赤い実
非難をこめて里長を見つめれば、小さく肩を竦められた。
「…あともうひとつだけ、あの子の味方をさせてほしい。成人の儀が滞りなくすめば、あの子はこの里を出て行くよ」
「…どこへですか」
「君の戻りたがらない学院へ。たとえ君が戻ったとしても、あそこは広いし、絶対に顔をあわせることがないところだそうだ。安心してくれていい」
「……」
なにを安心しろというのだろう、とイルカは唇を噛んだ。
長は苦く笑い、まるでカカシの父親のような暖かい眼差しで、イルカを見る。
「君が戸惑うのも分かる。考えて欲しい、真剣に。長として、彼をみてきた者として君に受け入れて欲しい気持ちは変わらない。けれど、里にとって大切な人物であり、私の友人でもある君の意思も尊重したい」
汗を掻いた手を、長は離した。
「どうか、よく考えて欲しい。返事は後日でいい…そうだな、三日後の満月の夜に」
「……はい」
満月の次の新月に、花夜が行われる。
長は一仕事を終えほっとした、という表情をみせ、去っていった。
残されたイルカは、手のひらに残った結い紐をみつめて、しばらく立ち竦んでいた。
わざわざ用意したのだろう高価な結い紐。
イルカでなければ嫌だという素っ気ない相手。
馬鹿だと、告げた背中。
花夜が終われば、見ることもなくなる、姿。
本当に長い間、ただじっと、イルカは紐を見つめ、佇んでいた。
三日後、イルカの返事は、是だった。
襖をあけたとき、ぼんやりとした灯りにてらされた一組の布団が紅絹のあつらえでなかったことに、なぜかしらイルカはほっとした。
考えてみれば、布団の色などどうでもよく、これから行われることは色が紅であろうが紺であろうが、実際にイルカにとって大変なことに違いない。
だがそんな愚かなことにほっとするほど、緊張していたのだろう。
襖を開いたまま、イルカは立ち竦み、灯りの向こうに座していたカカシが「入って」と声を発するまで、動けなかった。
湯を使っていたときから早かった心音が、さらに早さを増す。
「はやく、入って」
再度促され、イルカは一歩進んで敷居を越え、後ろ手に襖を閉めた。
イルカの目の前には、堂々とした柔らかそうな絹布団が部屋中央に一組。その枕元からやや離れて灯りが一つ。布団の向こう側、窓を背にしてカカシが座っていた。
布団を越えていく気にはとうていなれず、イルカはまたその場に立ちつくす。
部屋は薄暗く、カカシの顔があるのは分かっても、どこを見ているかまではわからない。そもそも顔を見ることも怖ろしく、視線がどこに向いているかなど分からないが、イルカはじっと見られている気がして、居たたまれなかった。
縫い上がったひとえは糊がきき、首筋のあたりが馴染まない。
ごつごつとした自分の身体が今夜にふさわしくないように、身体と着物もまるで合っていないかのように思えた。
俯いて、所在無くその場に座した。
すると静かな声がかかる。
「緊張、してる?」
声はまったくいつもどおりにイルカには聞こえて、苛立ちが生まれた。
緊張しているかなど。
しているに決まっている。
自分は男で。
相手も男。
里の将来を担って立つだろうと嘱望される人間で。
かたや街での競い合いから逃げた弱い人間。
誰からも花を誘われる男が、一回りも年嵩の、冴えない自分と。
睦みあうなど。
「…当たり前だッ」
「そう」
まるで落ち着いている声が、このごに及んでも落ち着かない己とは、器の大きさが違うのだと見せ付けられているようで、イルカは顔をあげてカカシの面をみた。きっと声と同様に、落ち着き払った、これからすることなど少しかしこまった夕飯を摂るのと同じぐらいに考えている顔をしているのだろう、とおもった。
その綺麗に整った顔で、俺を抱きたいと望んだのはそちらだろうが、と腹も立っていた。
だが、見たのはまっすぐにイルカを見つめる真摯な眼差し。
表情こそ淡々としていながら、眼差しがそれを裏切る熱のこもった食い入るようなものだった。
「…ッ」
「そこに居られちゃ手も届かない。寝て」
「な…」
「はやく」
時間がもったない、と何でもないことのようにカカシは言い、イルカは動けなかった。
もとより寝具を使わなければならないことをするのだから、否やもないのだが、それでも自分からというのは躊躇いがあった。
「それとも布団の外でしたいの? あなたがそれがいいなら」
迷う逡巡をどうとったか知らないが、カカシが腰を浮かし、布団を越えようとしたから、イルカはあせって立ち上がった。
布団の外で、なとど本気で言っているのだろうか。
「そ、そんなわけはないだろうっ。…わかった、わかったから」
布団を踏むと、それはとても柔らかく、足裏につるりとした絹の感触が伝わった。
上等の布団であることは間違いないそれに、イルカの気持ちがまた沈みそうになる。
恐る恐る布団をめくり、下に隠れていた二つの枕のうち、一つを使って、寝転んだ。
上向きに寝れば、自分の心臓が高鳴りすぎて、見ているだけで分かるのでないかと思えるほど、どうしようもなくなった。
カカシはじっとイルカをみていて、さらに緊張が増す。
花夜とはこんなにも緊張するものなのか。
たしかに初夜を迎える儀式なのだから当事者は緊張して当たり前なのだが、この緊張は違う気がする。
どうして自分がこんなに緊張しなくてはならないのだろう。
カカシこそが、緊張するべきなのに。
八つ当たりのように思いながら、カカシの視線に耐え切れずぎゅっと目を瞑ったイルカの頬へ、ひやりとしたものが伝った。
びくっとしたが、開きそうになった目を、さらにしっかりと閉じた。
ひやりとしたものは、イルカの頬をゆっくりと過ぎ、鼻梁の傷を確かめるように撫ぜ、唇の上で止まった。
しばらく唇の上をなぞっていた指が退くと、息を詰めてじっと縮こまっているイルカへと、人の温もりが覆いかぶさってきた。
目を上げれば、驚くほど近くにカカシの顔があり、一心にイルカを見つめていた。白く見える顔のなか、紅い唇が動く。
「分かる? 俺も緊張してるよ」
なにが、と問うまえに先ほどの指がイルカの頬をまたなぞった。指先はやはり冷たく、言われて気づくほど僅かに震えていた。
カカシの面はまるで平素のままで、可笑しいほどだった。
「…どうして」
「あなたにやっと触れるからじゃない。当たり前だよ」
そんな冷たい顔をしたまま言われても、不可解だ。
もとよりこの話自体、強引で、結局カカシの意思とはきいたものの、カカシから直接きいたわけではない。
当たり前のようにカカシは自分に紅い玉のついた髪飾りを渡し、肝心なことはなにも言わなかった。
「…俺に、なにか言うことはないのか」
「あなたに?」
カカシは目を細めて、微笑んだ。初めてみるそれは、心が浮き立つような綺麗さだった。その唇からこぼれる言葉。
「いまさら言っても、無駄なことばっかりだよ」
歌うように耳朶に吹き込まれた言葉。
うっすらとのこる鼻傷を、指先がなぞり、カカシの言葉を理解する前に、イルカのひとえの前が強引に広げられた。
「な…ッ」
「昔のことも、もう忘れた」
2006.8