抱きしめて、キス
聴こえないし、喋ることもできない。
執務室で火影は言った。
そこまでの道のりについては、正直あまり思い出したくもない光景だった、客観的にも主観的にも。自分より同じ程度の背丈の男と、しかも上忍と手を繋いで歩く図など、誰にとっても異様な光景だろう。
補習をしていた子どもには、違う先生に指導を頼んでおくといって、今日は解散させたが、きっと歩み去る担任と上忍が手を繋いでいるところは校庭から見えただろう。
なんだか申し訳ない気持ちになった。
理由をきくまでは理不尽にさえ思ったが、カカシはいまのところ、両耳が聞こえず、話すこともできる状態にない、と聞いてしまえばしょうがないかという納得しどころもあった。
だが、そんな重大なことをあっさりと言い放ったことに、しばらく言葉を失う。
任務での負傷だというが。
「そ、それでは今はたけ上忍は大変危険な状態ではないのでしょうか。失礼ながら、ビンゴブックにも載るほどと聞きいておりますが…」
ちらりと傍らに立つカカシをみると、視線に気づいたのか、片目が細まりイルカを見る。
微笑のように見える。
確かに、ここにくるまでにカカシは一言も話してはいなかったが、話せないとは思いつかなかったし、聴こえないではとも思わなかった。
カカシの様子が不自由を感じないほど自然体だというのも気づかなかった一因だろう。
手を繋ぐことはさすがに変だと感じたが、カカシが当たり前のように手を重ねて、促すように引いたから、火影命令だし、と納得してしまっていた。
だが、いくら自然体にみえるといっても、聴力がないということは、想像力を過剰に働かせるまでもなく、日常生活においてさえ危険なのだ。
現役の忍びであるカカシなら、なおさら。
「その…なにも私に世話をお命じにならなくても、病院か、適切な護衛をお付けになってはどうでしょう。私には大役すぎるかと…」
「なあに、そんなに仰々しく考えるな」
執務室の奥、でかでかとした机の向こうで、女傑はのんびりと言った。
シズネが斜め後ろから差し出した茶を受け取り、啜る。ぶい、とどこからか声がしたが、おそらくシズネの足元にあの桃色の小動物がいるのだろう。
「手足が折れているわけでもないし、内臓がやられているわけでもない。病院にはいられんだろう。健康体がいるところじゃない」
「は、はあ」
「侵入した敵に襲われる、という可能性も無くは無いが、考えてもみろ。目も見える、チャクラも練れる、印も組めるんだ。体術も忍術も問題ないだろうが。普段より多少の不利はあるだろうが…まあ、校庭でボールが飛んでくるぐらいは可愛いもんだろうが、敵のクナイとなれば洒落にならんがな」
「は、あ…」
可愛いものなら手など繋がなくても良かったのでは、と思ったが口にだす勇気は無い。
居た堪れない思いをしたぶんだけ疑問符が浮いて、結局腑に落ちないままで火影の話は続く。
「カカシ自身が、聴こえん分、他の部分で補えるとうけおったから任せているという部分もある。まあそんなわけだ。あとは日常生活とほんの少しの忍びの感覚で、耳と口の代わりを果たせる人間さえいれば、回復を待てるんだ」
は、と我に返る。
「回復する、んですか」
「当たり前だ。でなきゃこんな呑気な話をしちゃいないさ」
呆れ顔に見つめられ、イルカは紅潮して顔を伏せた。確かに始めに期間を問われていたことを思い出し、カカシの不運を願うわけでもないのに、と情けなくなった。
「―――…一週間、ですか」
「予想ではな。それよりも早いかもしれん。遅いかもしれん。傷と術が重なりあっていて、無理に解くよりは待っていたほうが早いんだ。耳は三日ほど、喉はそれよりもかかる」
「三日…」
「おそらくな」
「火影さまでもお分かりにならないんですか」
湯飲みの縁からちらりと見られ、うっかり言いすぎたかと首を竦めたが、返ってきたのは思いのほか穏やかな声音だった。
「分からん。私とて全ての傷を癒せるわけじゃない。どんな医者でも癒せんものというのもある。一番腕の良い医者は、実は時間だったっていう話もあるんだよ、イルカ」
「はあ…」
まあそんなことはどうでもいいさ、とイルカの曖昧な相槌と一緒に火影は話を流した。
「アカデミーのほうは春休みだったな。そうだな…耳が聞こえん間は外出は控えてもらわなければならん」
妥当な判断で、イルカは否もなく頷く。
「その間、どちらかの自宅で療養してもらうことになる。まあアカデミーは新学期の準備があるだろうから、できる限り持ち帰りの仕事ができるように言っておいてやろう」
一週間という長い間、少しでも仕事ができるのはありがたいというべきだったが、ひとつ、聞き逃せない重大なことがらがあった気がするのだが。
「あ、あの…」
「今日はお前らが帰るまで一応、護衛をつけておいてやる。三日ほど篭れる準備をしておけよ。飯は当然だが必要だ。忘れるな。あぁ、そうそう、ランクはBだ、一応、戦闘の危険があるからな」
安全だろうと言った口で、戦闘の危険があるときた。一応、がついているあたりセコイ。
ここは素直に、カカシほどの忍びを狙う敵からカカシを守れる自信はありません、というべきかと迷ったとき、イルカの視界のはしに、ひらりと指先が入ってきた。
軌跡を追って傍らをみると、細められた目でカカシの唇がゆっくりと動く。
大丈夫、と音でなく分かって、イルカはいいかけた言葉をのみ込んだ。カカシの言葉をいきなり信じたわけでなく、カカシが懐から取り出したメモ帳に視線を集中させたからでもある。
「カカシの聴覚が戻らんうちは結界を張らせてもらうぞ。耳が戻り次第、結界は解けるだろうから、以降はでかけてもかまわん」
『めいわくをかけてごめんなさい。
たよれそうなやつはさとの外で今いないんです』
歪な文字がすばやく紙に綴られていく。
「まあお前の仕事は、もっぱらカカシの世話になるだろうが、ランクの高い子守だと思えばいい。さて、何か質問はあるか」
言葉を区切った火影の目がイルカに向き、あわててメモから向き直った。
「あー、その、質問、ですか」
「なけりゃそれでいいさ」
いかにも面倒気な態度に、なおさら焦って、とっさに任務書はと訊くと、今思い出したかのように、そうだと呟き、火影は手元の一巻きを無造作に放ってよこした。
受け取って、恐る恐る開くと、そこにはランクと報酬、そして依頼遂行人の欄に「うみのイルカ」とだけ書かれたほぼ白紙の任務が記されていた。
正直、このとき、逃げ出したくはあった。
いきなり知り合いにひっかかる程度のエリート上忍の世話を、しかも結界を張られるような状態の上忍をまかされても、誰だって引け腰になろうというものだ。
ただ、辞退させていただきます、とはいえなかった。
書かれている報酬のゼロの数に目がくらんだわけではない。
歪な字で続けられたカカシの字が、否を飲み込ませた。
『イルカ先生のところだとおちつけそうだとおもって。
いつもの休日とおなじでねてます。ずっと。
かまわないでいいですから』
カカシを見ると、申し訳なさそうに目が伏せられている。
聴こえていないはずなのに、カカシはイルカの気持ちを奥まで分かったような様子で、無性に恥ずかしかった。
ごまかしたくて、目を火影に戻し、質問を続ける。
「あの、では、」
「なんだ」
「任務中は、どちらかの自宅で療養、というのは…」
とっさに出てこなかった、けれど一番引っかかっていた質問だった。
「ああ、それか。言ったろう、病院は邪魔だから寝かしとくわけにもいかん。五体は使えるんだ、自宅療養だ」
「し、しかし、どちらかというのは…はたけ上忍のご自宅に私が一週間寝泊りするということでしょうか」
上忍宅に一週間、療養という名の監禁状態は、正直いって厳しい。
世話をするとなればなおさらだ。
勝手がわかる自宅のほうが気が楽だし、仕事も進む。
だが、イルカの自宅は、幸い客用布団はあるにしても、台所のほかは寝室と押入れと便所と風呂場しかないような古い一人用のアパート部屋だ。
それなら、カカシの自宅のほうが広いような気がするし、けれど何もかもが立派すぎて身の置きどころがないような想像が浮かんでかなり腰が引けるし、ああでも、と考えたところで、あっさりと火影が言った。
「ならお前んちでもいいじゃないか」
投げやりにもきこえる適当さだったから、反対に力が抜けた。私の家は狭いです、というべきところが、ひっくり返った。
「私の家で…よければ…」
なんだ。
俺んちでもいいんだ。
名の有る上忍をむさくて狭くて小汚い自宅に寝かすのも、有る意味厳しいものがあるが、上忍宅で肩身を狭くしているよりはずっと楽だ。
「カカシはどうだい。お前の家とイルカの家、どっちがいい」
音を区切って発音された言葉。
そうだ、カカシさんの意思もあった、と焦った内心を読んだわけではないだろうが、すいっと指先がイルカを指した。
そしてメモに『ごめんなさい、ありがとう』と文字が加えられる。
火影が、なぜか面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「決まりだ。じゃあ後はカカシと相談しな。話しは終わりだ。今日はもう帰れ。カカシは休養。イルカはそいつを連れて帰ること。頼んだぞ」
そして追い出された執務室前。
廊下には麗らかな午後の日差しが降り注いでいた。
だが気分は心地よくなれなかった。
一週間、大変なことになったと重い肩を感じていると、手のひらを取られた。
指先が文字を書く。
『イルカ先生
よろしくおねがいします』
メモに書かずに、直接に伝えられた言葉は分かりにくかったが、イルカは強張っていた頬を少しだけ緩めた。
これも性分だ。
だって、頼られると弱いのだ。
キリンも超人も、弱っているときぐらいあるだろう。
「はい、こちらこそ、よろしくおねがいします」
なんとかカカシに笑ってみせて。
一週間の予定の任務が始まった。
2009.03.31