抱きしめて、キス









 闇雲に走って、着いたのは火影岩の上。
 頭に血が上っていても、最後の分別だけはあったらしく、校庭は避けて、建物の外壁を飛んで屋上から屋根伝いに走った。
 遠めに、あの山桜らしき薄紫がみえたが、散り急いだのか、新緑の色彩のなかでそこだけが濃く枝色をみせていた。

 息を整えて、目をぎゅっと瞑る。
 背後に追いついてくる気配。

 追いかけてきてくれたことに、安心と苛立ちが起こる。
 振り返ると、途方にくれた顔のカカシが立っていた。

「…なにか」

 御用ですか、というニュアンスを含めて、厭味にイルカは言った。
 先ほど、大金を廊下にぶちまけておいて御用もなにもないというものだが、追いかけてきたカカシが困った様子で見つめてくるから、つい皮肉がでたのだ。
 追いかけてきたくせに、自分で困っていれば世話はない。

「イルカ先生…その…」
「返金処理については俺が全てしておきます。カカシさんがされることは領収書にサインしてもらうことぐらいですから、そのときはよろしくお願いしますね。じゃあ、そういうことで。任務お疲れ様でした。さようなら」

 言い捨てて、イルカは再び見晴らしの良い景色へと身体を向けた。

「イルカ、先生…」

 困りきった気配が名を呼ぶが、無視をする。
 肝心なことを言わないのであれば、関係はただの知り合いに戻るだけだ。
 カカシはイルカに妙な遠慮をし続けて、謝り続けるだけだろうし、イルカはカカシに他人行儀に接するだけだ。

 上忍中忍の関係からすると、少しおかしいかもしれないが、目立つほどではないだろうから問題ない。むしろ仲良く連れ立つほうが悪目立ちする。
 なんといってもカカシは里の宝同然だ。次期火影という噂も昔から囁かれていた。

 そんな忍びはさっさと、相応の相手を見つけて家庭を持って子どもを作り育てるべきだ。
 間違っても、中忍の男などに時間を割いている人間ではない。
 これまで、数え切れないほど自答してきた結論を、もう一度繰り返して、イルカは振り返った。

「色々と失礼なことをいってしまってすいませんでした。そうそう、これ、お忘れで―――」

 言葉は途中で途切れた。
 取り出したメモを持った腕ごと、イルカは抱きしめられていた。

「カ、カカシさん…っ?」

 驚いて声が裏返る。
 いきなりすぎて、驚くしかない。
 囁き声が、耳朶に吹き込まれる。

「―――俺は、ずっと我慢しなくちゃって思ってたんです」

 なにを、と問い返す前に、カカシが続ける。

「見てるだけ、話すだけ。それだけでも充分だと思ったときもありました。避けられてるのかなって思って、落ち込んだりするのも実は楽しかった。こんな気持ちがまだ自分にあったことが、嬉しかった」

 銀色の髪が肩口に寄せられ、少しこそばゆい。

「あなたを見てると、気持ちがふらついて自分が凄く惨めに思えます。でも、笑ったり話したりすると、幸せで、もうなにもいらないってぐらい、自分が満たされてるのが分かります。自分がこの世で一番幸せな人間なんだ、って胸を張れるぐらい、いっぱいの気持ちになるんです」

 腕の囲みが解かれ、間近で濃藍の眼がイルカをのぞきこんだ。

「そういう―――自分でもよく分からない気持ちを、あなたに言わないでおこうって、ずっと、我慢してました」

 だから、とカカシは少し笑う。

「あなたに言いたい言葉はたくさんありすぎて、いまさら、ひとつになんてできません。それに、あなたは優しいから、俺が情けなく縋れば振り向いてくれそうだったから、それなら、―――それなら、命令のほうがまだマシだって思ったんです」

 イルカを怒鳴らせた原因の一言。
 情けで縛るより、命令で縛った方が、まだマシ。
 イルカにはそう聴こえた。

 酷い告白だった。
 涙も出ないほど、イルカの気持ちを無視した告白だ。

「…だから、任務を出したんですか」
「そうです」

 任務なら、イルカを縛れるから。

「でも嬉しすぎて、…やっぱりあなたの声が聞こえないのが寂しくて、色々変に甘えちゃいました。ごめんなさい」

 そしてイルカの手のなかにあるメモ帳に目を落とす。
 そっと抜き取って、両手のひらで祈るように包み込んだ。

「大事なもの、忘れてました。届けてくれてありがとう」
「あなたのものですから…」
「イルカ先生の字が書いてあるでしょ?」

 だから大事だと、カカシは微笑んだ。
 気まずさを誤魔化すために書いただけの文字を、嬉しげに大事だという姿に胸が詰まった。
 さて、とカカシが大きく息を吸った。

「俺のいいたいことはこれで全部です。…なんだかすっきりしました」

 晴ればれと微笑んでいる。
 イルカがいうべき言葉の前に、すでに決着をつけているかのようだ。
 心底腹が立ってきた。

「じゃあ、次は俺の番ですね」

 いうべきことは決まっている。
 そしてこの独りで晴々しく笑っている顔を崩してやろう。

 イルカの気持ちをしって、この男がどう反応するのかは想像が難しいが、イルカがやりたいことは決まっている。
 抱きしめてキスをするのだ。
 鼓動で気持ちをきかれてばかりなど、馬鹿らしい。

 言葉は気持ちを伝える。
 唇は、温もりを伝えるためにあるのだ。


「いいですか、俺は、あなたのことを―――」


 指先が綴った文字よりも、温かく。

 ベスト越しの心音よりずっと、確かに。
 気持ちを伝えるために、イルカは口を開いた。



2009.03.31