抱きしめて、キス
夜桜は美しかった。
夕食を食べ終え、カカシが自主的に片づけを手伝ってくれたから、思ったより早く家をでることになった。
適当に散歩がてらアカデミーまで行って校庭の桜でもみて帰ろうかと思っていたのだが、部屋を出て、カカシがイルカの手を引いた。
そうして、引かれるままにやってきたのは、里外れの演習場の中。
雑木林にちらほらと大きな山桜の木が混じっていた。
時期が違うのか、里ではもう葉桜になりかけている樹もあるだろうに、この樹郡は今が盛りのようだ。
街灯も光も無かったが、晴れた夜空の月が美しく、桜も仄かに輝いているようにみえた。
里で花開いているものとは少し風情が違う。
飾らずにただただ季節の彩りを映し出しているような佇まいが、生命力と美しさを感じさせて、イルカはしばらく立ち竦んでしまった。
カカシに、手を引かれて我にかえる。
「す、すいません、綺麗でつい…」
引きずられるようにして、いくつかの山桜の横を通りすぎたあと、木立のなかに、奇妙に目を引くのびのびとした枝振りの山桜が立っていた。
大きさとしては他の山桜と変わりは無いが、その枝の伸び様が具合良く横と空とに広がり、その幹の根元には人が座るにちょうど良さそうな場所も開けていた。
まるで、人を受け入れる佇まいに思えた。
カカシはその樹の前で立ち止まり、イルカを振り返る。
外出するからといつもの格好に戻っていたから、あいにく右目しか見えていないが、微笑んでいることは分かった。
「…綺麗ですね。それにとても良い感じの樹です」
言うと、嬉しげに頷いている。
ここ二三日で、ずいぶんとカカシの表情を読めるようになったなと感慨深く山桜を眺めていると、繋いだままだった手がまた引かれた。
「ぅえっ?」
驚いている間もなく、瞬きのあいだに樹の根元に押し倒されていた。
山桜の濃い花弁が視界いっぱいに広がり、その向こうに夜空の藍が見えている。
背中は痛くなかった。
柔らかい土と下草があったこともあるし、カカシの腕が器用に衝撃を和らげてくれたためもある。
カカシがゆっくりと、仰向けのイルカの胸に額を押し付けて、抱きしめてきた。
身動きできずに呆気にとられたまま、桜を見上げた。
危険を感じないのが不思議だった。
以前から感じていたカカシの視線の意味を考えれば、有る程度の危険を感じてもいいと思うのだが、ここ数日で、麻痺してしまったようだ。
子どもにしがみ付かれているような感覚もある。
目に映る色は、藍と桜。
ひらりと夜空を舞う星の光と花弁。
わずかに高鳴るのは自分の鼓動。
手のひらが勝手に動いて、カカシの銀色をふわりと撫でた。
抵抗もなく、二度、三度と撫でる。
頭がもっとというように手のひらに添ってきて、柔らかく撫で続けた。
まだ肌寒い春の夜風が肩口に沁みこむが、体温でほかの部分は暖かい。
どれぐらいそうしていただろうか、暖かい指先が、撫でる銀の頭髪と同じ冷たさになるほどのあいだ。
そろそろ帰ろうと言い出そうかと、思いはじめたイルカの手のひらを、カカシのひんやりとした手のひらがそっと掴んだ。
唇が手のひらに当たった。
キスされているようだ、と思った。
それがあまりにそっと触れてくるから、誤解しそうになったが、唇がなにかを伝えようと動いていて、戸惑った。
「…えぇと、何をおっしゃって―――」
顔も唇もみえない状態で、手のひらで声を読めといわれても、イルカはそこまで達者ではない。
だから困って言うと、カカシの顔があがって、ニコリと笑う。薄闇のなかでも、気配でそれは分かった。
そして圧し掛かったままの状態で、腰のポーチからメモを取り出して、なにかを書いて止め、捲って新しく書いてくれたが、残念ながら見えなかった。
表情は気配で伝わるものだが、文字は見えなければ読めない。
メモを受け取って、目をこらしても分からなかった。
手のひらに綴ってくださいと言うのも気が引けた。
「―――…すいません、分かりません」
観念して返すと、カカシが首を横に振った。
気にしないで、というような仕草。
カカシが起き上がって、腕を引かれてイルカも強引に立ち上がった。押し倒されたときもそうだが、していることはイルカの意思もきかずに勝手気侭だというのに、動作はやけに丁寧で丁重だ。
起き上がるときも、勢い余ったイルカの身体の脇を、両手で支えてふわりと着地させた。
動作だけみれば、遊び馴れた男のようだ。
ありがとうございます、と礼はいったが、気にしてもしょうがない棘を感じた。
帰って、冷えた身体を温めてから寝床についた。
カカシは床に延べた布団で本を読んでいる。
寝るときはいつも問題なく下で寝ているのだが、一昨日と昨日と、そのままで寝ていたことはない。
起きればイルカのベッドへ潜り込んできている。
変なことをされているわけでなく、大型犬がぬくもり恋しさに入り込んだような無造作加減だから、イルカも驚きつつ曖昧に許してしまっていた。
聴こえるようになったら小言でもいってやろうと、思っていたことを思い出したが、二日前は二日前だ。
「カカシさん」
ぴくっと反応した頭がイルカを見る。なにかと不思議そうな目で見てくる。
「こっち――――――」
こっちきて寝ますか。
言いかけた言葉を、慌てて飲み込んだ。
問題のありすぎる字面だ。
形に残らない音にしたとしても、恥ずかしすぎるセリフだ。
「あー、ええと、その」
じっと見てくる片目の藍色にしどろもどろになり、自棄になって、イルカは座っていたベッドの傍らを、ぽんぽんと叩いた。
カカシの目が丸くなった。
気恥ずかしくて顔が赤くなっていくが、ぐっと堪えて、
「よ、良かったら、ですけど…」
なんとかそう言うと、驚いた顔のカカシが、にっこりと破顔した。すくっと立ち上がって、イルカを押し倒す勢いでベッドに上がってきた。
「うわっ?」
腕が腰に巻きついてきて、まるでナルトのように懐いている。動物なら、振り千切れんばかりの尻尾か、ごろごろと鳴る喉に例えることができそうだ。見掛けはイルカよりも身長の高い年上の男だが。
「せ、狭いんで、寝返りとかできませんし、俺が寝ぼけて蹴ったりするかもしれませんけど」
あんまり嬉しそうにするから、本当にいいのかと言い足してみたが、ベッドから降りる様子はなく、何度も頷いて、いそいそと布団にもぐりこんでいる。
はやくイルカ先生も、とカカシの訴えてくる目に頭を抱えたくなった。
「ちょっと、待ってください。台所の電気も消してきますから。カカシさんは歯、みがきましたか?」
うん、と頷く銀色の頭髪。
ため息を堪えつつ台所の電気を消し、火の元を確認した。
「電気、消しますよ」
言って寝室の電気も消す。
暗くなる寸前、ベッドの傍らに延べられた布団は、誰も寝るものも居らずに、白いばかりだった。
ぽすぽす、とシーツを叩いている音がする。
はやく、という言葉の代わりだろうか。
子どもの世話と思おう、という以前の決心は正しかった。
まさしく子どもだよと内心のため息をつきつつ、けれど、以前のような苛立ちはなぜか消えていた。
布団に潜り込むとすぐに腕が腰に絡みついてきて、けれど嫌だとは思わず、逆に体温に安心する。独りが長かったからダメだなと自戒したが、それもすぐに温もりと柔らかな春の眠りにのみこまれていった。
2009.03.31