抱きしめて、キス
昨日のことを思い出しながら歩いていると、いつのまにかアカデミーまできていた。
同僚に出勤すると連絡してある時間にはまだ早い。
腰の袋には、カカシのメモ帳が入っている。
昨日、書かれてあることに気づいてからは、机の上に無造作に放置することなど、とても出来なかった。人目に触れさせるのも、日記を置いてあるような恥ずかしさを感じて出来ずに、結局持ち歩いている。
返すべき金額も、胸のベスト裏にあるのだから、仕事につくまえに探してもいいかもしれない、とイルカは行き先をすこし変えた。
今日も子どもが遊んでいる校庭を回って、近道をして一階の渡り廊下から建物を上がって、上忍待機所を覗いていこうと思った。
春の風が鼻先をくすぐる。若草と土の匂いがしっとりと含まれている空気に、春だなあ、と思いながら渡り廊下に上がる。
そういえば一週間ほど前、このあたりから火影と連れ立ってカカシが歩いてきたのだと思い出す。
この渡り廊下を、待機所と反対の方向へいけば医療棟だから、今から思えば納得だと、首をめぐらしたところでイルカは動きを止めた。
少し驚いて、目を瞬いたが、やはり見えているものは変わりなかった。
カカシが医療棟の扉をあけて、ちょうど渡り廊下へ出たところだった。
「―――イルカ先生、…こんにちは」
カカシも驚いたようだった。
一呼吸分だけの沈黙のあと、目を眩しげに細めて声をかけてきた。ゆっくりと、廊下の真ん中辺りに佇むイルカのほうへと歩んでくる。
こんにちは、と半ば鸚鵡返しのように答えながら、その姿に安心した。怪我はなさそうだ。
「声、…治ったんですね。良かったです」
「ええ、あの後、すぐに」
お世話になって本当にありがとうございました、と銀髪がやんわりと下がって、イルカは慌てて、顔を上げてくださいとカカシを制した。
「任務も、怪我もなさそうで、ご無事に帰られて良かったです。お疲れ様でした、おかえりなさい」
「うん。おかげさまで。…ただいま」
穏やかで静かな声だ。この声を聴くのもそういえば久しぶりだった。カカシの眉が、少し下がる。
「そういえば、あいつらも押しかけないで知らせをくれればよかったのに、お騒がせしてすいませんでした。ちゃんと言っておきましたから」
「え?」
「イルカ先生の家から失礼したときです。任務なら知らせでいいのに、わざわざ来たりしたでしょう。イルカ先生にも横柄な態度だったし」
そんな態度を取られた覚えはまったくなかったから、イルカは戸惑ってしまった。むしろ、また謝っているということに、引っ掛かりを覚えたほどだ。ふと思い出す。
「―――そういえば、そのときの方の顔が腫れていましたが」
「…あー…、腫れてましたか」
決まり悪げに、カカシが僅かに項垂れる。八つ当たり、とあの男は言っていたが、この様子ではカカシも自覚はあったらしい。
「手加減してください、って仰ってましたよ」
「あいつ…まったく、厚かましい…」
イルカでなく、記憶のあの青年にむかっての呟きを、カカシは漏らした。
いったいイルカの家から去った後にどんな会話をしたかは知らないが、カカシの八つ当たりを受けるぐらいなのだから、近しい相手だとは分かった。
それよりも、探していたカカシを前にして、いつまでも立ち話も無駄なことだった。
姿勢を正して切り出した。
「カカシさん、戻ったばかりのところを申し訳ないのですが、先日の任務のことでお話があるのですが、少しよろしいでしょうか」
眉を潜めたカカシがなにかを言う前に、早口で告げた。
「昨日、任務の報酬を受け取りました。ありがとうございました。ですが、金額があまりにも高額で、その、俺などに過分の評価をいただいたことはありがたいのですが、前例にもないことですのでお返ししたいと思い―――」
言いながら、ベスト裏からそれなりの厚みがある封筒を取り出したイルカを、カカシの手のひらが止めた。
「返してもらう必要はありません」
はっきりとした声音だった。
「いえ、そういうわけには」
「必要、ありません」
先ほどまでの柔和な気配はどこへやら、きっぱりとした言い様にはイルカの意見を聞かないという意思が見て取れた。
けれど、こちらにも通さなければいけない筋というものがあるつもりだ。
かまわずに封筒を取り出した。
「日数分だけ、通常の生活補助任務程度の金額はありがたく頂戴しました。ですから残りをお返しいたします」
「ですから、いりません」
「あなたのものです。受け取ってください」
「それは俺が、イルカ先生に迷惑をかけた金額として、妥当だと思ったから支払ったものです。それに、最初の任務書にも報酬は書かれていたじゃないですか。そのときに何も言わなかったのに、どうして今更そんなこというんですか」
自分の間抜けなミスを指摘されて、ぐっと詰まった。
「そ、それは、支払者があなただと思わなくて…」
「ああ、なるほどね。こういう任務なら忍者医療組合からですもんね、いつもなら。でも組合からなら指名はないし、こんな高額じゃないですよ」
やんわりと、イルカの思い込みを気づいていながら、指摘しなかったことを伺わせる、意地の悪いことを言う男をイルカは軽く睨みつけた。
「ですから、組合からなら、妥当だと思われる金額が認められるはずです。そのときは、何か理由があると思ったんです。ですが、終ってみれば日常生活の補助どころか、なにも介助らしい介助なんて、なにもできませんでした。それなのにこれだけの金額なんて―――」
「どうして?」
ふいに切り込まれた言葉に、は? とイルカは間抜けな声をもらした。
「どうして、なにもできなかったって思うの?」
真剣な目がイルカを射竦めていて、言葉が喉で消えた。
カカシが、心底不服だといいたげな声音で続ける。
「あなたが俺にしてくれたことを、ひとつひとつ説明しようとは思いません。俺がどんなふうに感じたか、あなたにちゃんと伝えられるとは思えないから。でもその分だけ、見合う額を払ったつもりです。なのに、どうしてなにも出来なかったなんてこと、思うの?」
子どもが言い募る真摯さに似ていた。
まっすぐな視線はイルカにだけ向けられていて、イルカは、分かりました、と引き下がりたい気持ちを懸命に押しとどめた。なんとか言葉をひねり出す。
「きゃ、客観的に見て、妥当ではないと申し上げているんです。前例にもないことですし、カカシさんにとっては正当な理由でも、他人からみて要らぬ口に上る可能性だってあるんです。一般的な額なら、申し訳ないですがもういただきました。残りを…」
「嫌です」
ぷい、と横を向いたカカシに唖然とした。
「さっきから聴いてれば、イルカ先生が受け取りたくない理由って、世間体だけですよね。金額が大きいとか、前例がないとか変な噂が立つとか。じゃあ、イルカ先生はどうなんですか。イルカ先生は、俺からの感謝なんて受け取りたく、ないんだ―――?」
卑怯な質問だった。
受け取らないといえば感謝を拒否していることになり、受け取るといえば、その金額分だけカカシが迷惑だったということになる。
カカシは確かに迷惑だった。
春休み明けの新年度への準備で忙しい時期に、いきなり任務を挟んできた。任務も良く分からないものであったし、任務中も気を使うことばかりだった。
カカシは借りてきた猫のように行儀良くはあったが、ときに強引で諦めが必要だった。
それでも、幾日かの共同生活のなかで、全てが迷惑だったとは言えないと思った。
カカシにはカカシの事情があって、イルカを頼ってきた。
純粋に、頼られたことが嬉しかった。
布団にもぐりこまれたことには閉口したが、心をゆだねられていることを感じて、イルカも安らいだ。
会話のない無音の時間に、背中に温もりがあることは、独りが長いイルカに、不思議な充実を感じさせた。
全てが迷惑でなく、ごく自然に、カカシが自分の傍で安らげるのなら嬉しいと思うようになっていた。
カカシが居るあいだ、あんなに気を使い、カカシの気持ちの幅に一緒になって慌てたのも、カカシを哀れだと思ったのも、イルカにもカカシに応えたいと感じていたからだ。
だから。
それだからこそ、カカシが高額を支払ったことに、いっそう不快感と遣り切れなさを感じたのかもしれない。
ギリ、と奥歯を噛み締めた。
選べない答えを求めるカカシに、悲しさが許容量を超えた。
手に持った封筒を、握り締める。
「あなたは―――」
「え?」
場所も考えず、言葉が滑り出た。
「あなたは俺を、金で買いたいんですか?」
傷つける言葉だと分かっていた。
カカシの顔が歪む。
それでも止められなかった。
「あなたはこの額を感謝の印だといいます。それはとても光栄です。嬉しいとも思います。でも、この行為は、札束で俺の顔をはたいているのと何も代わりません」
「イルカ先生」
「あなたは、俺を、金で買ったつもりなんですね」
そんな、とカカシが呟いたのが分かった。
「俺は―――そんな、つもりは」
ため息が唇から零れる。
カカシに『そんな』つもりがないことは、言ったイルカ自身がよく分かっていた。
ただ、カカシが自分の気持ちを金銭の額面で表そうとするから、イルカはこんなにも腹が立つ。
「話せるようになったのに、話が分かり合えない。これなら、話せなかったときのあなたのほうが、よほど分かりやすかったように俺には思えます」
行動が、指先から綴られた言葉が、イルカにカカシの気持ちを伝えていた。
それが、唇を伝うと、こんなにも分かりにくい。
言葉のない気持ちはまっすぐにイルカに届いていたのに。
「信頼できる沢山の仲間もいらっしゃるあなたに、なにをいうかと思われるでしょうが、仲間が助け合うときにいちいち金の話などしないでしょう。俺にも助け合える同僚がいますが、大変なときには頼むの一言で解決する場合だってあるんです」
握り締めた封筒を、カカシの胸に押し付けた。
「そして俺には、簡単な言葉をいうだけで、俺の全てを自由にできるようになる」
カカシが僅かに目を瞠った。
「―――でも、あなたはそれを使おうとしない」
お互いがお互いの気持ちを譲り合って、前に進めないことは知っていた。
いつからか、カカシがイルカを物言いたげに見つめるようになっていたことを分かっていたし、言わないでおこうとしていることも実は知っていた。
そして、それに安心していた。
カカシの相手は、自分などではいけないから。
どうやっても不釣合いにしか思えないから、イルカはカカシの形無い気持ちを見えないかのように無視し続け、自分の気持ちにも蓋をしてきた。
今回のカカシの行動で、少しは近づけたかと思っていたのに、やっぱりフリダシだ。
もうこんな、付かず離れずのもどかしさは、辛い。
「俺にいうべき言葉は、ありませんか?」
本当は自分が先にいうべきだろうとは思った。
だが、直感的に、イルカから先に告白したとしても、カカシは拒否するのではと思ったのだ。
いまさら隠すこともないだろうというほど、行動で好意を示していても、言葉にすまいと強い自制心をカカシは働かせている。
それがイルカに伝わり、もどかしさと苛立たしさになっていた。
「金額よりも、たった一言で、俺には充分なんです」
言葉にしないなら、行動にも示さないでくれ、と何度いいそうになったかしれない。
それを言わなかったのは、ただ、イルカも同じように自制していたからだ。
互いが自制を解く機会を作ったのはカカシ。
言うまいという自制心が強いのも、おそらくカカシだ。
だから、先に言ってくれと願うように、紙切れの束を押し付けた。
「俺は…―――」
言いかけたカカシの言葉を消して、ふいに声がかかった。
「―――…あのよー、邪魔してわりぃんだが、もうちーっと人の通らねえとこでやってもらえると、助かるんだがよ」
よく見知った上忍の声。
アスマだった。
カカシと同じ医療棟からの扉をくぐって、顔を出した彼は、セリフとは裏腹ににやにやとしていた。
さすが上忍らしく、まったく気づかなかった。
動きが止まって何も声がでない。
瞬時に染まった顔のイルカへ、カカシが遅れて返答をした。
「命令なんて―――嫌です」
瞬間、イルカの沸点が振り切れて、
「そうじゃないって言ってんでしょうが!」
手が勝手に動いて、押し付けていた封筒を思い切りカカシにぶちまけていた。
大量の紙切れが春風に舞う。
イルカは渡り廊下を飛び出した。
後先は考えなかった。
背中で、アスマの大きく笑う声が聞こえていた。
2009.03.31