抱きしめて、キス









 仕事の打ち合わせや引継ぎの挨拶を、カカシを引き連れて簡単にすませ、手を繋いで大通りを歩き、目を丸くした店主の視線を感じながら買出しをすませ、大家に見つかりませんようにと願いながらアパートの階段を登った。
 大変だった。
 カギを出して自宅のなかに入ったときには、思わず、は〜と大きなため息がでてしまった。

 繋いでいる手が、春の陽気も手伝って汗ばんでいる。
 冷たく感じるカカシの手がするりと外された。

 隣をみやるイルカの脇を音もなく気配がすり抜け、持っていた荷物が、ふわりと手から無くなった。あまりに静かな動作で、カカシの手に移ったビニール袋がガサリと鳴ったのが不思議なほどだった。

 あっけにとられているうちに、日中の薄暗い室内にカカシが入り込む。
 いつのまにかちゃんとサンダルも脱いでいた。
 室内を音もなく進んで、指をさした先は、冷蔵庫。
 指さしたまま小首をかしげてイルカをみるから、思わず、首を何度も横にふってしまった。

「いえっ、俺がしますから、どうか座っていてくださいっ」

 上忍にそんなことをさせられない。
 第一、これはカカシを世話するための任務だ。
 気を使われるなど本末転倒。

「お茶でもいれますから―――」

 座っていてください、とサンダルを脱ぎながらいいかけたとき、ふいに空気がピンと張り詰めた。
 結界が張られたのだろう。

「…そういえば、護衛も居たんだっけな…買い物してるときも気づかなかったし、この結界も大したもんですね、カカシ先生」

 まあ、買い物してるときは人目が気になって護衛を気にするどころじゃなかったけど。
 冷蔵庫の前に突っ立ったままのカカシの足元から、買い物袋を取り上げた。

「あんまり綺麗なところじゃありませんが、向こうのベッドがある部屋が一応、メシくったりするところなんです。そこでくつろいでいてください、…カカシ先生?」

 唇を読むためか、イルカの顔をじっとみていたカカシが、メモを取り出して何かを書きつける。
 黙ってそれを見ていると、わずかの沈黙が降りる。

 イルカが黙ってしまうとこの部屋は音が無い。
 喋りもせず、二人でこんな風に間近にいることに、戸惑いを感じた。
 けれどそれも今のカカシにとっては、怪我をしたときからずっと続いている無音の世界が、いまも続いているだけのことだ。

 だから、いま窓の向こうからにゃぁんと猫の声がきこえたけれど、部屋の外を通り過ぎていった猫に、カカシは気づくことはないんだな、とぼんやり思う。
 それはほんの束の間の物思いだった。
 トン、とメモが指先で小突かれ、イルカの注意を引く。

『いきなりたのんだのはおれです。
 できることがあればいって下さい。
 不自由なおもいさせてすいません』

 あまりに低姿勢な文字に、言葉を失ってカカシをみると、真剣な目がイルカをみていた。どうやら本気で思っているらしい。
 なぜだろう。
 言葉を喋れていたカカシはまるで理解の及ばない生き物のようだったのに、こうして言葉のないカカシは、まるで犬の尻尾がついているかのように分かりやすいように思えた。

 いまも、本当にすいません、と目が話している。
 二拍ほど自分のなかで数えてから、イルカは、いえ、と返事をした。

「…カカシ先生の責任ではありません。これは俺が任務で引き受けたことですから、カカシ先生が申し訳なく思われることではないんです、こんな汚い部屋ですが、好きなように使ってくださいね」

 ゆっくりと、伝わるようにと願いながら言った。カカシは困ったような目になり、それでもじっと見つめていると、ややあって頷いてくれ、ホッとする。
 そういえば、こんな窮屈な思いを、以前もしたことがあったような気がした。

 もう、一年以上も前の話だ。
 カカシと二人きりになったとき。
 ほんのちょっとしたことで、今まですっかり記憶から消えていた。








 あれは確か夏だった。
 何度目かのやりとりのあと、アカデミー在学中の成績表がしりたいとカカシが言い出し、イルカが資料室に案内したのだった。
 夏の盛りで、室内でも汗が滴るほど暑かった。
 いっそ南国用の忍服に着替えたいと思うほどで、機密事項書類ばかりの資料室は窓を閉め切っていて、さらにうんざりさせられた。

 そんな室内で、額宛をして口布をして手甲までしているカカシは、イルカよりずっと平然と資料をめくっていた。
 このころからすでに、理解不能と思っていたのかもしれない。
 このクソ暑いのに汗の一つでもかいてみろよ、と思っていたことは確かだ。

「―――イルカ先生、サスケの授業態度はどうでしたか」
「そうですね、優秀でしたが自分に不要だと判断したことに関しては興味を失いがちで…―――」

 いくつかの質問事項。
 教育熱心だといえばそうだろう。
 担当になるのは初めてだときいたし、それで不安になっているのかもしれない。
 一刻も早く、二人きりのこの埃臭く蒸し暑い資料室から出て、外の空気が吸いたいと願いながら答えていると、ふと思いついた様子でカカシが言った。

「イルカ先生は、よく一楽のラーメン食べにいってるそうですね」
「…え、ええ」
「ナルトも連れて行ってたりとか」
「あー…はあ、まあ」
「イタズラして怒ってても、ちゃんと直したらそのあとに連れて行ってくれるんだって嬉しそうにいってました。すごく美味いんだぞ、って自慢してました」

 資料を閉じながら、なぜか羨ましそうにカカシが言うから。イルカは驚いてしまった。
 椅子から立って、資料をイルカへ返すために歩み来るカカシは、柔和な気配で世間話にふさわしい様子だったが、イルカを見ている目が、酷く真っ直ぐだった。
 ほんの束の間、けれど体感としては長かった一瞬で、イルカが判断したのは、かわすこと。

「あ、あいつはいっつもインスタントラーメンばっか食ってて、だから一楽のラーメンがよけいに美味く感じてんですよ、ったくしょうがない奴です」

 俺がもうちょい甲斐性あったら、ラーメン以外も食わせてやれるんですけどね、とイルカは笑い飛ばした。
 たぶん気のせいだと思ったのだ。

 カカシが一楽に行きたいなどというわけないよな、という解釈をした。
 どう見ても、イルカに連れていってという目をしていても。
 もしこれが子どもだったら、きっとここで、じゃあ連れてってやるよ、といったと思う。

 でもカカシだ。
 なんといっても上忍師だ。
 そう気軽に誘える相手じゃない。

 だから笑い飛ばした。
 カカシは、野菜とかいいんじゃないですか、と静かに笑っていたようだった。



2009.03.31