抱きしめて、キス
春休み、アカデミーの校庭では昼前だというのに子どもの遊ぶ声が騒がしいほどだった。
広い校庭の隅では、桜が並んで植えられており、どっかりと伸びた桜の枝々からは、風に吹かれた花弁がゆらゆらと落ちてくる。
イルカはその桜並木のうちのひとつに、子どもとふたりで腰をおろしていた。桜と桜の間には柔らかい下草が生えていて、根もいい具合に隆起している。
春の日に座って休憩でもするには、これ以上ないほど良い場所だった。
小さな頭は、巻物を凝視してさきほどから動かない。
この並木もそろそろ満開かなあ、と思いつつ、隣の悪戦苦闘している生徒に声をかけた。
「印は頭で覚えるんじゃないって授業でも言ったろ? 指の流れで覚えるのが一番早いんだ」
教科書の火遁のページにつっこんでた小さな頭が、慌てて上がる。
一生懸命な様子にちょっと笑って、そのてっぺんについてる桜の花びらをとってやった。アカデミーに受付にと忙しい日々で、こうやって休みの日を補習につぶされるのはいつものことだ。
ナルトが卒業してからも、この性分は治りそうにない。良い人、お人よしといわれても、頼ってくる想いを無碍にできないのだからしかたない。
「先生がみててやるから、ほら、やってみろ」
できないよ、と眼で訴えてくる子どもに、苦笑して、お手本を見せようと両手のひらを広げたとき、ふと校庭から繋がる一階の渡り廊下に眼がいった。
アカデミーの実習教室と普通教室を繋ぐ廊下で、実習教室の向こうには、忍びも利用する医療棟もある。
二人の人影が、廊下屋根の影から校庭の陽だまりへと出る。
きらりと光ったのはたぶん、銀髪だ。
すぐ隣の淡い金髪の半纏姿に驚く。
どうしたんだろうと思わず腰をあげて、こちらへと歩み寄ってくる二人をみた。
たぶん、その場面が色んなことの始まりだったのだが、思い返しても、なにか特別な予感などなく、ただ春の日差しに透ける銀髪は白いんだな、と下らないことを思っていた。
「イルカ、今から予定は空くか?」
それが火影の第一声だった。
おもわず「は?」といいたいところをなんとかのみ込んで、
「アカデミー業務を調整すれば可能です」
「明日は…いや、どれほど可能だ」
任務なのだろうか。日をまたぐことに驚きつつ、今は春休みに入ったところでアカデミー自体は一週間ほど休みだと伝えた。
「そうか、一週間か」
「はい」
返事をしつつ、唐突に始まった大人の会話に、困り顔の生徒の背中を校庭のほうへ押してやる。遊んでおいで、と目で促すと、巻物をそそくさと巻いて笑顔で走り出していった。現金なものだ、と懐に火遁の巻物をしまった。
火影へと向き直る。
「任務、でしょうか」
「まあ…そんなもんなんだが」
「?」
チラリと火影の目が、隣の男に向けられる。
先ほどから一言も発していない男を不思議に感じつつ、知らない人物でもないので、お久しぶりです、と頭を下げると、かすかに会釈がかえってきた。
はたけカカシ。
数年前に、ナルトを筆頭に、手のかかる班を任された凄腕の上忍だ。
実力良し、見目良し、甲斐性良しとくれば人も羨む人生だが、それに加えてカカシは性格も悪くはなかった。
ナルトを介して噂を聞いたときには、子どもの前でいかがわしい本を読むとは、なんて捻くれ者だろうとおもったものだったが、実際に会話をしてみると、想像していたよりはずっと普通の男といえた。
むしろ、上忍らしからぬ腰の低さと謙虚さで、受付で話をするたびにイルカを驚かせた。
イルカのことを、固辞したにもかかわらず「先生」と呼んだり、字が汚くてすいませんと謝ったり、指導について教えてくださいと言ったり。
話すうちに、子どもの前でとる態度はある程度つくっているのだと白状した。オレは仕事ばかりでつまらない男ですよ、と静かに笑っていた。
たしか、アカデミーの指導要領を参考にしたいと、資料室で本を渡したときだ。
まるでキリンみたいな人だな、とおもった。
なんの根拠もない当てはめなのだが、年も近いというのに、もう達観したように静かに笑える男の気持ちが、イルカには仙人か理解しがたい超人のようにおもえて、それがなぜかキリンになった。
もしかしたら、背の高いところの葉を食べるために首を長くした、という理解しがたい進化を成功させた生き物に、姿が通じたのかもしれない。
そういう部分に関しては、普通というよりたしかにカカシは規格外の男で、「出来過ぎた」忍びだった。
イルカが知るどの二十代の男よりも、カカシは老成しているように見えた。
総じて、イルカにとってカカシは、尊敬はしているが超越しすぎて近寄りがたい「知り合い」のようなものになった。
いくつかのいざこざのあとも、それは変わらなかった。
通常の生徒引継ぎにしては頻繁に会話をしたし、お礼にと食事に誘われ、幾人かの上忍と並んで席を共にしたこともあったが、「友人」と呼ぶには階級とカカシの名があいだに溝をつくり、その溝を埋める努力をイルカはしなかった。結局のところ、他人以上友人未満、といえるかどうかも微妙なところ。
もっとも、カカシにしてみても、知り合いのくくりに入っているかどうかも怪しいものだしお互い様だろう、と思っていた。
このときは、まだ。
「カカシ…本気か?」
隣に視線をやる火影は、見間違いでなく、渋面だ。
対して、カカシはというと、凪のように静かな視線で、それを受け止め、かすかに頷いていた。
やっぱりキリンっぽいなあ、とこっそり思ったが、すぐそんな考えが吹っ飛んだ。
イルカだけでなく、火影と上忍と先生を興味深げに伺っている子どもたちが大勢見守るなか、スッと後ろへ下がったかと思うと、深々と火影に向かって腰を折ったのだ。
あんぐりと、イルカの口が開く。
背後の子どもたちの騒がしさも、つかのま消えたほど。
最敬礼する上忍なんて、みたこともない。
いっそうの渋面をつくる火影の表情とあいまって、恐ろしささえ感じた。
辺りの沈黙を破るように、ひらひらと若作りの手のひらが空を泳ぐ様を、イルカは呆然とみる。
「あ〜、分かってるよ。それほど私は鬼じゃない。イルカ!」
「は、はい!」
唐突に名前を呼ばれ、背筋が伸びた。
「任務を命じる! 期間は一週間程度、報告所を通さん任務だが、これは火影命令と同等と思え。詳細はおって説明するが、ここでは落ち着かん。ひとまず建物の中に入ろう」
はい、と返事をする。
わけが分からなかったが、火影命令ときいて気が引き締まり、視線をアカデミーのほうへとやった火影にならい歩みだそうとすれば、続いて言われた言葉。
「では、カカシと手を繋いで、私についてこい」
「―――は?」
何かが飛んできたら守ってやるんだぞ、と不思議な言葉を言い放ち、遠ざかる背中を眺めて、イルカは立ち尽くす。
同じように動かない銀髪の男はといえば、呆然としたイルカに困ったように笑いかけていたが、笑い返すことはできなかった。
2009.03.31