良い人





 自分にしては、とても良い人ぶったと思う。
 ありがとう、なんて今まで口にしたことはなかった。
 面と向って断りをいれるなどしたことがなかった。
 修羅場は慣れているだろうとイルカは言ったが、こんな真面目に対峙したことなどない。
 真面目な修羅場は苦手だ。
 けれどどうにかしなければと思って言った。
 それをさせたのはイルカに他ならず。
 イルカが見ていると思ったから、穏便に、良い人ぶってみようと思った―――。




 女は見覚えがあった。
 たしか一週間ほどまえの任務で、引越しの手伝いをした。荷物運びから、転居後の部屋の掃除を手伝い、埃まみれになった一日だった。依頼書をみたときには、力仕事ばかりの依頼のようで、わざわざ任務にする必要があるのかと思ったが、依頼主がほかならぬ忍びだと気づいて、頷いたものだった。
 覚えているのはそれぐらい。
 女自体の印象といえば、大人しくまるで風に飛びそうな女性だった、と思う…というのは、印象自体が残っていないために、残っていないなりの理由から推察したからだ。言葉も、必要最低限を交わしただけであったと思う。
 他にはなにも接点はなく、それだからと手紙にしたためる成り行きは分かる。積極的にアプローチをはかるタイプでもなさそうだったし、妥当だと思う。だからといって、生まれるのは状況認識による共感と理解であって、好意ではなかったが。
 ただ、女が顔を伏せ、泣き崩れたとき、まるでイルカも泣きそうにみえた。狼狽えて、幾度も視線が女とカカシをみた。その揺らいだ眸に、なぜか苛立ちを覚えた。もう、あの女のなかにはイルカの出る幕はない。カカシにさえも。泣くのは、傷ついたものだけが独り占めしていい権利だ。同情で泣くことは、より相手を傷つけるだけなのに。もし彼女の横で涙する権利があるとすれば、彼女の女友達ぐらいだろう。だから言った。

「優しくしてどうしようっていうんです、さ、帰りますよ」

 告げても、まだ眸には躊躇いの色。
 どうしようか、と問い掛けるような色。
 カカシは苦笑した。
 修羅場は嫌だといったが。

「あなたが嫌いだといった理由が分かった気がします、けどね。―――そんな誰も彼もに優しくなって、どうするんです」

 返答は無かった。
 顔が伏せられ、二の腕をとったカカシに逆らうこともせず、身体がうごいた。
 あれ、言い過ぎたのか。
 いまいちイルカの逆鱗も掴み所もわからないままではあったが、こうやって態度に顕著にあらわれれば、カカシにもわかる。なにか元気がなくなり、気のせいか一つ結いまでしょげているようにみえる。それはたぶん俯いているせいだろうけど。

 悪いこと、言ったかな。

 アカデミーの廊下を過ぎ、階段をくだり、里の大通りにでても、まだイルカは項垂れて引かれるままになっていた。二の腕では引きにくかったので、掌をあわせれば、思いのほか暖かく乾燥していた。教師の掌だ。
 普段はどんな仕事ぶりなのだろうと、想像してひとり微笑う。
 そういえば、イルカの家はどこだろう。
 聞いたことはない。たまに見かける場所から、大通りから曲がって行くのだとはおもうが、どちらに曲がればいいかは、はっきりと分からない。
 なにやら考えに落ちているイルカを驚かさないように、ゆっくりと立ち止まった。左右、二分の一の確率だとおもって、適当に指差してみた。

「こっち?」

 返事にはすこし間があった。
 伏せていた顔が、ゆっくりと上がって、ぱちりと瞬きをした。その表情が、泣きはらしたあとのようで、おもわず繋いだ掌に要らない力が入りそうになった。

「何が、ですか?」
「家」
「俺の?」
「そう」

 眸が、僅か伏せられた。通りの明かりが、その一瞬の表情を仄かに照らしだす。笑いに細められる目のしたの、よく見なければ気づかない笑い皺。やや鋭角的にすっきりとした頬に、まっすぐ通った鼻梁。それを真横に走る傷。いつもは引き締まっている口元は、いまは頼りなげに開かれて、うっすらと赤い唇のなか、歯を覗かせていた。

「分からないの? 自分の家」
「いえ」
「じゃあどっち」

 ふ、と上げられた視線。睫毛が淡く灯火色に染まっていて、知らず目を奪われた。
 ひとつ、頷きを返事にしたイルカの手を離さずに、カカシはまた歩き出す。

「一緒に帰りましょう」

 ほんの瞬きのあいだだったとはいえ、たったそれだけのことで、やけに掌や耳朶が熱かった。いぶかしむよりも先に、ただイルカと繋がっている指先によぶんな力が入らないよう、気をつけた。

「―――カカシ先生」

 イルカの控えめな呼びかけは、唐突といってもよかった。角をまがり、いくばくかの沈黙のあとだっただろうか。

「なんですか」
「―――…俺は、そんな見境がないですか」

 少し意味がつかめずに、訊き返した。

「何がですか?」
「――――――…偽善…でしょうか」

 ああ、と溜息がこぼれそうになった。
 そして誰がいったのだろうと気になった。
 偽善、なんて馬鹿らしい言葉に捕まることはない。
 カカシはそう思う。
 その言葉を口にだす人間のほうが、恥ずべきことを見て見ぬふりでやり過ごしているのだから。誰のために、などと気にする前に、それではお前はなにを成し遂げたのかと、問い詰めればいい。なにもし得ない人間こそが、偽善、などという態の良い言葉で、恥知らずにも人を非難するのだ。
 偽善だと罵る人間は何もし得ないが、偽善だと罵られた人間は、確かに何かをなし得ている。それが善か悪か、益か害かは、見る人によって変わることだ。

「誰かに言われたんですか? 偽善だって」
「…ええ、はい。言われました」
「―――自分でもそう思うんですか?」

 返答にはまた、僅かの沈黙。躊躇い、だろうか。答えることに迷ったことが、なぜか伝わってきた。
 カカシには、イルカが答えを躊躇う気持ち、そしてどちらの答えでも構わないと思う自身の気持ちを、正確に感じていた。別に、どちらでも構わない。イルカが迷っている様子で、答えは分かっているようなものだが、むしろ、そうだと答えてくれたほうがイルカらしくていい。
 そうやって、他人の無闇な責めにまで反応する、馬鹿なイルカが良い。

「イルカ先生?」

 答えを促せば、小さく「…はい」と返ってきた。
 ああ、そうだ。
 そうやって迷うアナタも好きだ。
 不意に心に浮かんだ言葉。それから、やけに胸が熱い。なにかに満たされたような心地。腹いっぱいになって、風呂に入って、そのあとベッドに転がれば、こんな心地になれただろうか、表現し難い、なんとも心地よい暖かさ。

「イルカ先生、じゃあこう思ったらどうですか」

 そんな心地よさのまま、上機嫌でカカシは言った。

「黙って優しくされてろ、ってね。―――気を悪くしないでください、でもね…他人がそう思ってて、貴方もそう思うなら、じゃあお互い様じゃないですか。お互い様なら、それでいいじゃないですか。貴方はもう少し開き直っても良い、貴方の優しさを偽善だといいながら、その優しさにつけこんでいるようなやつらのために、貴方がそんなに気に病むことはないんですよ」

 そう。
 何もし得ない人間であるよりも、何かを成し得るイルカであるほうが良い。
 悩みながら、自己卑下に苛まれながらも、優しさを成すイルカのほうが好きだ。

「―――…もう少し、開き直ってみなさい。イルカ先生」

 そうすればきっと楽になる。
 優しいといっても間違いではない柔らかさで、カカシはイルカの頬に触れた。指先は言えない熱をもって、その頬を滑り、あとには温もりだけが残った。

「だから、そんな奴らのために、あなたがそんな顔をする必要はないんですよ」

 泣きそうな、顔。
 なにかを堪えるような、弱さに負けそうな、あと少しの顔。
 見ていれば、方向を指したときの表情に重なって、どうしようもなく身体が熱くなった。
 カカシはこっそりと苦笑する。
 どうしちゃったんだろうね、俺は。

 困った。

 癖で後頭部を触ろうとした掌が、さっきイルカの頬に触れたほうだと気づき、手をおろした。かわりに、イルカの伏せた面を覗き込んだ。
 まさか泣いてはしないだろうかと。
 大の男にそんな心配もないだろうが、万が一、自分がイルカを泣かす原因になりでもしたら、と考えるだけで嫌な心地に襲われたから、やっぱり心配になった。
 俯いた眸からは涙はでてはいなかったが、目尻は赤かった。

「はい、あぁ良かった、泣いたかと…」
「泣きません」

 またすこし、困る。
 泣かないといいながら、目が潤みかけるから。
 だがすぐにイルカが話題を変えた。女のことだ。任務の内容を、たとえイルカでも、たとえ軽い内容でも言うのは躊躇われて、適当にごまかした。
 それから、少しだけ気にかかっていたことを謝る。
 修羅場は嫌だといっていたのに、見せてしまったこと。
 あのイルカのうろたえぶりが、今になって罪悪感になってきていた。あのとき覚えた苛立ちも。ただカカシの目の前で、女に優しくするイルカに、苛立っただけ。
 …結局は、俺も偽善だなんだのという連中と変わんないね。
 自分の心をのぞけば、苦笑が漏れそうだった。
 だが謝罪は謝罪。ぺこりと頭を下げれば、イルカがあせった。
 あたふたと言い募るイルカ。

「でもあれは、そのっ、俺が勝手にそうしたいって思っただけで、結局はあの人にとって迷惑だったかもしれないですし…っ、俺の、…」

 それが急に元気をなくして。ふ、と眸が翳った。

「俺の―――…身勝手な同情に、カカシ先生がそんなにお気をつかわれることは…ありません…だから…」

 ああ、また。
 そんな顔して。
 無意識にイルカの頤をとって、面をあげさせていた。

「ほら、また―――そんな顔をして」

 そうすれば、イルカが苦笑した。

「……分かりません、俺には」
「自分で自覚ないんですか? …困ったな」
「どうして貴方が困るんですか」
「どうしてって言われても…」

 それはカカシにも分からない。ただ、―――困る。
 じっと、まだ赤い目尻で、黒目がちの眸で見つめられると、ますます困ったような心境になった。理由は自分でもわかりません、というにはあまりにも間抜けのような気がした。
 だが、そんな答えを逡巡するのも束の間、すぐにイルカの視線がすっと外された。
 かわりにつっけんどんな声。

「…いえ、もう結構です。ここまでありがとうございました。今日はこれで」

 言って、そっけなく背を向けるから、慌てて告げた。

「他のやつにはそんな顔、見せないで下さい」
「分かりました」

 これも、棘が幾本か飛び出しているような。返答。
 なにやら機嫌がまた急降下したようだと、苦笑をもらせば。
 付け足しのようにイルカが。

「…それと…今日はありがとうございました。―――いろいろと」
「―――いいえ……どういたしまして」
「それでは失礼します」
「はい、さようなら」
「―――…おやすみなさい」

 先ほどまでの、頼りのない風情は綺麗にない背中。それを苦笑まじりで見送って、カカシも踵をかえす。
 目の前にうつるのは、里の明かり。それを横切る多くの里人。飲み屋の明かり、遅くまで開いている食料品店、小間物屋、惣菜を並べただけで店じまいの最中の店もある。それらの前を、見も知らない里人が通りすがり、そのまま過ぎていく。
 明かりはそのたびに途切れ、通り過ぎればまた何かを照らしだす。そしてまた遮られ、そして灯る。店先に。通りに。暗闇に。
 人の流れに、ふらりと身を滑らせて、カカシはいつになく暖かい胸中を思う。  たくさん、イルカと話をした。
 今までと違うイルカの顔もみた。
 おまけに頬に触れたし、手を繋ぎもした。
 ずいぶんと、こんな短い間で、イルカに近づいたような気がした。
 それだけのこと、といわれるだろうか。
 だが、それだけのことで、確かにカカシの機嫌はいつになく良かったし、いつもは何のことは無い帰り道さえ、暖かく短いように思えた。






2003.5.12