが。
「…い、いえ、シノギ隊長がお待ちです。隊長の天幕へどうぞ」
「ふぅん」
イルカの返答に、興味なげに呟いてカカシは背をみせた。膝をつくイルカに頓着せず、天幕へ向っている。イルカは慌てて立ち上がり、その後を追った。
カカシについては驚くばかりだった。
まずその若さにしても、その才能にしても。
今回の任務にしても、ごく普通の忍服を着ているから分からなかったが、暗部として火影の命令で就いているらしかった。カカシのもつ特殊能力が必要だったかららしい。そのせいともいえないが、カカシの立場を立場とおもわないような言動は、部隊からみた副という立場から大きく外れていた。
作戦の確認中でさえ、カカシは居眠りをしてシノギを怒鳴らせていた。それでも飄々とした態度を崩さず、不真面目なのかと思えば、ときおり計画の曖昧な点について、丁寧に質問をしてくる。
カカシの忍びとしての能力は、さすが暗部といわれるだけのことがあるらしい。そう認識した。
イルカたちの補給部隊は明朝になれば、危険な前線をさけて帰里へつく。
いちどその戦い振りをみたいものだと思った。だって、あの奇妙な面をしていないとはいえ、暗部をみることさえ滅多にないことだし。
それに、何故か斜めがけにした額宛。
その下の目はどうなっているのか気になった。
現状の確認と、補給物資の配布、明朝までの待機と次第が確認され、シノギの天幕をでたころにはすでに日はとっくに落ち、森には真闇が迫っていた。
白い麻布でできた天幕は、次々に倒され、片付けられていく。灯りもないなか、忍びの目で、音もなく作業が進む。イルカの先ほどまでいた天幕も、瞬く間に片付けられていた。これから日の差す朝までが、忍びの戦場となる。
「イルカ、皆を呼べ」
「はい」
イルカは胸もとから、人差し指半分ほどの長さの小笛を取りだした。闇のなかへむけて、一息拭きだす。空気を震わす、音にならない音が、補給物資とともに梱包した虫に届く。笛を吹けば虫が騒ぎだし、笛の音に近づけば近づくほどうるさく羽を震わすようになっている。
遠ければ集するのも時間がかかるだろうが、ひとつの野営地でのこと。待つ間もなく、全員がタギとイルカのもとへ集まった。
タギが、明日までの段取りを伝える。ひとつは、この場で武器物資は配布すること。周囲には、気配さえしないものの、かすかな水音や、葉を踏みしめる音、それに人影も闇の中うかがうことができた。このイルカたちのミーティングが終わり次第、配布ということだろう。
もう一つは、食糧などの生活物資は、補給部隊全員で明朝まで守ること。この設営地は前線からは離れており、敵も食料だけを狙い攻撃することは考え難い。イルカを始めとする経験のあさい補給部隊の構成員でも、朝までなら守りとおせると判断したのだろう。
暗闇のなか、隊員は頷く。
それで全てだった。
2003.6.2