抱きしめて、キス
カカシが起きたのは、正午も近くなってから。
午前中の予定が全て潰れた。
眠っている相手に圧し掛かられていてはどこにも動けず、できることといったら、同じように寝ることだけだったから、イルカもうつらうつらとしていて、カカシが目を覚ましたことに気づいたのは、肩を揺さぶられたからだった。
ぐらぐらと頭が揺らいで、はへ、という間抜けな声が出て目が覚めた。
「―――おは、よう、ございます」
目の前に、寝ぼけ眼でもぼさぼさ頭でもないカカシがいて、覗き込まれていた。
生死を確かめているわけでもないのに、やけに真剣な顔で、布も額宛も、昨日からとっているから、整いすぎている素顔が丸見えだ。これで状況が白雪姫なら、王子役はハマリ役だな、とボケたことを考えた。
カカシの眉が、ホッとした様子で、ちょっと下がった。
メモが視界に入る。
『午前中つぶしちゃってすいません。
おかげでゆっくりねれました。
昼めし作ったのでたべて下さい。
大したもんじゃないし口に合うといいんですが』
出会い頭に土下座されたような低姿勢で、思わず眉を顰めてしまった。
すると、反対に下がったのはカカシの眉。
なんて情けなさそうな顔をするんだ。
おかしくて自然と頬が緩む。
綻んだイルカの表情をみて、カカシの顔も、ホッと緩んだ。
その合わせ鏡のような百面相に、予定を潰された不満の小さな芽もしおれてしまった。
笑う。
「くいます」
唇を読むためか、じっとイルカを見てくるカカシに、もう一度、ゆっくりと言った。
「食います。ありがとうございます。でも晩飯は俺に作らせてくださいね」
今度は分かったようで、嬉しげに目を細めて、カカシが頷く。
尻尾があれば、ふわふわと揺れているような気配だ。
カカシの手のひらが、イルカの手をとる。
指が、大きく、確かに文字を書いた。
『うれしいです』
何が書かれたのかを考えた数秒のあと、イルカの頬に朱が広がった。
「え、と、あの」
言葉に詰まった真っ赤なイルカに、カカシは嬉しそうな、それでいて少し困ったような顔をしてベッドから離れていった。
残されたイルカは、寝起きの頭を抱えて、しばらく自問自答するはめになった。
昼飯の献立は卵丼と味噌汁と千切り春キャベツのサラダだった。いかにも女にモテそうで、自炊なんかしてませんという外見を裏切る、地味で地に足ついたメニューで驚いた。
しかも意外と美味く、感心しつつたいらげ、意外と片付けのあと、イルカはカカシが使っていた客用布団だけを干すことにした。
本当は昨日の昼のうちに干しておきたかったのだが、そのまえにカカシが昼寝に使っていたので、いまさら遅い気はするが、しないよりはマシと思ったのだ。
結界は張られていても、なぜか窓は開けられるようになっているし、日光と風は普段どおりに感じられる。火影か、もしくはその補佐の彼女のささやかな気遣いに感謝だ。
狭い窓についている手すりに、敷き布団をひっかけた。掛け布団は畳んで、部屋の隅においてある。イルカの家の窓は、ふたつも布団をかけられるほど広くない。
かけられる一つも、半分は外に出ても、半分は内側にだらりと垂れて、窓枠に座れば座布団代わりになるほどだ。
「あー…いい天気だ」
腹も満たされて、昼寝日和といったところ。
だが、あいにく寝るわけにはいかない。昨日の話どおり、気づいたときには備え付けの郵便入れに、書類がみっちり入った封書が押し込まれていた。
日頃、誰もが敬遠する事務作業のなかでも、最後に回したがるものばかりで、心の中で、オニ! と叫んでおいた。
それぐらいはバチはあたらないだろう。
ふわあ、とあくびを一つ。
視線を感じて、首をめぐらすと、カカシが窓枠に座るイルカをじっとみていた。
「昨日、カビ臭くなかったですか?」
ゆっくり話すと、必要以上に大声になる。
カカシは首を横に振って、真剣な顔を緩めると、寄ってきてイルカの足元に同じように座った。陽に銀髪が透けて、やっぱり銀色は月の下のほうが綺麗なんだろうな、と思う。
手を伸ばしてカカシの視界に指先をいれ、注意を引いた。
「これから、仕事をします。カカシさんはくつろいでいてくださいね」
頷くのを確認して、イルカは腰を上げた。
ふかふかとした布団と日向が揃った窓際は最高だが、のんびりしていると睡魔に襲われそうだ。
自分とカカシの分のお茶を一緒に淹れてから、小さなちゃぶ台に書類を広げた。機密性の気になる類も入っていたが、持ち出されているということは大丈夫なのだろうと、カカシの目も気にせずに片付けていくことにした。
こちらを書き直して、あちらを書き足して、消してとしているうちに、緑茶も冷えるころ、ふいに背中にわずかな重みと温もりがあたった。
首を捻ると、カカシがイルカの背中にもたれて本を読んでいる。
振り返ったことは分かっているだろうに、カカシは本から目を離していない。
ほんの一瞬だけ、何かを言う気持ちになったのだが、やっぱり何も言わないことにした。
ちゃぶ台に目を戻す。
子どもなら、その本面白いか、と声をかけるところも、何も言わない。もちろん、咎めもしない。
ただ受け入れるだけ。
これまでなら咎めていたと思う。
耳が聞こえて、意思の疎通が言葉で出来てしまうときなら、なんですか、と訊ねるなり、身を引くなりしたと思う。
世話を頼まれ、言葉の代わりを何かで補わなければいけない今だからこそ、受け入れることが出来たのかもしれなかった。
もしかして、それを考えて?
思ったが、まさかな、とすぐに否定した。
思い上がりも甚だしいというものだ。
春の陽が傾くまでのしばらく、ペンの走る音と紙の捲れる音が部屋を満たして、イルカにだけ聞こえていた。
2009.03.31