抱きしめて、キス









 その日のうちに、イルカは受付所に行き、報告書を提出した。ちなみに、カカシの私物はしばらくの後に、あの男がなぜか頬を腫らした顔で取りに来た。去り際、

「今度、カカシ先輩に八つ当たりは手加減するもんだ、って言っておいてください。酷いですよ」

 などと恨めしく言われた。

 報告書はいくつかが空白のままになった。
 自分の書けるところを埋めても、依頼人や支払者、依頼目的や達成目標などは空欄のままだ。本来は、任務を請負うさいには記載されているはずの、依頼者が埋める箇所ばかりだからだ。

 顔見知りの受付員が、報告書の通し番号から控えを出してきて、受付に知らされていた情報をイルカの書いた報告書に正式に記していき、受理されれば任務は終了となる。
 支払は振込みで、早ければ明日にでもされるだろうと言われ、首を傾げながら受付所を出た。

 個人主なら支払いも早いが、依頼主はおそらく里の忍者医療協同組合だろう。締め日の関係もあり、月をまたぐと思っていた。それに今回は予定日数よりも短くなった。報酬を日数で割って支給するだろうから、手続きに手間取るという可能性もある。
 もしや、里の宝とまでいわれることもあるカカシに関する任務だから支払が早いのだろうかと考えたが、お役所仕事にそれはないかな、と思い直す。

 春の陽射しのなか、家路を辿る。
 通りにも桜があるのだろう、どこからか花びらが春風にのって土の上に散っていた。
 大事無く終ってよかったという気持ちと、唐突に終った任務への寂しさとがぼんやりと胸のうちにこみ上げてきて、カカシが里桜の散り終わらないうちに帰ってこれると良いとだけ願った。

 その二日後。
 麗らかに晴れた春の日。
 休日出勤のついでに銀行に寄ったイルカは、残高照会の画面で絶句することになった。

「…なんだこれ」

 ゼロが明らかに多い。
 慌てて、通帳を入れて記帳してみた。
 機械から吐き出されてきた帳面には、以前確認したときより増えた数行。その最後の行に、酷い金額の振込み額があった。イルカの半年分の給料額に近い。

 それよりもなお、イルカを絶句させたのは、振込み人の名前に『ハタケカカシ』と印字されていたからだった。

 イルカは何ページか捲り、以前の振込みを確認する。たしか、忍者医療協同組合からの振込みであれば、『ニンシャイリョウク』となっていたはずだ。
 数年前に、木の葉病院で負傷者の治療の手伝いをしたときに、振込みをされた。その記入をみつけ、記憶が正しかったことを確認する。

 そして現在の欄。
 しばらくぼんやりして、そして早足で銀行を後にした。

「バカじゃないのか、あの人」

 呟く。
 口にでもださないとやってられなかった。
 駆け出したいのを押さえながら歩いていたから、まるで怒っているような足音になりながら、火影の執務室の扉を叩いた。
 入れ、という声で中に入ると、火影が茶を飲みながら、柳眉をひょいと上げた。

「なんだい、そんな怖い顔をして」
「―――はたけ上忍の、先日の任務について、いくつかお伺いしたいことがありまして、お時間いただけますでしょうか」

 言葉面こそ丁寧だが、言い回しといい押し殺した声といい、いかにも厭味に聞こえたのだろう。火影は若々しい顔を呆れたようにしかめて、ふん、と鼻を鳴らした。

「なんだ、そのことか。わざわざ私に尋ねるほどのことかい」
「はたけ上忍はまだ任務に就かれていると存じます。それは火影様のほうがよくご存知なのでは」
「あー、もうそのバカ丁寧な話し方はやめな。そうだよ、たしかにカカシはあたしの命令で任務に就いてる。だがな、最初にいったろ。詳しいことはあの子に聞きな、って」
「ですが、先日の任務の依頼人が、はたけ上忍だったことはおっしゃいませんでした」
「そりゃ気づかなかったお前が悪い」
「で、ですが」
「あの子だって訊かれなきゃ答えないのは当たり前さ」

 開き直られて、グッとつまる。いわれてみれば、そうかもしれないという面も、あるにはある。
 最初に任務書をみせられたときに、ランクと報酬だけというところに食いつくべきだった。
 カカシの怪我の世話という内容で、誰に訊かずとも、忍びの医療組合からの委託任務だという認識が、今までの任務から考えて妥当だと、独りで判断したイルカのミスだ。

 依頼人のところが白紙ですが忍医協ですよね、と一言いえばよかったのかもしれない。
 そんな反省がちらりと頭を掠めたのは一瞬。
 火影の、おきらくな声に壊された。

「ま、黙っててくれとは言われてたんだがね」
「―――は?」

 つい失敬な声がでてしまったが、火影は気にすることなく続けた。

「カカシにだよ。これこれこういう任務を出したいが、支障はないだろうかって話をしにきたときにね、どうか本人には自分で任務をだしたことは言わないでほしい、その上で任務として受理してもらえるだろうか、ってそりゃあ必死でね。まあ、ここで言っちまったらおんなじだろうが、みたところお前もピンシャンしてるってことは無事に終ったんだろ? なら種明かししても―――」
「…火影様、では怪我のことも嘘だったんですね」

 さすがに、茶を啜りながらの火影も、イルカの重低音にビクっとなった。火影の言葉をきくうちに鬼瓦のような顔になっていたイルカにようやく気づいたようだ。

「い、いや、それは本当さ」
「しかしはたけ上忍が依頼にきたというのは―――」
「だから、本来なら自宅療養だったのを、あいつが世話人を希望してきて、その指名がお前だったってことさ。なにも全部がウソってわけじゃないよ。私とて火影だ、そんな人を騙して遊ぶようなことはすまいよ」

 最後はきりりとした顔で火影は言ったが、いまいち威厳に欠けた。なにせ片手に湯飲み茶碗を持ったままだ。

「カカシがお伺いを立ててきたってのは、アカデミーのあんたを指名してもいいかってことだ。けしてあんたを騙そうって腹じゃないよ、それは信じてやりな」
「火影様…」

 イルカだとて、火影が全面的に興味本位で任務を許可したとは思っていない。
 最初の説明時に納得するものがあったから、引き受けもしたのだ。怪我をして不便だというのも、知り合いだったイルカに頼んだというのも、強引ではあったが納得はできた。

 だが、その背後で二人が申し合わせをしていたとなれば、話はすこしタチの悪い色を帯びはしないだろうか。
 ジトッとした目になっていたのだろう、火影がひるんだように軽くのけぞった。言い訳か、

「いや、ほら、カカシも働き通しだったし、ここらで休みをくれてやろうと思っていたのさ。そのついでに色々サービスしすぎたきらいもあるが―――」
「サービス?」

 まずった、という顔で口を噤んだ火影。
 ハッと思い当たる。

「もしかして手を繋いでこいという…」
「あー、まー、実際に危険性はゼロじゃなかったんだ。お前なら事情は分からないでも、危ないって言われりゃ近くの奴を庇いそうなもんだし………あぁ、分かってるよ。そんなに睨むな」
「火影さま…」
「お前にだって悪い話でもないと思ったんだ。あの子が払うといった額はそりゃあ大層なもんだったが、それだけ本気だと分かるものだった。デカイ客には、それなりのサービスってのがつくもんだろ?」

 たしかにそれはそうだが、部下に対しての任務にも、そんなサービス精神を発揮しては欲しくなかった。
 恨みがましい目のイルカに、とりなすように、多少の威厳を回復させて火影は言った。

「あの子だって鬼や機械でもないんだ。弱ってるときもある。そんなときに頼りたい人間がいるってことに、反対に私は安心したよ。まあそれがお前だってことに少々驚きはしたがな」

 ちらりと含みの有る視線を投げられ、顔が赤らむのがわかったが、同時に苛立ちも感じた。
 イルカ自身もカカシの態度に戸惑ってばかりだというのに、どうして第三者にまで驚いたなどといわれなければならないのか。
 驚いているのはむしろこっちなんだ、といいたい気持ちをぐっとのみこむ。

「話しはそれだけかい? ま、明日には帰ってくるだろう。文句は私にじゃなくカカシにいってやりな」

 そういって話を終らせようとするから、この執務室にきたはじめの動機を思い出す。
 とはいえ、火影のこの態度なら、それもカカシに言えといいそうだな、と思いつつ、そろりと切り出した。

「…報酬の額が多過ぎるかと思うのですが、一週間と聞いていましたし、任務内容も額にしては多すぎます。はたけ上忍からの依頼ということでしたら、必要額だけいただいて、あとは返金したいのですが」

 はあ? と火影の呆れ顔がイルカに向く。

「あんた、ほんとにクソ真面目だね」
「……」

 この場合、褒め言葉ではないことは分かるぐらいには、イルカは真面目ではない。
 むすっとしたまま続けた。

「実質三日間、日常生活を自分で行える人を自宅に泊めてメシを食わせただけです。世話らしい世話などしてません。たったそれだけのことで、あれほどの額をいただくのは心苦しいんです。ですから…」
「もらっとけばいいじゃないか。どれだけ払おうがカカシの自由だ、それは。幸い払う甲斐性もあるんだから良いことだよ」
「…そういう話しではありません」

 まるで、タチの悪い結婚詐欺のような言い分に、がっくりとなると同時に、なぜか腹立たしさも感じた。
 カカシの金は、カカシの命の金額だ。カカシが忍びとして高名なのは、実力とともに、危険な任務も多くこなしているからだ。けして、安い金ではない。

 だから、火影の言い分はまるでカカシの命を軽んじているように聴こえて、そうではないと分かっていても、苛立ちを感じた。その棘を吐き出すように言った。

「労働にみあった金額なら喜んでいただきます。しかし今回の任務と、いただいた金額はみあいません。ですから」
「…あー、分かったわかった。勝手にしな」

 眉を顰めて、手がひらひらと空を切る。

「そんなに不服なら、直接カカシに返せばいいさ。お前たちの問題だ。それに文句もあるんだろ? 任務書のほうは適当に訂正しておくさ」

 あきらかに面倒くさくなったと思われる返事で、まだ言い足りなかったところもあったが、事務手続きについては了承を得られたようだった。
 とはいえ、申し立て手続きや申告書記入など、任務終了後の報酬変更や返金は、頭痛がするほど面倒くさく、イルカがしなければいけない手続きは一つも減っていないのだが、上に話が通っていると話しが早いことは確かだ。
 話しの結論は想像通り、カカシに言えというところに落ち着いていたが、これ以上文句はいえないだろう。
 イルカは一礼して執務室を出ようと背を返した。

 その背に、イルカ、と声がかかる。
 振り返ると、先ほどまでのうんざりした顔はどこへやら、驚くほど柔和な表情を向けられていた。
 雛鳥の話しを知っているか、と言う。

「…雛鳥…ですか? どういったお話でしょう」
「孵ったヒナは最初に見たものを親と思い込むってやつさ」

 それなら知っていたが、すぐに火影の意図を感じてイルカは眉を寄せた。火影も見てとっただろうに、構わずに話す。

「なにも最初に見ていなくても、世話をやいたり愛情をかけたりすれば、ヒナはそのぶんだけ信頼をくれる。全身をゆだねて懐いてくれる」
「…はたけ上忍の生まれたときに居合わせた覚えも、世話を焼いた覚えも、愛情をかけた覚えもありませんが」
「そう結論をせくな。もうひとつ、正反対だが、親が子どもを食う種族もいると知っているか」

 詳しくは知らないが、厳しい自然環境のなかで生きる野生動物のなかには、父親が子どもを糧にしようとするために、生まれて歩けるようになれば母親が子どもを連れて父親から離れる種があると聞いた事がある。
 職員室で、犬好きの同僚が話していたが、なんて酷い親だと思わない、と憤慨していた。
 イルカは、子どもを食べても存続していく生命の連鎖というのは凄いものだな、と思っていた。

「…詳しくは知りませんが、聞いたことはあります。子どもは逃げると聞きましたが」
「そうだ。たとえ親からでも、危害を加えられるのなら逃げる。まあ動物なら当たり前のことだな」
「あの…一体なにを」

 仰りたいのでしょう、という語尾を、火影の穏やかな声が上書きした。

「だからさ、懐いたり懐かれたりすんのはさ、生い立ちや血縁よりも、そーいうもんじゃないのかって話しさ」
「そいういうとは…」
「頼っていいって思えるってことは、危害を加えられることがないって確信だよ。そして、頼るほうだけじゃなく、頼られるほうにも、それ相応の確信があるってことさ」

 火影の暗喩に似た言葉が、沁みこむあいだは三秒ほど。
 わかってんだろ、とにんまり笑う火影をみて、イルカの顔が真っ赤に染まった。

 あけすけに見透かされている言葉に、何も言えずに、あたふたと一礼だけを返して、部屋を出た。
 だから、イルカが去った部屋の中、若々しい顔が楽しげに笑いつつ、

「こりゃサービス過多かね」

 と呟いた言葉をイルカがきくことはなかった。



2009.03.31