抱きしめて、キス









 次の日も、美しく晴れていた。
 職場には昨日のうちに午前中休むと連絡して、銀行によってから出勤することにした。
 金額のために身分証明書の提示を求められたりで手間取ったが、振り込まれた金額から、妥当な代金をきっちりと引いた分を無事に現金化できた。

 普段持ち歩かないような札束が入った封筒を、大事にベストの内ポケットにしまう。
 昨日、調べたかぎりではカカシの帰還は午前中。
 うまくすれば昼休みにでも捕まえられるかもしれないな、と思いつつ、通りをアカデミーへと進む。

 昼前の里の通りは、人の動きものんびりとしている。
 それらを見るともなしに眺めつつ、同じようにゆったりと足を動かしながら、昨日のことを思い出していた。

 火影の部屋から辞したあと、火照った頬のまま、何も考えずに歩くと、気が付けば職員室の自分の机に座っていた。
 ぐるぐるした頭でも、せっかくの休日出勤だから仕事はしようという一線は残っていたらしい。
 いつもは人がそれなりに待機しているが、春休み中の休日ともあって、今は誰もいないようだった。おかげでこの赤い顔をみられずにすんだと感謝する。

 机に肘をついて、頭を抱えた。
 火影に見透かされていたことへの居た堪れなさと、恥ずかしさと、見透かされるような行動をしたカカシへの八つ当たり気味な怒りとが、頭に渦巻く。
 ああぁ、とため息とも唸りともつかない吐息を、たっぶりと吐いて、机に頭を伏せた。

 乱雑な机の上のものが、腕の押しでガチャガチャと脇に退いた。クシャ、と耳に紙のよれる音が届く。
 記憶に、ふとした引っ掛かりを覚えて、顔を伏せたまま、あてずっぽうに手を動かして、その音をとり上げる。
 顔を横にだけ向けて、だらしなく見てみると、やはりそれはカカシのメモ帳だった。

 任務の終った日に、カカシが置いていったものだ。
 忘れ物かと思い、機会があれば届けようと会う可能性の高いアカデミーに持ってきていた。
 なんとなく、捲ってみる。
 一枚目は、

『きこえない音がきこえて
 ねむれないんです』

 と書かれていた。
 実際には動かさずに心中で首を傾げた。
 聴こえないのに聴こえるというのも変だし、このメモ帳はカカシが不調に陥ってから用いたものだろうから、何かが聴こえることもおかしい。
 そういえば、来た初日にいきなり寝ていたなと思い出しながら二枚目を捲ると、

『めいわくをかけてごめんなさい。
  たよれそうなやつはさとの外で今いないんです』

 という見たことのある文字になっていた。イルカと合流する前に使った機会は一度だけだったらしい。以降はみたことのあるものばかりだろうと、適当にパラパラと捲ってみた。

 『本当にイルカ先生の生活を邪魔してすいません』

 『だまっていてごめんなさい。』

 『午前中つぶしちゃってすいません。』

 『かってにごめんなさい。』

 『すいません。ながいことねてました』

 『不自由なおもいさせてすいません』

 『ごめんなさい、ありがとう』

 メモ帳は使い切られていない。
 せいぜい、三分の一ほどだ。
 その使用枚数のなかで、目に付いた言葉の数々。

「―――謝ってばっかじゃないか、あの人…」

 ぽつりと呟きがもれた。
 そんなに謝らせるようなことをしていただろうかと自問してみたが、しばらく考えても、答えは否だった。
 苛立っていた記憶はある。
 けれどそれは、むしろ謝るカカシに対しての苛立ちだった。

「……」

 ため息をついて、指先でぱらつかせていたメモ帳を閉じようとした視線の先に、歪な字が見えた。
 カカシの字は綺麗だとは言いがたいが、一応、成人男性としては及第点にはいる部類の筆跡だ。

 だがちらりと見えたものは、字とはいえないほどの線のようなものだったから、気になった。下のほうから捲っていくと、白いページから上のほうになって文字が見え始める。指先で、落ちるにまかせてページを繰っているから、見逃したらしく、何度か捲ってみて、それが使用されている最後の二ページだと分かった。

「…んだ、これ。えぇと…いち、いち…て? 9? わかんね、なんて書いたんだ、あの人。花見のときかな。最後のは、…ああ、そうか、書き直した…―――」

 呟きながらページを捲ると、今度は読める文字が見えた。
 たしか、暗くて読めなかったはずだ。

『イルカ先生の
   しんぞうの音が
        きこえます』

 いくぶん読みにくい歪さではあったが、しっかりと読めた。
 あの夜の体勢を思い出して、頬に勝手に血が上る。
 あんな風に寝そべって抱き合えていたのは、周囲に誰も居ないと分かっていたからだ。
 それと、カカシの強引さに逆らう気が無かったからでもあった。

 それにしても、とイルカは少し笑ってしまった。
 あのときの二人はいつもどおりの格好で、定められた忍び服にベストを着ていた。ベストには胸の部分に収納が付いていて、さらに防護の意味もあって厚く作られている。
 だから、どんなにカカシの耳が聞こえていて、どんなに良かったとしても、イルカの鼓動が聞こえるはずがない。
 聴こえたとすれば、それは幻聴に近いもののはずだ。

 山桜の美しさに酔っていたのかも、と微笑みつつメモ帳を閉じた。
 閉じて、ふと、もう一度、最初のページを開けてみた。

『きこえない音がきこえて
 ねむれないんです』

 だらしない姿勢をといて、イルカは頭を上げた。
 書かれているカカシの筆跡を、じっと見つめる。
 もう一度、最後のページを開けてみた。

 ふいに、カカシがイルカの部屋で昼寝をしていたときの寝姿を思い出した。大して不思議にも思わなかったが、いつも横になって寝ていた。片付けの音や振動が響いていたはずなのに、起きずに姿勢も変えず横になっていた。
 そしてイルカが腰を落ち着けたころに起きてきたり、背中合わせにもたれてきたりもしていた。
 布団に入り込んできたときは、胸に頭を乗せていた。
 おかげで重かったしなんとも息苦しかったが、あのときは任務だからしょうがないと諦めて、行動の理由を問いはしなかったが―――。

「………う、わ」

 たった数日のことなのに、一度にいろんな場面がイルカの記憶に押し寄せて、イルカの顔が赤く染まる。
 感じていたよりもずっと、ひたむきな信頼を預けてくれていたのだと、いまさら分かった気がした。
 勘違いかもしれない。
 けれど―――。

 最終ページを捲った指先が震え、手前のページが開いた。
 読めなかった文字。
 血が上って、うまくまとまらない思考に、その歪んだ綴りが滑り込んでくる。
 文字ともいえないような線と曲線が、ぼんやりと、記憶と繋がった。

「―――…こころの音、か…?」

 確信は無い。
 あの夜に手のひらで読んだ唇も、よくは分からなかった。
 ただあるのは歪な線の綴りだけ。
 てがかりは最後のページの言葉だけ。

 しばらくのあいだ、なぜか滲みそうになる涙を堪えて、イルカは顔を伏せた。
 カカシの想いが切なく、やりきれなかった。

 滅私奉公など死語になっているのに、カカシはまるで忍びとして常に生きているようだと思っていた。仕事しかしていない、と微笑った顔は忘れられない。
 そのカカシが不調だとイルカに世話を頼んだ。
 聴こえない音が聴こえると言い、イルカの作り出す物音や鼓動を聴こえない耳で聴いていた。

 馬鹿みたいだ、と思った。
 言葉にしないカカシが心底馬鹿で、でも一番の愚か者はやはり自分なのだろうと、イルカは独りの職員室で鼻を啜った。



2009.03.31