抱きしめて、キス
家についてからしばらくして、カカシは床に延べた客用布団で眠りについた。
寝付いてから、イルカは細々とした片づけや仕事の準備をし終え、そのあいだに事務方の職員が、カカシの滞在中の備品だといって新品の忍服のアンダー上下やカカシの私物、使い捨ての歯磨きや剃刀が入った袋を持ってきた。
ようやく、一息つくことができたのは日が傾いたころだ。
薄暗くなりつつある室内のまま、畳にそっと腰を下ろす。
カカシはまだ眠っている。
途中で振動が響いて起きるかとおもったが、心持ち慎重にしたおかげで昼寝の邪魔にならずにすんだようだ。
ちゃぶ台ごしにみえる布団をみやると、横を向いて丸くなっていた。
片頬杖をついて、茶を啜る。
古ぼけた小さなちゃぶ台の上には、ペンと片手サイズのメモ帳が開いたままになっていた。
『昨夜からあまり寝てないんです。
少しだけ眠ってもいいですか。
すいません』
適当につくった昼飯のあと、書かれたものだ。
その少し横にはイルカの文字。
『ゆっくり休んでください。なにかできることがあればいつでもいってください』
あまり綺麗とは思えない自筆の左下には、ありがとう、というカカシの返事。
今になって、話せない人に“いってください”もないだろう、とおかしく思う。
本当は、カカシとイルカの文字のあいだに相当の時間差があった。
眠りたいとカカシが書いて申し訳なさそうに差し出したあと、イルカがベッドに布団を敷きなおして寝てくださいと指したのだが、カカシは固辞した。
ここでまずひとしきりのやりとり。
家主に遠慮しなくてもいいと言っても、首を振り、床でいいです、床のほうがいいです、と唇を動かすからイルカもついには折れた。
畳を指差して、どこか必死な目でいるカカシに無理に薦めることはできなかった。
どうしてか、カカシはイルカに対して、そういった目をするときがある。
初対面のときは覚えていないが、知り合ってからしばらくしてからだった気がする。夏のころに気づいたろうか。カカシの視線に含まれる意味が。
けれど、はっきりと口に出されたことはなく、思い違いと考えた方が現実的に有り得そうで、気にすまいと決めていた。
アカデミーにもたまに居るのだ。
教師に対する信頼や憧れを思慕だと勘違いする生徒が。
カカシは、幼いころから実戦にでていたときいたことがある。
ナルトたちが初の担当だとも。
だから初めて接した『先生』としてのイルカに、気安さを感じているのではと、思うことにした。
それはそれで、充分光栄なことだったから、イルカに問題もなかった。
「…晩飯、どうすっかな」
そういえばカカシに入らせた風呂がまだ暖かいだろう。
いまのうちに入ってしまおうかな、と考えた。
風呂も大変だった。
入るかどうかよりも、布団で寝るなら風呂に入れというイルカに、布団なんてとんでもないです畳で座って寝るのでこのままでけっこうです、という攻防だ。
結局、任務ということを考慮してもらい、ゆったりとした寝間着を渡してちゃんと風呂に入ってもらうために、それなりのやりとりと時間がかかった。
上がってからも、どこで寝るかで揉めたから、イルカにしてみれば子どもより手がかかっている。
大人で上官で年上だ。
そしてなぜか、イルカにそれなりの敬意と熱意と、使いどころの違う遠慮をみせる男だ。
変なところで強引で変なところで引くから、戸惑うのだ。
手を伸ばしてメモ帳をくってみた。
何枚目かのページで手が止まる。『どちらかというと魚です』と書かれている。たしか買い込むときに何が好きかきいたときのものだ。
暖かくなってきたし、魚は足が速いから嫌だなと内心思ったが、いくつか買った。用意のいいことにいくらかの前払い金を退室のときに渡されていたから、懐も痛むほどではなかった。
「さて、メシメシ」
短い休憩だったが、昼間に頑張ったおかげで、ただいまのイルカ宅台所は独身男住まいとは思えないほど美しい。
気持ちよく料理できるだろうし、任務でもあるから一汁三菜を頑張ってみようと思う。
いつのまにか暗くなった室内。
立ち上がって、なにも考えずにパチリと明かりをつけた。さてメシを作るかと布団に背を向けた、イルカの横目に起き上がった影が映った。
あ、とおもわず呟く。
起こしてしまった。
「すいません!」
とっさに謝ったが、まだ起き上がったばかりのカカシはイルカを見ておらず、分かるわけもない。寝ぼけているのか、ぼんやりと上半身を起き上がらせたまま、部屋の壁のほうを眺めている。
話しかけても埒など明くはずがない。
書いたほうが早いと、ちゃぶ台上のメモ帳に手を伸ばす。
安普請のアパートだ。
畳が軋んで、取り上げたメモからペンが転がった。
それが畳に落ちる。
カカシの視線が、イルカに向いた。
目を瞬いて、擦る仕草が幼く見えたが、すぐにカカシは立ち上がった。
イルカの手からメモ帳を取り、ペンを拾う。
『すいません。ながいことねてました』
いえ、大丈夫ですと答えるあいだ、躊躇うようにペンがふらついてから、文字が綴られる。
『よかったら晩飯、作らせてください』
「えぇ!?」
驚きのあまり大きな声がでてしまったが、声よりも顔に如実にでていたようで、カカシがしょんぼりと肩を落とした。
それにまた慌てた。
世話をするのが任務だと風呂のときにも言いましたが、というくだりを言いかけ、やはりメモに書いたほうがと思い直し、ため息が出そうになった。
話せないのも聴こえないのもしょうがない。
低姿勢なのだって、良い人だと思える。
なのにどうしてこんなに気疲れするのだろう。
話すことがこんなに不自由に感じるなんて。
言葉よりも、気持ちが通じない。
遠慮の譲り合いさえ苛立たしく思ってしまう自分に、なによりイルカ自身が疲れていた。
2009.03.31