夜の先生
それから暫らくのあいだは、オレはあの下らないゲームに対してのお返しを、アンコを初めとする上忍連中に請求するのに、日々を費やしていた。
まあ要するに、きっちり罰ゲームをなしとげてやったんだから、一杯ぐらい酒をおごれともちかけて、さらに再度ゲームをもちかけ、汚い手を使って勝ったあげくに罰ゲームを押し付けていた。
あ〜、こういう下らない毎日って和むなあ。
今夜も今夜で、アスマを飲み負かしてやって、路上に放置してきたところだ。ホロ酔いの帰る夜道で、オレは機嫌よく、ほてほて歩いていた。
野原をつっきるあぜ道で、ささやかな川が畦を下ったところに流れている。夜空にぽっかり月が浮かんでいて、ふんわりと水気を含んだ夜風が鼻をくすぐる。
飲み屋街から住宅街に向かう道のなかでも、農地をつっきる道だから人の姿なんて見渡す限り、ない。
あるのは月の光と夜風だけだ。
ん〜、とオレは満月にむかって、歩きながら伸びをした。
気を張り詰めておかなきゃならない職業だから、こういうバカっぽい遊びはじつは嫌いじゃない。罰ゲームだとかいいながらも、飲まれ飲まされ、座の余興みたいな向きもあって、日常のなかのちょっとした刺激ってやつだ。まあそれが高じて、イルカ先生に告るなんてハメにもなったんだけど。
あれはちょっとイタだけなかったよな。
仔タヌが居たおかげで、けっきょく本人に言わずにすんだのが幸いだったのかもしれない。仔タヌもイルカ先生も良い感じにボケてたから、結果は大して変わりゃしなかったのかもしれないけど。
あの二匹…いやいや、一人と一匹は、ほんとボケてたよなあ。
会話がちっともかみ合わないうえに進まないときてた。
あのときだけだったからいいけど、今度あったときは、イラッとするかもなあ、などとオレは思いつつ、川にかかる橋を何気なく見た。
?
満月であたりは良く見える。
橋は歩にして二十歩ほどのちいさなもので、古いコンクリ造りのもので、作りたてはさぞ灰色も色鮮やかだったのだろうが、今はもう水にも風にもさらされて、ざらざらとした表面に黒に限りなく近い灰色になった橋だった。
いや、橋のことはどうでもいい。
オレが不思議に思ったのは、その夏草に埋もれそうなぐらいの古橋の欄干に、ちょこんとのっかっている塊と、その傍らに立つ一つ結わいの人影だ。
イルカ先生と…タヌキ?
オレの家の方向は橋をわたった向こうなので、川端を突っ切らない限り、そこを通ることになる。
オレはついついこのあいだのことを思い出して、こっそり川を横切って、気づかれないように帰ろうかなあ、なんて思って足を止めたんだが(だって、このあいだのこの二匹、じゃないや、一人と一匹の会話といったら酔っ払いの会話よりナメクジだったんだよ!)そのオレの耳に、舌ったらずな声がキャンキャンと響いた。
「違う! イルカせんせ、分かってない! 三佐はほんとのこと言ってるのに!」
「でもなあ、お前はそういうけど…」
「せんせ、カノジョいないって言った! こいびと、いないって三佐に言ったよ! それ、ウソ? 三佐にウソ、言った?」
「いやいや、ウソじゃねえよ? ほんとに恋人はいねえし…けどなあ、三佐、お前まだまだ小さいんだ。おっかさんの腹から生まれて、まだ一回しか寒いとき、なかったんだろ? だったらおんなじタヌキの可愛い子もまだまだ見てねえんじゃないか?」
困ったようなイルカ先生の声に、オレの耳がぴくっとした。
めっずらしいんじゃない? ってのがひとまずの感想。
このあいだのボケっぷりをみてると、ホケホケ笑ってる像は簡単に浮かぶんだけど、困ってたり真剣にしてたりする顔ってのが、どうも浮かびにくい。
今までは、普通に真面目に話してたはずなんだけどね、人の印象って不思議だなあ。よっぽど、タヌキときゃっきゃ言ってるイルカ先生が衝撃だったんだよなオレ、と思ってしまう。
んで、そのタヌ吉が、さらに衝撃的なことを、おおっぴらに叫んだ。
「みたよ! ハナもミーコもアキもミツもしってるよ! でもいちばん、いっちばん! イルカせんせが好きだ!」
―――第一感想。
おっとぉー。
と、いうのがオレのいちばん初めの感想でした。
おいおいおい、って突っ込みも入ってたけど。
当のイルカ先生は、「う〜ん」とかいってる。
いや「う〜ん」じゃないでしょ「う〜ん」じゃ。悩むトコじゃないからソコ! 好きとか恋人がってはなしじゃなくて、まず問題はタヌがタヌだってことだよ!
だが驚きつつも気配を完全に消すことのできる俺に一人と一匹は気づくことなく、トボけた会話は続く。
「でもまだハナとミーコとアキとミツのこと、よくしらないだろ? 三左衛門が先生といっしょにいた時間ぐらい、三左衛門はその子たちと一緒に居たか?」
「居ないけど、三佐はイルカせんせが好きだよ!」
「う〜ん、先生のこと好きっていってくれる三左衛門の気持ちは嬉しいけどな…」
「じゃあ三佐とつがいになってくれる!?」
嬉しげなタヌの言葉に、オレはブッと吹き出した。
遠かったし、いまやオレは暗がりにひっそりと潜んでいたから、向こうは気づかなかったみたいだけど、俺は驚きのあまり呆然としてしまった。
イルカ先生、タヌキに求愛されてる!
とっさに笑い出してしまわなかったのは、二人が、いや、一人と一匹が、いやもう面倒くさいや、二人がすごく真剣に向き合ってるってのが遠くからでもわかったからだ。
あのボケっとしたイルカ先生が困ってるのも頷ける。そして、タヌキだからって断るのじゃなく、どうにかして傷つけないように断ろうとして困ってるってのも、なんとなく分かった。
きっと気分は、生徒から告られた先生、かな?
まあ、そのまんまの状況か。
あのタヌ吉はイルカ先生の生徒のようにみえたから。
「三左衛門、何度も聞くけど、つがいって言葉の意味、わかってるか? つがいってのは…」
「ちゃんと聞いたよ! おおばあさまに聞いたんだ! おおばあさまもちょっとの間だけだけど人間とつがいになったことあるって! 一緒に暮らして、すっごく幸せだったって!」
いやいや、さんざえもん、つがいってのは、一緒に暮らすだけじゃないんだけどなあ〜。
オレは暗闇に溶けるように、ふ〜っとため息を吐いた。
イルカ先生もおんなじようにおもったんだろうけど、オレのようにため息はつかずに、またも「う〜ん」と唸った。
「一緒に暮らすだけなら、先生もできないことはないんだけど、三左衛門のいってるつがいってのはまた意味が違うしなあ…」
ま、真面目に考えてるよこの人!
あんまり生真面目に言ってるから、ちょっと笑いそうになった。
同時に、彼の生徒は幸いだな、と思う。
こんなに自分の言葉と意味とを真剣に受け止めてくれる大人がいるってことは、幸せだよ。
オレのように笑わずに、真面目に話しを聞いて答えてくれる人。
すごく、好ましい人だ。
オレはこのとき、初めてイルカ先生という人を、個人として認識して好意を抱いた。自分でできないことを真っ当に体現してる人には、オレだって、素直に敬意と好意を抱くってものだ。
そんなことを考えてたオレの耳に、ひときわおっきく、叫び声が聞こえた。
「そんなこといって、先生、オレのこと、好きじゃないんだ! オレ、先生のこと、好き! タヌキだからダメだっていってくれたら、オレ、人間になる! 先生がまえ好きだったいってた、人間になる!」
遠目にも、橋の欄干のあたりでぽわんと煙がたったのがわかった。なんだ、タヌ吉、変化が立派にできるじゃない、ってそういえば初めてあったときも見間違ったぐらい立派にできてたな…なーんて感心したのはつかのま。
次の瞬間、オレは暗がりから覗き見してることもうっかりして、ぶはっとハデに吹き出してしまった。
なんとあのタヌ吉、オレの姿をとった!
ちょ、ちょっと待てって!
オレがイルカ先生に告ったのって秘密っていうか、間違いだったって言い聞かせたろ、タヌ吉!
2007.9.2