赤い実
晴れた冬の日。
山道の落ち葉を踏みしめながら、イルカはため息をついた。
生活は順調だ。
当初はこんな田舎でいろいろと大変だろうと思っていたが、むしろ陽が上り目が覚めて、陽の沈むとともに眠りにつく生活は、自分にあっているようで不満はない。
困っていれば周囲の人が助けてくれ、なにくれとなく世話をやいてくれる。反対に困っている人がいれば、無条件に助けを求められるし、助けに行く。
まだ二月ほどのあいだだけだが、イルカはここの生活が好きになった。
仕事のほうも、子どもたちは腕白で、教師初心者のイルカには戸惑うことも多かったが、毎日が楽しい。目まぐるしい出来事が、日々の生活のなかに溶け込んで、授業後に明日の授業の準備をして頭を抱えているときなど、まるで昔からここの教師をしていたかのような錯覚を覚えるほどだ。
けれど。
晴れた冬空とは反対に、曇った表情でイルカは山中の道を登っていく。普段、やりつけない山登りで息は上がっていたが、風が冷たい分だけ体が温まっていて気持ちよい。
目を上げると、折り重なるような細い山道が上へと続いているのがみえる。そのうえに開けた場所があると聞いているから、そこまで頑張ろうと、イルカは土を踏みしめた。
ピィ、と高く鳴く声が冬も深まる森に響く。
ふうふうと息を吐きながら、イルカは能面のような顔を思い出していた。
始めのころは、いつか硬質な態度も和らぐだろうと思っていた。年長者として受け止めなければ、という思いもあった。
だがその思いも、一月をすぎ、二月をすぎる今になって揺らいできた。それほどに、カカシの態度は頑なだった。
里での役割を奪われたせいかと思われた冷ややかさは、授業を任せたあとも溶けることはなく、イルカに対する刺々しさもそのまま。
自分がなにかしただろうか、と振り返っても、もう思い当たるふしはなく、一度はっきりと訊いてはみたが「別に」との冷ややかな返事が返ってきた。
まだまだ人生経験も足りないイルカには、ちょっと堪える。
休みの今日も、本当は長の書庫室で過ごそうと思っていたのだが、カカシが先客として居たものだから、なぜか逃げるようにして出てきてしまった。
あの整った顔立ちで、凍るような目と声を向けられれば、年齢が一回り上であろうが、劣等感を感じずにはいられない。実際、あの頃の自分を思い出してみればカカシのほうが優秀だ。
いたって平凡な自分とでは、先行きが違う。
そう思ってしまうから、強く出れない。きっとこの引け腰の態度も、カカシの気に食わないところなのだろう。
はあ、と大きくため息のような息継ぎをする。
知らずにかがんでしまった腰を伸ばすと、急斜面にたつ木々のあいだから里が見下ろせた。いつのまにか、ずいぶんと登ってきていたらしい。
腰にさげた水筒から一口、水を飲む。
さて、もう少し登って、それから帰ろうか。昼餉にはまにあうだろう。
おもって足を踏み出したとき、ふっと身体が浮いた気がした。
え。
足元を見る間もなく、一瞬の浮遊感に、滑り落ちる恐怖。
とっさに掴んだ枝葉の痛みだけが鮮明で、がつんという音が頭に響いたあと、イルカの視界は暗転した。
意識は浮き上がるように戻ってきた。
ぼんやりと視界が緑を映し、自分がなぜ斜面に背をつけているのかを思い出さないうちに、全身に痛みが走った。
思わず呻く。
目を瞬いて、見える範囲の景色から、空の色を探す。
森の木々は薄墨を重ねたような色に見え、枝の隙間からみえる色は茜色にみえた。
ずいぶんと気を失っていたようだ。
首をすこし持ち上げた。痛みが走り、顔をしかめる。だが動かせないほどではない。
次は手の指を動かす。次は足。どちらも痛みを感じる。それにホッとする。
命があってよかった、心底おもった。
首をなんとか動かし、落ちてきただろう上方をみると、うっそうとした緑の急斜面が続いているばかり。ゆるやかになった場所に、自分が布切れに似た格好で横たわって、転がっているようだった。
動けるだろうか。
草むらに埋もれた身体を捻るように動かした。
そのとたん、激痛が走る。
「…ッ、てぇ…ッ」
痛みが波になって押し寄せてきた。頭痛さえ感じ、堪えるために息をつめたとき、イルカの耳に草を踏む音が聞こえた。
ハッと顔を上げる。
動物か人間かはわからない。里の人間ならわかるのだろうが、イルカには判別がつかない。
痛みを忘れて息をつめた。
音は下の斜面から登ってくるようだ。
耳をすませていると、どんどん近づいてくる。
草を踏む音と、かき分けられる葉擦れの音。
一直線に近づいてくるような様子に、イルカは息をとめて見える範囲の景色を凝視した。動物ならば危険だということは頭から抜けていて、ただ逃げようもなく目をあけているしかできなかった。
横たわったままの耳に泥がつき、振動が響いてくる。
すぐそこまできている。
視界にうつる草が揺れた。
すぐ、そこに。
「―――目、覚めたの」
あっさりと、声が訪れた。
視界に、山歩き用の草鞋がはいってくる。
聞こえた声が信じられず、返事もできないでいると、こんどはあの整った顔が視界いっぱいに映った。
「…生きてるんでしょ、返事ぐらいしたら」
「カ、カシ…」
「そう」
命があってよかったね、と素っ気なくいいながら、カカシは水筒をイルカの口へ当てる。腕がイルカの首元へ差し入れられ、起こされた。
「…ッて」
「骨は折れてない、と思う。水、飲んで」
首を固定されて口に流し込まれるのだから拒否のしようもなく、いわれるままに飲み下す。口端からこぼれた水が顎を伝って地面に滴った。
「どうしてここに…」
水は汲みたてのように美味く、喉の滑りがよくなった。
カカシは「別に」と言い、すこし間をあけてから言い足した。
「あなたが山のほうへ向かったってきいた。昼飯にも帰ってこないから、みんな探してる。俺も探していた。それだけ」
「そうか…」
どうやらとんでもない迷惑をかけてしまったようだった。申し訳ない気持ちで言葉がつまる。カカシも本当は屋敷で書を捲っていたいだろうに、ほんとうに悪いことをした。
「…すまない」
「べつに」
もしかしてカカシの口癖は、別に、なのだろうか。それとも会話もしたくない、という意思表示か。
どちらにせよ、今はカカシの助けがなければ山を下りられそうもない。
「立てる?」
訊かれて、立ち上がろうとしたが、上半身を起こして足を動かそうとしたところで激痛が走り、仕方なく首を横に振った。カカシは大きなため息をつき、
「…もうすぐ大人たちが追いつくはずだし、無理に立たなくても良いよ。やっぱりどこか折れてるのかもしれない」
起こした上半身を倒して、イルカは息を吐いた。たったこれだけの動作で息がきれる。それに顔が熱く、目も霞んできたような気がする。
カカシの腕が伸びてきて、ひやりとしたものが頭の上に乗せられた。
なんだろうと痛みをこらえて探ってみれば、水に浸した布切れだとわかった。
2006.8