赤い実




「これ…」
「たまに鼻のとこにも当てたほうがいいよ。もう血もだいぶん止まってるみたいだけど」
「え…」

 言われて、気がついた。鼻のあたりに傷を負っていた。自分の肌に指を這わせると、ささくれ立ったあたりが熱い。どうりで、と指先についた僅かな血をぼんやりと見る。
 ではこの疼く熱のような痛みは顔の傷と打ち身で、あとは骨折だろう。冷ややかな眼差しがイルカをみているようだったが、そのまま目を閉じる。頭がぼんやりとして、頭痛が酷いのに寝入ってしまいそうだった。
 耳に、草を踏む音が聞こえ、頭近くにカカシが腰を下ろしたことがわかる。
 そのほかには、鳥の声と、かすかに沢の音が聞こえた気がした。

 ああ、眠くなってきた。

 熱と痛みが思考を鈍らせている。
 額におかれた布もぬるくなり始め、イルカの意識が徐々に遠ざかり始める。
 ふと、カカシの声がきこえた。

「べつに、書庫を使っても構わなかったのに」

 ぼんやりとする目をあけて、首をすこしだけ動かした。カカシの足ぐらいしかみえず、どんな顔をしているのは分からない。声のとおり、素っ気ないままだろうが。

「街から来たやつは鈍臭いっていうけど、ほんとだな」
「…悪かったな」
「こんなとこまで登ってきてるし、こんなところに落ちてるし。わからなかったよ」

 目にうつるカカシの足元は、黒い泥が跳ねて、水に濡れていた。冷たいころだというのに、川にでも入ったのだろうか。
 飲ませてくれた水はとても美味しかった。傷を洗っていてくれた。
 ぼんやりとカカシの態度と行為の間を思う。

「…すまない」
「あやまるならもう道から落ちたりしないでよね」

 やはり取り付くしまもないような返事に、イルカは「ああ」とだけ答えた。





 助けの声がきたのは、それから半時もしたころだったという。そのころにはイルカは熱で朦朧としていたから、よく覚えていない。
 ただ皆には心配され、長にも懇々と説教された。
 慣れないうちは用心するように。
 けっきょく折れていた足を直すために床についていたあいだ、枕元で何度も聞かされた。里人も、生徒も多くが見舞いにきてくれ、そのたびにイルカは謝らなければいけなかった。

 機をみてカカシのことを訊いてみれば、カカシが屋敷を出たのも昼前だったという。二人して戻ってこないうえに、夕餉も近くなったから屋敷のもので探していた、と長は言った。
 助けたきり、顔を覗かせてもくれないが、イルカの抜けた分も学舎で子どもたちをみてくれているらしい。

 ますます頭が上がらなくなりそうだ、とイルカは布団のなかで嘆息した。
 やがてイルカの傷も癒え、学舎に復帰するようになったが、カカシの態度は相変わらずだった。
 あのときは本当にありがとう、というと「べつに」だけ。
 お礼がしたいといえば「いらない」。
 なにか好きなものはあるか、と訊くとしばらく考えて「あなたには言わない」と返ってきた。

 そこまでいわれると、できることがなくなった。
 このさい、カカシの意向は無視をして、押し付けたのはハンカチだった。自分の手荷物のなかから、一番マシなものを選んで、渡した。
 たしか自分の傷の手当てでカカシは一枚、駄目にしているはずだ。それの埋め合わせだとおもい、押し付けた。  カカシはしばらく押し付けられたそれを見ていたが、

「もらっとく」

 とだけ言い、受け取ってくれた。
 その後もカカシの素っ気なさは変わりなく、二年を過ぎ、イルカの三年の任期が近づいても、相変わらずだった。イルカのほかの里人にはそれなりに親しみをみせているから、イルカにだけなのだろう。
 任期を前にして、いろんなことが頭の中に浮かんでくる。三年は短くはない。冬を控えて、里では秋冬の支度に忙しい。イルカもまた、薪を割っているところへ、長がやってきた。
 なにをいうかは予想がついたが、三年たっても若くみえる長は、こう切り出した。

「どうしても、かい?」

 言い方にイルカは頬を緩めた。
 長の人柄は率直で思いやりがある。

「もう書状は書いて学院に送ってしまいました」
「たしかにこの里は君を必要としている、だが」

 イルカは手斧を置いて、長をみた。

「学院長にもお許しをいただきました。どうせ俺は帰りを待つ人もいませんし…」
「そういうことじゃなく、君の将来が、いや、こんなことをいえた立場じゃないが」

 確かに、自分でも将来のことを考えると良くないのだろうとはおもう。
 けれど。

「でも四代目。俺、この里が好きです」

 二年前、山道から滑り落ちたあと、口々に心配と怒りと説教をきかされたとき、すいませんと言い過ぎて堪能してしまった。
 堪能しつつ、とても嬉しく、人の温かさを思い出した。
 両親をなくしてからの寂しさを一時忘れられた。
 それから二年、里で暮らしてきて、離れがたくなってしまった。知らないうちに負っていた傷を癒すように、この地に留まり暮らしたいとおもった。

「俺の我侭なんです、もう少しこの里に居させてください」
「それはかまわないが、…本当にいいのかい」
「ええ、これからもよろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げると、長も合わせて頭をさげて、顔を見合わせて笑った。

「正直いうと、喉から手が出るほど君を引き止めたかったから、ありがたいよ」
「俺に巧いこといってもしょうがないですよ」
「まさか。うちのナルトなんて、イルカ先生イルカ先生って懐いてしょうがない。父の面目もない」

 やんちゃで父親似の少年を思い出して、イルカはくすぐったくなる。まるで弟のように思っている少年は、父親のことも大好きだとイルカにはしょっちゅう言っているからだ。
 けれどそれは男同士の内緒だ。
 だから代わりに言った。

「まああの年頃の男の子はあんなもんですよ」
「そう願うよ。ああ、それにイルカが残ってくれるなら、ご機嫌も治るかもしれないな。最近、沈みっぱなしだったからね、ナルトも、あの子も」
「ナルトと、あの子、ですか?」

 たしかにナルトが沈んでいたことは知っていた。帰らないで、と何度もいわれた。だが長がいう「あの子」の心当たりがない。あるとすればカカシぐらいだが、まさかそんなわけがない。
 長は含み笑いを漏らした。

「君が残ればあの子も残る」
「は?」
「そして私も寂しさを味わうことはない。君がここに残るといってくれて、とても嬉しいよ、イルカ」
「はあ…」

 あの子、とは誰ですかと訊いても教えてくれないだろう顔だ。男同士の内緒だぞ、といったナルトの顔に似ていなくも無い。
 そうそう、と長が話を変えた。

「今年、イルカはどうする? もうすぐ今年の花夜の準備が始まるんだが、今年こそ参加してみないか。せっかくだろう」

 はなよ、と呼ぶ「花夜」の儀式はこの里に伝わる、成人の儀に似たものだった。
 十五を数える子どもが、これという相手を定め、初夜を迎える儀式だ。相手と日取りを決め、相手が良しとすれば里全体に知らされ、花夜の晩には、里の若衆が一件つづ「はなよにはなのありがたし」と声をかけて、一握りの米を集めていく。そして翌朝には、花夜を終えた二人が揃いそれを食す。
 十五になった子どもがいる場合に行われる、里あげての行事だ。

 ちなみに、相手が定まらないときは長がふさわしい年長者を充て行われる。
 この里に来たときは、ちょうど無い年だったらしく、次の年に初めてきいたときは驚きだった。

「今年、ですか」

 考えてみれば、この里で教師をしている限り、生徒の花夜を見続けていくことになる。
 学舎を卒業する年に、成人に迎え入れられる。街からきた自分には気恥ずかしく、けれど、その気恥ずかしさが後ろめたい。
 しばらく考えて、イルカは頷いた。
 里長は嬉しげにイルカの肩を叩き、

「うん、じゃあイルカも参加するってみんなにいっとくよ」

 じゃあ、と言を翻されないうちにとでもいうような素早さで長は背中をみせて去ろうとした矢先、うわ、と声をあげた。

「長?」
「び、びっくりした、カカシ君、いつから居たの」
「え?」

 イルカも驚いて、長の背中むこうを背をのばしてみると、確かにカカシが立っていた。

「さっきからです。なにか込み合った話をしていたから待っていただけです。四代目、呼びに来たんですけど」
「あ、ああ」

 あーびっくりした、とカカシの横を通り過ぎようとした長に、カカシが「あんまり余計な気を回さなくていいですからね」と言い、また長がビクッとしていて、不思議だった。
 まあイルカには分からない二人の仲なのだろう、とまた薪割りに戻ろうとしたが、視線を感じた。
 振り返ると、カカシが居て、冷たい目をしている。
 なにか用事かと待っていても、なにも言わないから、じゃあ良いのかと振り返りなおした背中に、カカシが。

「馬鹿なことをしたね」

 驚いて、背後を見直せば、もう背中が母屋の向こうへ消えていた。




2006.8