抱きしめて、キス
次に起きたのは、昨日と同じような、昼前。
カカシの温もりはなく、何かを炒める音が部屋向こうから聞こえてきていた。
昨日と同じように、先に起きだしてメシを作っているのだろう。
任務だと何回いってもきいてくれない人だと思いつつ、体を起こした。好きなようにさせておくのがいいかもしれない。メシを作る分にはイルカの助けになっているわけだし。
あくびをしながらベッドを降りる。
聴こえないのだから当然かもしれないが、カカシは振り返ることなく気づかない。顔をあらって綺麗にし、髪を整えた。二日連続で寝すぎたせいで、反対にまだ眠い。
あくびを堪えながら台所にいくと、まだカカシは料理に向き合っていた。
フライパンがせわしく動いていて、炒飯に見える。
わざわざ料理中に邪魔するのもな、と遠慮して、寝る前に畳んだままのちゃぶ台を出すことにした。壁にたてかけてあったちゃぶ台を、逆さにしてから足を立てる。古いものだから、ガコッと音がして、溝にはまったことを確認してから、逆さからもういちどひっくり返して正しい位置にして、畳においた。
気づくと料理の音が止んでいて、身体を起こして振り返ると、カカシがこちらをみていた。
「おはようございます」
唇で、カカシもおはようございますと返してきた。
いつ気づいたのだろうと首をすこし捻った。
もう音が聞こえるようになったのだろうか。でもそれなら、さすがに言ってくれるだろうし、イルカが起きたときに気づかないことはないだろう。
だから音のわけがない。
じゃあ気配だろうか、と思って、ふと、揺れや振動かもしれないな、と思った。
昼飯は予想通り、炒飯ともやしスープとトマトの酢の物だった。意外と芸が細かいと感心するのもあとにして、ごちそうさまと食事を終えた早々に聞いてみると、カカシは情けない顔をして頷いた。
そして残像の出る勢いでメモを掴むと、強い筆圧で書いてイルカに示した。
『だまっていてごめんなさい。でもかんじれるだけできこえないのは本当なんです』
「あ、いや、別に騙されたとか思ってませんし、術の影響なんですからカカシさんは悪くないので、謝ることは…」
音も振動も、聴力に関しては鼓膜が震えて聴こえるということで繋がっている。直接的な振動なら耳だけでなく身体で感じることも多いから、気づかなかったイルカが迂闊なだけだ。
それに、耳でも振動が感じれるというのなら、なんとも想像しがたい不思議な話だが、単純に術の不完全さを表しているようで喜ばしいことだ。
火影も三日で聴こえるようになるといっていたし、今日は三日目だ。
もうすぐ回復する兆しかもしれないな、とイルカは嬉しくなって微笑んだ。
「良かったです。安心しました。じゃあ聴こえるようになるのも近いかもしれないですね」
人よりも感覚が鋭いのが忍びで、その忍びのなかでもさらに研ぎ澄まされているのが上忍だ。だから、さぞかし不便を感じているだろうという考えがあったからの、思いやりと喜びの言葉だったのだが、カカシの顔は情けなさそうな顔をいっそうしかめて、文字を綴った。
『本当にイルカ先生の生活を邪魔してすいません』
「え? なんで…」
理解できない曲解だ。
呆れてカカシの顔をみると、本気でいっているようにしか見えない、悲壮な表情。なまじ顔がいいから、よけいに哀れにみえた。
慌てて、手のひらと頭を大きく横に振った。
「そんな、邪魔だなんてことはありません。現に、こうして俺が作るべきメシも作ってもらったりして助かっています。ありがとうございます」
それでも晴れない表情に、イルカも焦ってくる。
じっと見つめてくる目を見つめ返せずに、視線を下にずらすと、メモがカカシの指に握り締められていた。
とっさに、それを強引に奪った。
昨日の昼飯と今日の昼飯はカカシが作った。一昨日と昨日と、たぶん今日の晩飯もイルカが作る。カカシは一昨日も昨日も、このメモにわざわざ書いた。
たぶん捲れば、その字面がでてくるはずだが、イルカには過ぎた言葉に思えて恥ずかしかった。
こんなドン臭い男の手料理に、似合う言葉とも思えなかったのに、カカシが満足そうに書くから、恥ずかしいと同時に、うっかり嬉しいと思ってしまった。
だから、今度はイルカの番だろうと、思ったからメモを奪って書いた。
『ヒルメシ、うまかったです、ごちそうさまでした』
くるっと天地を返して、カカシへ付き返す。
蒼色の視線が、僅かな時間でイルカの言葉を読む。
瞬きが繰り返されて、視線が上に戻った。
情けなかった顔が、嬉しげにほころんで、ありがとうございますと唇が動いた。
その笑顔が、ふと夢の中の記憶と重なって、なぜか安心した。
夕刻、食事の支度を始めたイルカの鼻先に、外の春風が香った。
炊事場に備え付けの、小さな窓からの風だ。
この二日間、天気も良かったのに外出していないから、風の匂いだけでも外を感じられれば嬉しいものだ。
ついつい変な鼻歌も出て、聴こえている人も居ないしと開き直って、ひとしきり歌った。
献立は、春玉ねぎとジャガイモで肉じゃがをつくり、蕪の味噌汁とキャベツを蒸してサラダにした。ついでに開きの塩サンマも焼いておく。男の手料理としては上出来だ、と自画自賛した。
じゃがいもにほっこりと火が通ったことを確認して、イルカは鍋に蓋をした。
カカシは、食事の支度にイルカが立ったときに、『すこし横になっています』と座布団を枕にしていたから、いまも畳に寝転がっているはずだ。
あんなに寝ているのに、よく寝れるなと感心する。案外、耳や喉の障害は口実で、身体的な疲労が極度に溜まっているんじゃないかとさえ案じてしまう。
そのカカシがまだ寝ているだろうからそろそろ起こそうと、振り返った。
向いた視線のその先で、カカシの視線とかちあった。
驚いた。
カカシが起きていて、畳に座り込んでイルカをじっと見ている。
「え、あれ」
起きていたんですか、と声をかけようとして、強張った。
カカシの視線がイルカを離れて窓へと向いた瞬間。
硬質な共鳴が部屋中に響き、一瞬のうちに、結界が消えていた。
解ける際の張り詰めた気配が突然で、忍びとして恥ずかしいほど驚いてしまった。
そして、ハッと気づく。
「あ、カカ、シさん、耳、聞こえるようになったんですかっ?」
慌てて訊ねると、カカシはかすかに微笑んで頷いた。
「良かった、本当に」
聴こえないという危険を無事にやりすごせたことや、不便を解消できるということ、術が無事に解けてよかったこと、それらを総合して「良かった」とイルカは心から言ったのだが、カカシは微笑んだだけで、足音もさせず手洗い場へ行ってしまった。
顔を洗っている水音を聞きつつ、昼間のことをうっかりしていたと額を押さえた。
そういえば、昼間も同じような流れで、カカシが『邪魔ですいません』と曲解したのだった。
確かに、まったく邪魔ではありませんと目を見て言い切ることは難しいが、そんなに卑下するようなことじゃない。
昼間に言ったように、カカシは悪くないし、むしろ任務だというのに手伝ってもらい助かっているのだ。
「カカシさん」
洗面所から、表情もなく出てきたカカシに、声をかけた。
だが、次の言葉がでてこない。
悪くない、助かっているとはすでに伝えていて、それに付け加えることができる言葉を咄嗟に思いつかなかった。
ここで、邪魔なんかじゃありませんからいつまでも居てください、と酷いお愛想をいえるほど、カカシの心情をくめないわけでもない。
だから、もう唇を読む必要はないのに、じっと見つめてくるカカシに焦って、取り繕った。
「あ、えーと、よかったら、メシ食ったあとにでも、外、行きませんか」
考えるように首を傾げるから、
「結界も解けたし、天気も良いし、きっと桜も散り頃です!」
内心、焦って言うにしたってチリ頃ってなんだよと自分でツッコミをいれたのだが、ややあってカカシがゆっくりと頷いてくれ、イルカはホッと肩の力を抜いた。
「じゃあ、とりあえずメシができたんで、食べましょうか」
促しながら、こうまでカカシの情緒の上下に慌てふためく自分が少し可笑しくて、そしてカカシが哀れに思えた。
2009.03.31