抱きしめて、キス
「では、おやすみなさい」
言って、イルカは明かりを消した。
疲れた心身をベッドに横たえる。布の擦れる音が聞こえた。カカシが布団にもぐりこんだ音だろう。
本来ならベッドに客用布団をしいて寝てもらうべきで、昼間の鬱陶しいやりとりを思い出して、イルカはゆるゆると息を吐いた。
並外れて腰の低い上忍だと割り切ればいいのかもしれないが、気を使うために世話を頼んできたわけじゃないだろうと叱るには、カカシの素晴らしい経歴がイルカの頭上に輝く。
それを無視できたとして、今度はあの真摯な目が、子ども扱いすることを躊躇わせる。
あと一週間か、と思う。
晩飯は結局、イルカが作った。
任務をまっとうさせてくれと言うと折れてくれた。
苛立ってはいけないと思う。
気配に聡い上忍だ。とっくに気づいているだろうが、それでも取り繕う必要は感じている。
どうか一週間、無事に終ってくれよ、と願った。
こんなに疲れる任務、早く終るにこしたことはないが、一週間より伸びる可能性もある。どうか、と願いながら布団を口元まで引き上げて、深く息を吸った。疲れが、息とともに、ゆっくりと和らいでいく。
明日は晴れらしいから、布団を干せるなら干そう。朝メシは今日買った鮭の塩焼きと玉子焼きを焼いて、気合を入れて作ろう。洗濯物も片付けよう。皿が足りないかもしれないからしまってあるもらい物の食器セットでも出そうか。古くなってちょっと欠けている茶碗は捨ててしまおう。そういえば粗大ゴミの日は明日なのに、出せないなあ。
つらつらとした思考が眠りを引き連れてやってきて、そのうち、穏やかな暗闇がイルカを包む。
カカシが寝付いたかを気にすることもなく、気づいたら夜が明けていた。
カーテンから透けるのは朝の光。
なにやら身体が重い。
「―――…は、へ?」
寝ぼけた頭は、しばらくのあいだ現状を見なかったことにしようとしたが、身体は重いし身動きは取れないし生暖かいしで、とうとう、
「何してんだ…あんた」
と呟いてしまった。
イルカの胸から下に覆いかぶさるように、カカシが寝ていたから。
しかもイルカが起きているのにまだ眠っている。
「ちょ、ちょっと、起きてくださいよ。てかなんでこんなとこで寝てんだよ。あんたの布団はあっちだろ。寝相悪いとかそういうボケはやめてくださいよ」
聴こえないのを良いことに、ぶつぶつと言葉が垂れ流れる。
胸の辺りにカカシの頭が乗せられて、腕が何気に腰に巻きついている。
なにがなんだかさっぱりだ。
覆いかぶさっているというより抱きつかれている。朝からこんな心拍数があがるような状況は勘弁してほしい。
このまま顎の下からめくり剥がしてベッド下に放り投げたいぐらいだが、さすがにできなかった。代わりに、耳を引っ張り、頭を押してみた。
ぐいぐいと押しやっても、しっかりと巻きついた腕のせいか、びくともしない。てめえこのやろう、と内心罵りつつムキになっているうちに、ハッと気づいた。
「―――起きてるんでしょ。カカシさん、起きてるんでしょう!」
強引に頬を挟んで上を向かせると、すんなりと動いた面。睫毛がゆっくりと動いて、右瞼が開くと濃藍の瞳が現れた。半開きで、いかにも起きぬけの寝ぼけ眼だ。
何度かの瞬きのあと、のっそりとカカシの身体がイルカの上から退いたが、それは枕もとに置かれていたメモ帳を取るためだけだったと、目の前に文字が示されてから気づいた。
『かってにごめんなさい。こうしてたらあんしんするんです。もうすこしだけねかせてください』
字体が歪で行も列も上下に乱れていて、昨日より格段に読みにくい字だったが、なんとか読めた。
退け、と言えなくなった。
聴こえていたなら言うだろう小言も飲み込んだ。
カカシの世話が任務なのだからと自分に言い聞かせていたのは昨日の話で、今日もそれは実行中のはずだ。だから、ここでカカシの希望をきかないのはおかしい。
すこしばかり、自分の意思に反していたとしても。
予定がすこしばかり、変更されても。
昨日はさすがに我慢していたため息が、大きなものになって、イルカから漏れていき、身体から力が抜けた。
カカシの寝起きでボサボサの頭髪が、すり、とイルカの寝間着にこすれて、頭が左胸のあたりに戻る。大きな犬が懐いているような仕草。
安心する、と書かれていた。
どうして安心するのかはあまり考えたくないが、昨日からの遠慮の連続からすると、イルカへの初めての我侭らしい我侭だ。
内容がどうあれ。
だから、人肌を求めるようなこんな行為も、受け入れようと考えた。
超人、エリート、出来すぎ、キリン。
心のなかでカカシへの印象を並び立てる。
それらに付け加える。
大型犬と―――そして、子ども。
頼られると弱いイルカにとって、いってみれば一番の強敵。
上忍だということも忘れない。
本当は腕の立つ、名の高い、謙虚で、穏やかな好人物だということも忘れずにいようと思う。。
あくまで任務だと念頭におき、それらをふまえたうえで、今回の任務というのは『寂しがりやで弱っている子どもの世話なんだ』と思おうと、イルカは心に決めたのだった。
2009.03.31