繋いだ手





 嫌なことを言われた。
 聞きたくないと思うことを言われた。
 否。

 言われたくないと思っていたことを言われた。






 二の腕を引いた掌は、いつのまにか今はイルカの手を引いていた。
 忍び泣きの聞こえる廊下から遠ざかり、階段を下りて、アカデミーからでる。夜の灯りが、アカデミー正面通り左右に広がっていた。
 カカシは廊下から一度もイルカを振り返らない。
 もうアカデミーから遠ざかりつつあるのに、イルカの掌を離さない。
 引く手は強引でなく、促すように先導するから、イルカも無理に解こうとは思いつかなかった。むしろ、先刻カカシに言われた言葉が、頭を渦まいて、ただ目の前を歩くカカシの背と、その掌の温かさをぼんやりと感じていただけで。
 ふとカカシが立ち止まった。体半分が振り返り、無言で通りの向こうを指差した。
 意味がわからずに、イルカは同じように言葉なくカカシを見返せば、カカシがいう。

「こっち?」

 ますます分からず、イルカは訊いた。驚いたことに、問題なく動くはずの口が、糊がはりつけたように強張っていた。それをぎくしゃくと動かす。

「何が、ですか?」
「家」
「俺の?」
「そう」

 後で思えば随分たどたどしく、良い分別もついた大人同士の会話でもなかったと、可笑しい会話だった。それでも、そのときはただ、なぜカカシが自分の家をたずねるのだろうと不思議に思って、首を傾げたのだった。

「分からないの? 自分の家」
「いえ」
「じゃあどっち」

 押し切られるように、イルカは指をさしたままのカカシに頷いた。彼が当てずっぽうで指したその方向は、たしかにイルカの家の方向だった。いま居る通りの、次の角を曲がればいい。
 そうすればカカシがまた歩き出した。手はつないだまま。
 あの…、と声を出せば背中でカカシが答えた。

「一緒に帰りましょう」

 イルカの問いに答えたのかそうでないのか、イルカ自身にもわからず、そのカカシの当然のようにいう声音に、ただ黙った。たぶん、いつもならどうして一緒に帰るのだろうかとか、どうして手をつないだままなのかとか、そう思っていたとおもう。けれど今のイルカにはそう思う余裕もなく。

「……カカシ先生」
「なんですか」
「―――…俺は、そんな見境がないですか」
「何がですか?」

 カカシは振り返らない。立ち止まりもしない。
 宵闇のなか、明かりが満ちる通りを、人にぶつかりもせずイルカを引いている。その掌は緩く握られているが、けしてイルカを離さない。


「――――――…偽善…でしょうか」


 以前、同僚から冗談半分に言われたことがあった。そのときはイルカも酷いと詰って笑いあったのだったが、あとで一人、どうしようもなく気が滅入ったことを覚えている。

 誰も彼もに優しくするのは、偽善だといわれた。
 誰も彼に、良い顔をするのは偽善以外のなにものでもないと笑われた。

 ただ周囲に波風を立てないように、だれも嫌な思いを、自分のためにすることがないように、だれもイルカを責めないように。
 けして簡単なことではない。イルカにとっても日々、難しく、綱渡りを繰り返す心地だ。それを偽善だと笑われて、何も思わないということはない。だれよりも、イルカ自身が偽善だとわかっているのに。
 だれよりもイルカ自身が、己の優しさは、己のために振舞って見せているものだと自覚している。それの何が悪い、と開き直りさえする自分を知っている。己を良くみせたいと願うがために、人に優しくしてどこが悪い。そしてそれを偽善と呼ぶことを、―――己は知っている、と。
 だが、それでも。
 己のすること成すことが偽善だといわれれば、気鬱を感じずにはいられないのだ。
 優しくしてはいけないのだろうか、と。
 それならどうして皆、優しい人だと自分を指して笑うのかと。

「俺は…――――――」
「誰かに言われたんですか?」
「……」
「偽善だって」
「…ええ、はい。言われました」
「自分でもそう思うんですか?」

 すぐに答えられなかった。
 掌の暖かさと、引く力の柔らかさが、答えをいえば離れていってしまうかもと不安に感じた。なぜなら、答えは是だったから。他の誰に否定されようと、己のために人に優しさを振りまくことは偽善だと、思うから。

「イルカ先生?」
「――――――…はい」
「ふぅん」

 曖昧な相槌。
 けれど、掌のぬくもりは離れてはいかなかった。
 変わらずにイルカを先導する。

 ふと、この人の優しさはなんだろうと思った。
 どうして己の手を引いてくれるのだろう。

 思えば最初から良い出会いではなかった。その後の印象も最低だったろう。イルカのような能力も経験も劣る忍びと一緒に居ても、カカシに益もない。それなのに、なぜ今、イルカの手を引いて、イルカの弱音など聞いてくれるのだろう。
 すべての人に優しくなどはない。現に、先ほどは女を泣かせた。あれがひいては女のためになるという者もいるだろうが、酷いと思った。けれど、いま、イルカに対しては多分、優しい。

「イルカ先生、じゃあこう思ったらどうですか」

 背中のままカカシがいった。

「黙って優しくされてろ、ってね」

 気を悪くしないでください、でもね。

「他人がそう思ってて、貴方もそう思うなら、じゃあお互い様じゃないですか。お互い様なら、それでいいじゃないですか。貴方はもう少し開き直っても良い、貴方の優しさを偽善だといいながら、その優しさにつけこんでいるようなやつらのために、貴方がそんなに気に病むことはないんですよ」

 もう少し開き直っても良い、とカカシは言い、ゆっくりと歩が止まった。
 すでに随分と家に近く、通りからは離れていた。通りの喧騒は遠く、明かりも遠くの街頭からほんのりと届くのみ。だから振り返ったカカシの面は、半分以上が夜に隠され、ただその左目だけが月明かりに照らされていた。
 繋いでいなかった方の掌が、イルカの頬をなぞった。
 ぞくり、とイルカの背に痺れが走る。

「だから、そんな奴らのために、あなたがそんな顔をする必要はないんですよ」

 響きは優しく、掌は一度、イルカの頬を滑っただけで遠のいた。
 その滑り落ちる温もりを追うように、自然とイルカの面が下がった。
 カカシのいう、そんな顔とはどんな顔なのか。きっと情けない顔に違いないのだけれど。人に良い様に見られたいと願うけれど、実のところは己可愛や一番の、全く自己本位な男。そんな人間だから、自分は。だから。

「―――…イルカ先生?」

 俯き、黙して表情の分からないイルカを不安に思ったのか、カカシが身を屈めてのぞきこんできた。伺うようにイルカの名を呼ぶ。
 声がイルカの面持ちを気遣うように聞こえるのは気のせいだろうか、気を悪くしないでと前置きする心遣いもみせるこの上忍が、イルカを心配して。

「カカシ先生…――」
「はい、あぁ良かった、泣いたかと…」

 ムカ。と瞬発的に言い返す。

「泣きません」
「良かった」
「――――――…さっきの人とはお知り合いだったんですか」
「さっき…? ああ、彼女」

 合点してカカシが頷いたのが、僅かに揺れた影でわかった。

「知り合いといっても、…そうですねぇ、例えるなら干し竿売りとその客というか、金魚釣りとその客というか」
「…意味がわかりません」
「うーん、…まぁ、そんな風な知り合いということです。実際、会話したのも数えるほどですよ。まさかそんな風に思ってくれたとは知らなかったんで、今日はびっくりしましたね」

 嘘付け、と咄嗟に思った。びっくりした、というがそんな風にはまったく見えなかった。ずっと飄々としていたではないか。それにしても、数えるほどしか会話をしていない異性から恋文をもらえてしまうカカシにも驚く。改めてカカシの名を意識した。

「それに焦っちゃったみたいで、貴方は嫌だっていってたのにすいませんでした」
「え…」
「でもあのまんま見てたら、帰ってたでしょう? 一人で」

 顔を上げてカカシを見た。

「それに、あの時、本当はあの人の傍に行ってあげたかったんじゃないですか?」
「それは…」
「貴方の手を引いたのは俺です。俺がただ、あの人を慰める貴方を見たくなかった、一緒に帰りたかったから、無理に引っ張ってきちゃいました。すいませんでした」

 あまつさえ、拘りなく頭を下げさえするから、慌ててしまった。

「でもあれは、そのっ、俺が勝手にそうしたいって思っただけで、結局はあの人にとって迷惑だったかもしれないですし…っ、俺の、…―――身勝手な同情に、カカシ先生がそんなにお気をつかわれることは…ありません…」

 最後のほうは、ゆるゆると、気が抜けたように告げた。ある意味、拒絶の言葉。カカシがいったいどんな理由でかイルカに気遣いを見せるのかは分からない。けれど、その気遣いを心地よいと感じる己がいる。
 だからこそ、今のうちに言っておくべきだと感じたのかもしれなかった。
 愛想をつかされる前に、その前に。

「だから…――――――」
「ほら、また」

 知らず俯いた面に、カカシの掌が触れた。
 柔らかな力で頤を取られた。

「そんな顔をして」
「……分かりません、俺には」

 自分で自分の顔は見れない。
 それがどういった表情をしているかなど、想像も出来ない。

「自分で自覚ないんですか? …困ったな」
「どうして貴方が困るんですか」
「どうしてって言われても…」
「……」

 じっとカカシを見れば、真実、困ったように頭をかいてみせるから、どうしてそんなに困るようなことがあるのかと、いっそう頑なに見つめる。そうすれば、ますますカカシが眉を下げて、困った素振りを見せて。
 きっと、カカシがいう顔とは、酷く情けない顔つきなのだろうと思う。人として忍びとして、見ていられないほどに見苦しいのだろう。自覚はしていたが、言い難げに言葉を選ぶカカシをみていれば、やはり胸は苦しく思えた。改めて、己の醜さをさらけ出されたようで。

「…いえ、もう結構です。ここまでありがとうございました。今日はこれで」

 絡み付く気鬱な思いを振り切るように、イルカはいった。それに、もしカカシから、思っている通りの返答がと思えば、それもなにか怖かった。聞きたくないという思いもあった。
 だから言ってすぐに背を向けた。そうすれば。

「他のやつにはそんな顔、見せないで下さい」

 意味をとりかねて、イルカは身体半分だけ見返った。
 カカシの姿は変わらず、街灯に半身をあらわしているだけで、すぐにはその表情も掴めはしない。
 けれどこのときのイルカには、その言葉は皮肉に感じられ、眉をしかめた。
 要は、あまりみっともない姿を曝すなということか、と。
 だから返す言葉に、やや険が混じった。

「分かりました。それと…今日はありがとうございました。……いろいろと」

 なにか、今日は随分とたくさんのことがあったような気がした。たかだか夕刻からの数時間のことだというのに、普段とは比較にならないくらいに、精神的に疲労している。それらはすべてカカシに関係していた。けれど反面、軽くしてもらった部分もあるように思える。だから「いろいろと」と力をこめた。
 その含みを承知してか否か、カカシは苦笑した。

「いいえ……―――どういたしまして」
「それでは失礼します」
「はい、さようなら」
「―――…おやすみなさい」

 噛合わない別れの挨拶で、今度こそイルカは背をみせ家路に向かう。
 後ろは一度も見なかった。
 見ないように意識した。ついうっかりすると見てしまいそうになるのが悔しい。
 溜息が漏れそうになって、俯き加減の面を上げて歩く。
 これで心底、カカシもあきれ果てただろうか。
 どうだろう。
 いらぬ愚痴を晒したイルカに幻滅しただろう。きっと、ナルトあたりから誇張された「先生像」を聞かされていただろうに、考えてみれば悪いことをしたかもしれない。こんなに情けない忍びを見たのは初めてだと、今ごろ思い返して笑っているだろうか。
 イルカにしてみても、こんな風に、心中を他人に漏らしたことなど初めてではあったが。

「…やめよ」

 考えるのを。
 声にだして、思考を打ち切ろうとした。
 鬱々と考え続けるのは、悪い癖だった。
 気づけば目の前に、我が家へと上るアパートの細い鉄階段。小さな自分の家とも部屋ともつかない自宅へ、重い足を引きずって階段を上った。
 もともと、あんな名の知れた上忍と、個人的な会話をしたことでさえ幸運といえるのだ。それを思えば。幻滅されたぐらい。
 割り切ろうと思いつつ、それでもなお重い心と足を引きずり、そして不思議に思う。
 どうしてこんなに、気鬱な…何もかもに失敗したような心地がするのだろうと。
 後悔、といって差し支えないほどに慙愧の念にとらわれているのだろうと。
 一つかぶりをふったが、やはり答えはでなかった。
 アパート通路の外灯が白くイルカを映していた。
 



2003.3.10