相手





 最後にイルカを見たのが、たしか五日前。三階の窓から、その揺れる尻尾のような結わい髪をみていた、少し言葉を交わしただけだったが、なぜかそれで充足した心地になったことを覚えている。そして次に会えるのはいつだろうかと思った。
 その日から休日を挟んで今日に至ったが、ふと帰り道にイルカのことが浮かんだ。そういえば、あれから顔を見てないぁと気づいて、どうしてか落ち着かなくなった。
 特に用事があるというわけでもない。
 そういえば昨日はナルトが「一楽のラーメンは」などと語りながら、イルカのことも嬉しげに話していた。だからだろうか、イルカの切れ端のようなものを、日常のどこかに求めるようになりつつあるのは。

 今ではイルカの嫌いな食べ物が混ぜご飯であることや、温泉に入るのが好きだったり、あまつさえ湯めぐり、湯治が趣味であることも知っている。適当に水をむければ、ナルトが勝手に喋ってくれた、というだけであるが。あと、女性関係が、意外とだらしないことも。
 ナルトが愚痴のように言っていた。イルカ先生の『彼女』はよく変わるから、覚えてられないし、仲良くもできない、と。聞いたときは内心驚いたものだ。人は見かけによらない、というがイルカがそうなのだろうか。見た限りでは、遊び歩いている風にも思えなかったが。

 だがそんな疑念も、最近解けた。上忍仲間の紅に訊いたからだ。
 答えはあっさり返ってきて、いわく、寂しがり屋がほんのひと時、寄り添うような関係が多い、と。そして、来るもの拒まず去るもの追わず、といったイルカの態度も。
 聞いたとき、頷きもしたが同時に首を傾げもした。来るもの拒まず、というのはなんとなく理解できる。あのイルカのことだ、大いなる「協調性」を発揮してのことだろう。あとは彼本来の、垂れ流される慈愛のような優しさから。だが去るもの追わず、というのは不思議に思った。イルカも寂しくないはずがないのに。
 寂しいから寄り添っている、というのは良く聞く話だ。実際、多くの恋人同士の行き着く感情は、それ、であることが多い。ただ寂しいから、惰性で共に居る。
 それでも、イルカとつきあう女性が、ただ寂しいからとイルカに寄り添い、そして身勝手に離れていくのを、イルカが何も言わず追おうともしないというのなら、なんとイルカは慈愛の塊のような人間なのかと疑いたくなる。
 受け入れるだけ受け入れ、捨てられるときは見向きもされない「慈愛」。

 イルカに本当の「恋人」は居たのだろうか?
 誰かを好きになったりなど、したのだろうか?
 誰かを引きとめたことは?

 そんなことをつらつらと考えながら、足は勝手にアカデミーに向かっていた。
 もとより任務報告書の提出にはよらなければいけないので、ちょうどよかった。
 だが、受付で用事をすませてみてもそこにはイルカの姿はなく、それならばと教員待機所を覗いてみようとして、渡り廊下から手近な樹に飛び渡った。こっちのほうが近道だ、と単純に考えたのだが、そのおかげで面白いものが見れた。





 ―――それじゃもしカカシ先生が付き合うって言ったらどうするつもりなんだ?

 イルカの後姿だ、と認識したのと同時に、その声も聞こえてきた。
 カカシは窓の外の枝上、日も落ちた葉の茂みのなかにいた。そこから窓ガラスごしにイルカの姿と声を認めたのだが、あいにくイルカはカカシに気づくこともなく、カカシからはよく顔のみえる女教員と向き合っていた。

 ―――まさか! 百にひとつの可能性もないから、想いだけ伝えたいって本人がいうのよ。

 カカシは闇のなか、小首をかしげた。
 どうやら先ほどの言葉を繋ぎ合わせると、自分のことを話しているらしい。

 ―――それじゃますます…。

 イルカの苦々しい声に、カカシはその表情を思い浮かべる。きっと眉間に皺がよりかけている。それを思っていれば、女が唐突に背を返して、去っていってしまい、イルカが大きく溜息をついた。
 少し位置を移動して、イルカの手元をみやれば、ピンク色の封筒がみえた。
 ああ、とカカシは合点する。
 うぬぼれるつもりはないが、おそらく自分あての恋文を預かってしまったのだろう。ニ三度ではあるが、当人以外の人間から、言付けとしてもらったことがあった。今回もそういうことだろう。
それにしても、とカカシは小首を傾げる。自分の風体や名前に憧れを抱くのはかまわないし、迷惑とも思わないが、その想いを自ら伝えられないというのは、どういうことなのだろう。
 結局はその程度の想いなのだと、結論はそこにおちついてしまい、つまりはカカシは人づての恋文を好いてはいなかった。
 そしてその恋文は、今はイルカを困らせているようで。
 イルカは大きくついた溜息のあと、億劫そうに椅子に座った。

 まったく、なんで……。

 呟いたのが聞こえた。
 伺えば、はっきり眉間に皺をよせていて、カカシは自分の予想の的中ぐあいに可笑しくなった。
 イルカはぼんやりと手元の恋文をみつめていた。
 何を思っているのかははっきりとは分からない。自分はイルカではないから。
 けれど今思っているだろうことは、なんとなく分かる。
 可笑しくなってうっすら微笑んだ唇で、カカシはそれを口にした。

「あぁ面倒くせぇ、やってらんないよなぁ」

 いった途端、イルカが真実びっくりして振り返ったのがわかった。目が大きく丸くなって、本当に驚いているようすで。
 たぶん当たってはいないだろう。
 全て外れてはいないだろうが、カカシがあてずっぽうでただ言っただけだ。
 それよりもイルカの驚くようすが可笑しくて、カカシの気分が高揚した。
 窓枠に手をかけて身を室内へと移動させた。驚いたイルカが、我にかえって睨みつけてくる視線を、緩みそうになる頬で受け止めながら、窓枠に腰を下ろした。そうすれば、イルカの手元の、ピンク色のものがはっきりと目視できた。

「…っ、カカシ先生、いつから…っ」
「いつから、と言われても」
「それでは、どこから聞いていらっしゃったんですか」

 いいね。
 質問の形を変えてより具体的にする機知も、悔しそうに睨む目尻も。
 俺相手だからいいけど、ほかの上忍にそれしちゃダメだよー。
 思ってニヤけていると、イルカがいまさら気づいたようにそのピンク色を隠してしまった。そして再び、じっとりと睨み上げてくる。
 ああ、でも、俺って睨まれることが多いなー。
 ふと気づいたがその原因については真相究明にはさっぱりだった。

「趣味が悪いですよ、盗み聞きとは」
「盗み聞きなんてしてないですよ、あなたが俺に気づかなかっただけです」

 ギッ!
 と今度は音が聞こえてきそうなほど、鋭い目つきをされた。
 ありゃ、イヤミに聞こえたのかな、たんに俺に気づいて欲しかったなーと思っただけだったのにな。
 と心でいってももう遅い。イルカは沸騰しそうな額で、帰り支度を始めてしまった。ピンクのそれも、手荷物に挟み込まれて。

「あれ、しまっちゃうんですか?」

 不思議に思って、訊いた。
 イルカが怒っているのは分かっているが、すぐにそれはこちらに手渡されると思っていたので。
 カカシには分からないが、恋文、というものは大方にして「恥ずかしい」ものだと認識していた。あの人を好きになって恥ずかしい、この気持ちを伝えるのが恥ずかしい、気持ちを紙にあらわすのが恥ずかしい、面とむかって会うのが恥ずかしい。いろんな「恥ずかしい」を我慢できずにしたためるのが「恋文」だ。
 それは多分、ごく一般的に、恥じらいとかいう形容詞で、まとめてしまうと「恋心」というのだとおもう。
 だが、そんなたいそうなものを、他人に預けるのはどうかと思うのだ。
 預けられたほうは、自分のものでない「恋心」を持ってしまったわけで、扱いに困るのではないだろうかと推測したりもする。
 ようは、イルカは迷惑してるんじゃないかと思うのだ。
 加えてイルカの性格。見た目よりよほど頑固で、一本気で、妥協もしらず、迎合もしない。表面上はうまく人付き合いをこなしているから波風は立っていないが、こうしてイルカの眼差しを受け止めてみると、その真直ぐな光は、容易にイルカの人となりを暴きたてている。
 だから、イルカがこの恋文に対して「可愛い人だなぁ、じゃあ俺が橋渡しになってやろう」などと考えているとはとても思えず。むしろ、無責任に囃したように「面倒くさい」と思っていると考えたほうが妥当だった。
 そのイルカが、手荷物に手紙をはさみこんだ。意外だった。

「ええ、しまいます」
「くれないんですか」
「ええ、あげません」
「どうして」
「どうしても」
「いいじゃないですか」
「駄目です」

 断固とした言い様。
 納得がいかないような心地だったが、イルカの言い分も曲げられそうになかった。頑固な人だ。
 だが不思議でしかたがなかった。絶対、面倒だと思っているはずなのに、もしかして本人に返しにいくとか言い出すんではないだろうか。それこそ、本当に面倒くさい。自分だったらご免蒙りたい。
 なぜかって。

「押し付けられたのに?」

 言えばイルカの目がぱっと上がって、カカシと合った。その色が、真剣に驚いたというそれで、カカシはますます不思議になった。本当のことをいっただけだったが、何にそんなに驚いたんだろう。
 だがカカシの疑問が解ける前に、イルカがのろのろと目線を下ろした。そして、先ほどまでの眼光もどこへやら、やけに力なくいった。

「…別に、押し付けられたというわけでは」
「でも溜息ついてたじゃない」
「それは…」

 事実を言い当てられて、一瞬つまったが、

「でもやっぱり、これは本人に返します。カカシ先生もご本人からもらって下さい」

 うわ、と正直思ってしまった。
 そして口からも出てしまった。

「どうしてそんな面倒くさい」

 言うか言うかとか思ったが、まさか本当に言わなくても。
 なにが面倒くさいかって、イルカも自分も当人にとっても、このうえなく。
 一本気な心根も悪くは無いが、ここはひとつ、さっさと自分に譲渡してしまって楽になったほうが、イルカのためなのに。イルカが、他人にそこまで気を回すことはないし、時間を使うことはないのに。自分のためやカカシに使ってくれるのなら、まったく止めはしないけど。
 思ったことが全部、口にでてしまったわけではなかったが、きっと半分以上は伝わったのだろう、イルカがむっつりと眉根を寄せた。

「どうでも。…カカシ先生がどうお返事されるかは興味ありませんし」
「あらら、冷たいね」

 ちょっと、なぜか、胸にずしんときた。なんだ、気にしてるのは女のほうか、と思う。
 カカシとしては、人づての恋文だという点で、普段なら目を通す通さないをおいても、返事はしない。どうしてもなにかのリアクションが欲しいなら、本人がでばってくるべきなのだから。
 だから、イルカの興味に関わらず、無視しようと思っていたのに。
 イルカが今から本人に返しに行くというなら、多分、イルカはカカシに返事をさせたいのだろう。否、恋文を綴った当人へ、選択を迫りたいのだ。渡せずに諦めるか、渡してリアクションを待つか。
 ある意味、優しい。
 そしてイルカらしいといえた。
 他人にとって、道端のゴミより疎ましく思われそうな、そのイルカの行動指標は、ときに他人の表面を上滑りすることもあるだろうに。偽善、といわれたこともあるのではないだろうか。人ごとながら、心配になった。

「…でも、どんな結果にしろ、ご本人にとっていい結果になるといいと思いますよ」

 そんなことを、微笑しながらいったりするから、余計に。
 心配になるから。

「じゃあ行きますか」

 つい、そんなことを言ってしまっていた。
 イルカのことを言えないと苦笑が漏れたが、それもこれもイルカが引き金だから、不思議なものだ。いつのまに自分は、こんなに人付き合いの良い人間になったのか。
 慌てるイルカが、小走りにおいつくのを感じながら、それでも気分はよかった。





 そういえば、とカカシは紅から聞いたことを思い出した。
 イルカがぽつりと呟いたからだ。

「…修羅場は、嫌ですよ」

 向う廊下でさしての会話もなく、唐突に告げられた感があった。そっと伺えば、イルカの眉根にはシワがよっている。ありゃりゃ、と可笑しくなった。
 紅から聞いた情報は、正しかったのかと。

「俺は返すまでで失礼します」
「嫌いですか、修羅場」
「…あんまり好きという人に心当たりはありませんね」

 眉根をよせて、いかにも、という風に返答するからよけいに可笑しくなった。素直に嫌いといえばいいのに。
 なぜ嫌いなのかは想像できそうだった。
 寂しくなるからだ。
 相手の全てが己に向けられていると感じるときがあって、そして去っていく。
 それを実感できて、怖い。
 彼の、恋愛歴をきいただけでおこがましい推察だろうか。彼を、人一倍の臆病者だと認識するのは。誰よりも酷く、寂しがりやだと。
 だた、こう言うのには、少しひどいんじゃないかと思った。

「―――本当ですよ、そんな物好きな女性はいませんし」

 きっと真実、彼を想って共に居た女もいたはずだ。
 それを物好き、の一言で片付けるとは。
 イルカの自己卑下と、事実認識の相違があまりに大きいだろうことに、笑いさえ漏れた。

「あなたを想った女たちが可哀相ですね、本当に」
「…どういう意味ですか」
「修羅場にも、させてもらえないから」

 実際のところ、修羅場、なんてものは、少しぐらい図太い人間が巻き込まれてちょうどいい。「別れてよ!」とか「捨てないで!」とか「誰よこいつ!」などといった二者択一の問いを、鬼気迫る仁王立ちで、ヒステリックに叫ばれても「あーそうだね」と耳をほじれるぐらい悠然と、言い換えれば無神経でないと、二度と体験したくないと思うのも無理はない。むしろ普通だ。
 まぁイルカは、一人の女がいれば浮気はしないだろうから、三つ目の問いは受けたことがないだろうが。
 それでも、別れる捨てないでの問答がなかったらしいイルカの人生で、本当に皆が皆、する必要がなかったのかといえば全く疑問だ。イルカの垂れ流されるような優しさに、本気で癒され、また寄り沿いたいと願った女もいるだろう。けれど、多分、それを流してきたのだ。イルカ自身が。
 あとで必ず寂しくなるから。
 本気で「好き」になったりすると、寂しくなるから。

「だって、来る者拒まず去る者追わず、でしょう」

 ―――そうすれば、寂しくないから。



 告げたあとのイルカの機嫌は、急転直下、とでもいうべきだった。
 口をきゅっと引き結び、ただ眸だけが、カカシを睨みつけてきた。
 目は口ほどにモノを言い。
 とはいうが、このさいイルカに関してはそうだと言いたい。
 アンタに何がわかる、とその眸は言っていた。
 かといって怒鳴りだすわけでもなく、黙ったまま。
 目尻がほんのりと赤くなっているのは怒りのためか。

 怒る、ということは図星だったのかな。

 あんまり長い間、否、長く感じる間イルカが黙っているので、カカシは不安になってきた。これから出会っても、ずっと無口でいられると、とても困る…と思う、自分が。想像すると、想像できないから、多分、そういうことをされると自分は困るだろうとカカシは思う。
 だからイルカがそんなに激昂しているのだろうかと確かめたかったが、それにも無言。
 どうしようかと、内心で困り果てていると、かけられた声。女。

「――――――イルカ先生?」





2003.5.11