手紙





 さて今日も終ったと、帰り支度途中。  妙なことを頼まれた。

「イルカ、ごめん、これお願い!」

 よく見知っているアカデミー女性教員に、唐突に渡された一通の封書。
 思わず受け取ってしまってから、イルカはまじまじと、手元のそれを眺めた。
 薄っぺらいそれは、淡いピンクで、手に持つ感触から模様が透かし刷りされているのが分かった。一見して、アカデミーの業務書類でないのが分かる。

「これ…」
「今回のはイルカにじゃないのよ、最近、仲いいって聞いたから」

 イルカに口を挟ませる隙もなく、女は一気に言った。
 はたけカカシ、と。
 曰く、以前から友人がカカシに恋心を抱いていたが、接点もなく初対面で渡す勇気もなく悩んでいたそう。カカシの友人をあてにしようにも、これも頼み難い面々ばかり。悩んでいたところへ、ひょっこり出てきたのがイルカ、というわけだった。

「って言ってもなぁ…、そんな、仲いいとか言うような…」
「そんなこと言わないで!」

 パン!とイルカの目の前で、女の両手が拍手を打つ。
 でもなぁ、とイルカの面が渋くなった。

「こういうのはさ、いくら渡し難いっつっても本人同士の問題だろ? 勇気出せっていってやれよ」
「言ったわよー、言ったけどやっぱダメだって言うの。近くに居るだけで息が出来ないっていうんだもの」
「なんだよそれ、それじゃもしカカシ先生が付き合うって言ったらどうするつもりなんだ?」

 傍に居るだけで呼吸困難になるなら、キスもできないだろう。
 呆れた風に言えば、女も肩をひょいと竦めた。

「まさか! 百にひとつの可能性もないから、想いだけ伝えたいって本人がいうのよ」

 イルカはますます呆れて、天井を仰いだ。  アカデミー教員控え室の天井は、長年の煤で薄汚れていた。

「それじゃますます…」

 自分が渡すわけにはいかないだろう、と言おうとすれば「じゃあお願いね!」とくるりとターンした背中が言い残した。

「え、おい!?」

 お願いねー!と一瞬で扉向こうまで消えてしまった背中は、そういい残して、足音だけが遠のいていった。
 溜息がでた。
 手にした封書が、カサリと音を立てる。
 信じらんねぇ、と心の中で毒づいてピンク色のそれを、ぼんやりと見直した。
 浮ついたイラストプリントもなく、圧刷の透かし模様が入った、控えめなそれ。
 色も落ち着いた淡色で、ただ見ているだけでも書いた当人の想いが推し量れそうな。

 冗談じゃねぇ、と思う。
 前にも、こうやって手紙を押し付けられたことがあった。そのときのあて先は、驚いたことに自分だったが、どうにも困ったことを覚えている。その軽さと重みに。
 もらった手紙はただ一枚の短いものだったが、いま目にしているような、手の込んだ便箋に封書で、丁寧に書かれていた。どんな気持ちでこれを書いたのかと思えば、実際よりもひどく、持つ手に重さを感じたものだった。だから、きっと、この手紙も同じ。
 軽くは無い。
 その込められた想いのために。
 そんなものを預けられるなんて、まったく冗談じゃなかった。

 それに、カカシとどこが仲がいいって?
 知らず口端がひん曲がりそうだ。
 自慢ではないが、最後に会ったのは、地上と三階の縦方向が最後だ。数日前とはいえ、喋ったのも二言三言で、すぐにカカシは去っていった。
 本当に自慢ではないが、仲がいいとは口が裂けてもいえない冗談だろう。
 好きか嫌いかと聞かれても微妙な線だ。

「まったく、なんで……」

 もう一度、溜息を大きくついて、イルカは自机の椅子に、どっかりと腰をおろした。安物の椅子が、音をたてて軋む。
 どうしようか、と手元に残されたピンクの封書を見つめていれば。

 不意に。


「あぁ面倒くせぇ、やってらんないよなぁ」

 窓しかないはずの背後から、聞き知った声がした。

「…!?」

 椅子を回して、窓を振り返れば、いつのまにか窓枠にカカシが腰を下ろして。

「とか思ってました? 当たり?」
「―――…っ、カカシ先生、いつから…っ」

 イルカセンセイ電波受信〜、などと尚も言い継ぐカカシに、イルカは返事をする余裕もない。さきほどまでの話題の主であれば、それも当然。手元の手紙を隠すことも忘れて、窓枠にゆったりと腰掛けているカカシを凝視した。まるで、最初から居ました、とでもいうような態度だが…。

「いつから、と言われても」

 白々と小首を傾げてみせるカカシに、イルカは言い方を変える。

「それでは、どこから聞いていらっしゃったんですか」

 眦をやや吊り上げての言に、カカシの片目が僅か、笑みに細まった。
 さあ、とまた白々と言って、

「どこからだと思います?」

 今度こそはっきり笑った。面白がっているようなその視線が、イルカの手元に注がれていて。
 ハッと気づいて隠すが、既に遅く。
 眦がいっそう吊り上げてカカシを睨んでみても、当人はどこ吹く風か、楽しそうだ。
 イルカの被害妄想だろうか。

「趣味が悪いですよ、盗み聞きとは」
「盗み聞きなんてしてないですよ、あなたが俺に気づかなかっただけです」

 忍びが忍びに、気配に気づかないと言う位、嫌味なものはないだろう。
 ムカ、と青筋が立ちそうな顔面を押さえつつ、イルカはまだ手にしたままだった手紙を、帰り支度の手荷物のなかにはさみこんだ。
 なんだってこんな人を好きだというのかは分からないが、ともかく、この手紙は自分からカカシには渡せない。
 想いを伝えるだけでも良い、というのなら、理由はどうあれやはり当人が渡すべきだと思うからだ。想い人が、カカシであろうが、どうだろうが。人の想いは、軽々しく人が代弁できるものではない、から。
 イルカからすれば、どうやったらこんな嫌味な人間に恋焦がれることができるのか不思議で仕方がないが。そこはそれ。人の好みも十人十色というし。
 だが、その想われ人が不思議そうに言ってきた。

「あれ、しまっちゃうんですか?」
「……――――――、ええ、しまいます」
「くれないんですか」

 その言葉に、またムカ、ときた。
 やはり聞いていたのだ、肝心のところを。
 このタチの悪い上忍は。

「ええ、あげません」
「どうして」
「どうしても」
「いいじゃないですか」
「駄目です」
「ふぅん」

 頑ななイルカに、カカシが不可思議だといいたげに首を傾げる。


「押し付けられたのに?」


 ふ、とカカシを見ると、真直ぐにイルカをみている視線とかちあった。
 からかっているわけでもなく、ただ不思議そうに見ている。
 つくづく、訳がわからないと思う。
 本当に分からない。
 カカシという男が。
 どうしてこんな、時折に、まるでイルカを本当に気遣っているようなことをいうのだろう。口先だけで大丈夫かというのではない、イルカの心の動きまでを先読みするような、思慮深い、思いやり深いことをいうのだろう。

「…別に、押し付けられたというわけでは」
「でも溜息ついてたじゃない」
「それは…」

 確かに、溜息はでた。一人だと思っていたから、つい心情のままに、鬱とした気持ちが出てしまった。それは認めよう。
 だが、だからといって、人の想いの綴られた手紙を疎かにしていいというわけでは、決してない。喜び勇んで預かったものでないにしろ、ただ渡してはい御終いというわけにもいかないだろう。子供の使いではないのだから。

「でもやっぱり、これは本人に返します。カカシ先生もご本人からもらって下さい」
「どうしてそんな面倒くさい」

 呆れた声。
 当の本人にいわれなくても、イルカとしても面倒くさいことこの上ないと思っている。
 本心をいうなら。
 が、渡せないだろう。
 人の想いは。
 他人から。

「どうでも。…カカシ先生がどうお返事されるかは興味ありませんし」

 意訳すれば、恋する誰かがカカシに勇気をだして酸欠になろうが、ふられて自殺しようがイルカには関係がない、ということだ。むしろ関係がないことを希望する。
 冷たいようだが、べつに矛盾しない。
 さっきまで考えていたことと。
 人の想いを代弁できるほど自分は強くもないし便利でもないし、また、見知らぬ他人の心中を気の毒がれるほど人間的に余裕があるわけでもない、ということ。
 自分は、自分の身の回りのことで手一杯だ。

「あらら、冷たいね」
「どうでも」

 そっけなく返して、でも、と付け加える。

「どんな結果にしろ、ご本人にとっていい結果になるといいと思いますよ」

 挟み込んだ隙間から、ちらりとみえるピンク色が、色味のない己の持ち物のなかで、やけに綺麗に映った。
 イルカのその言葉にどう思ったのか、カカシは何も言わず、窓枠から腰をあげた。

「さて」

 話は終わりというように腰をあげたカカシにつられたわけではないが、イルカも無言で椅子を引いて立ち上がった。手荷物を、小脇に挟む。
 ちら、とカカシを見やると、また、視線があった。
 柔らかく笑っていた。
 予想などしていなかったその笑みに、なぜか心音が跳ねた。

「じゃあ行きますか」
「?…え、ぇと、…カカシ先生? …どこに…」

 跳ねた心音と、その言葉。
 そのどちらに不思議を抱けばいいのか、僅かに迷った分だけ、答えが遅れた。
 だがそんなイルカをよそに、カカシは至って当然のように、あっさりと言った。

「そのご本人のところにですよ、行かないんですか?」
「…いえ、俺はそりゃ行きますけど、…その、カカシ先生も行かれるんですか?」
「ええ、もちろん」
「でも…」
「その方が早いでしょう?」

 言ってさっさと先を行き始めたカカシを、結局、イルカは溜息ひとつで追いかけた。





「…修羅場は、嫌ですよ」

 差出人への担当部署へ向かう、僅かの距離。
 並んで歩く廊下で、イルカはカカシに言った。

「へぇ」
「俺は返すまでで失礼します」
「嫌いですか、修羅場」
「…あんまり好きという人に心当たりはありませんね」

 いかにも遠まわしな返答に、可笑しそうにカカシが喉をならした。
 イルカは憮然となる。
 馬鹿にされている気分になるのは、自分の僻みからくるものではないだろう。
 明らかにカカシは、イルカのある種捻くれた物言いを面白がっている。
 腹立ったついでに、もう一言付け加えた。

「カカシ先生のように慣れていらっしゃれば別でしょうけど」
「嘘」
「なにがですか」
「イルカ先生も慣れてるでしょう」
「慣れてませんよ」

 少し驚いて、それから呆れた。
 自分には、そんな情熱的な色艶事は縁遠い。友だちのような関係から、少し会う時間が多くなっただけで、まるで男友達のようだと言われたこともあるし、別れるときも、嫌だといって泣かれたことなどなかった。
 だが、カカシがイルカを見て。

「それ、本当?」

 廊下は薄暗くて、カカシの目の表情は分からない。
 声は穏やかだが。
 ひやりと、僅か不穏なものを感じた。
 けれどそれを顔に出すのも癪で、イルカは憮然と言い返す。

「本当ですよ、そんな物好きな女性はいませんし」
「はは」

 何故か、本当に可笑しそうに声を立てて、カカシは笑った。
 ちょっと笑うところが違うんじゃないのか、とほんの少し思ったが、とりあえずイルカが黙っていれば、笑った声でカカシが言った。

「あなたを想った女たちが可哀相ですね、本当に」
「…どういう意味ですか」
「修羅場にも、させてもらえないから」

 目指す目的の場所まで、あとひとつ向こう角を曲がれば、直ぐ。今ごろ帰り支度をしているだろう、少し急がなければ。
 そう分かっているのに、イルカの足が止まった。
 カカシを見れば、相手もゆっくりと立ち止まった。

「どういう意味ですか」
「そのまんまですよ」
「分かりませんが」

 一体何をいいたいのかと、イルカの顔が僅か険しくなった。
 だがカカシはというとのんびりイルカを見返し。

「だって、来る者拒まず去る者追わず、でしょう」
「……」

 ずけずけと言うカカシに、イルカは唇を引き詰めた。
 腹が立つ。
 今の気分は、その言葉がぴったりだ。
 イライラするのでもなく、心頭に達するのでもなく、ムカ、とくる心地。
 子供の喧嘩と同じ。
 あらぬ相手に――――――図星を指されたから。


「違いますか?」

 そうして尚も確証を求めようとする、目の前の男に、イルカは視線だけを、真直に向けた。
 腹の内で、言い返したい思いが沸々と湧きあがってきた。だが、こんなときに、先日心がけようと決めたことを思い出してしまう。カカシに少しは愛想よくしよう、というあれだ。
 でも、相手が悪い。
 仕方ないのだと、その考えを一蹴した。
 けれど、ここで言い返すのも実際、躊躇うところはある。相手は上忍。だが失礼な男だ。

 来る者拒まず、は本当。
 去る者追わず、も本当。

 交際を申し込まれれば、付き合っている恋人がいなければ受けた。居ても居なくても、大してイルカには違いが分からなかったし、多少は楽しかったから。見知らぬ人間と、新たに知り合ったり、わかりあうのは楽しい。それに、二人でいるときは多少、ほんとうに少し、独りの寂しさが和らいだ。束の間ではあったが。
 別れを持ち出されれば、だが未練もなく承諾した。多少は寂しいと思うが、相手は生きているのだし、もう会えないわけでもなく、「恋人」という記号は、ただ夜を共に過ごすかどうかの境界線でしかないと思っていたから。いるから。性欲を処理するなら、特定の相手でなくても不自由はなく、だから心良く「友だち」に戻ることができた。これからもいいお付き合いをしましょうね、というわけだ。独りに戻る寂しさも、すぐに慣れた。

 今までそうやって生きてきた。大した恋愛譚もなく、まるで足し算引き算の、味も素っ気もない恋愛歴だと、自分で重々承知している。だがそれで上手くやってきた。修羅場も経験したことがない。それが、何が悪いのか。
 極々一般的な、平凡な独身男じゃないか。

「あれ、怒りました?」

 のほほんと、訊いてくるカカシに、イルカはいっそう口を噤んだ。

「誰かを好きになったこと、あるんですか?」

 あるさ、とイルカは心で反覆した。
 イルカにしても嫌いな相手と付き合いたいとは思わない。好きだから、付き合ってきた。たとえそれが相手から言ってくれたことであっても、イルカも相手が好きだから、その申し出を受けてきた。好きでなかったことは一度もない。

 それを言うなら、カカシの方はどうなのか。
 カカシこそ「誰かを好きに」なったことはあるのか。
 この一見、人当たりの良さそうでその実まったくタチが悪く、心の先が読めない男に、誰かを好きなる、などという殊勝な経験はあるのだろうか。
 想像ができない。
 カカシが、誰かのために心を暖かくしたり、誰かのために心配で眉を顰めたり、慌てたり。いかにも上忍、といった風のカカシには、そんな想像は及びそうにない。実際、そんなカカシを見ることができたなら、可笑しくて、ほっとしつつも笑ってしまうだろう。

「だんまり、だし」

 怒ってるんですか?
 そう、カカシが再び訊いてきた。
 イルカは口を噤んだまま、それには答えない。口を開けば、きっとカカシを不快にさせるようなことを言ってしまう確信があって。だから、じっとカカシを見る。

 カカシのこの言い様は、一体なんなのだろう、と思う。
 面布を外せば整っているといわれる面と同じように、美声で。
 静かに理性的に、話す言葉は要点をついている。
 きっと他の場面であったり、ただ仕事上で共に情報をやりとりするのなら、彼以上に快い忍びはいないだろうと思う。きっと信頼できる上司として、尊敬できる。
 けれど今の状況はいったいなんなのだろう。
 カカシから、なぜか棘を感じるような言葉をいわれて。
 自分でも気づきたくない図星を、さされて。
 ムカ、と子供みたいに腹を立てて、それでも言い返せなくて。

 なにが一番、困惑するかといって、そうやってイルカの痛い腹をついてくるカカシが、けしてイルカに害意をもってしているわけではないと、なによりイルカ自身が確信できることだ。
 ときおり見せる笑顔や、仕草、視線のふとした柔らかさが、それを確信させる。きっと嫌われているわけではない。きっと、イルカを傷つけようとしているわけではないのだろう。

 たった今もそう、目の前でカカシは「怒ってるんですか」と、あくまで尋ねてくる。
 イルカが怒っているのかどうか、カカシにはわからないから。
 俺の様子みて分かんねぇのかよと毒づきたくなるが、どうして。
 どうしてカカシを嫌いになれないのだろう。
 こんなに。
 こんなに。

「イルカせん…」

 黙りこくったままのイルカに、カカシがやや困ったように声をかけようとすれば、それに女の声が重なった。


「イルカ先生?」

 二人して声にひかれてその方向を見れば、吃驚したのか、目を丸くした長髪の女が立っていた。背は高め、身体は細めで肩幅は小さい、卵形の顔に癖の無い頭髪が長く柔らかい曲線を、腰まで作っていた。一目見て、どうしてこんな可愛い女性が、カカシにと思うような、風情で。

「あ、あの…」

 見つめている二人のうち、片方が、見間違えるはずもない想い人だと気づいたのか、女の顔色が、瞬く間に紅く染まっていく。
 なるほど、息が出来なくなるというのは本当だったのか。
 奇妙に納得しながら、イルカは閉じていた口を開いた。

「―――もう仕事は終わったんですか?」

 こくこく、と細い髪が、頷くたびにふわりと揺れた。
 その様子が、いかにも焦った風で、声もでないほどに緊張しているのが分かった。
 手に持った荷物を胸の前でしっかりと抱きしめて、女は一歩も動かない。いや、動けないのだろう。まさに呼吸困難寸前、といった顔色で女が立ち尽くしているから、イルカが一歩動いた。

「これを―――」

 見る限り、視界の範囲に人影も気配もない。いるのは自分たち三人のみ。
 それならば、手紙を渡すだけであるならこの場でいいだろう、そうイルカは判断した。あとは二人で話すことだ。
 あくまで他人ごとと、頑なな己の心根にも嫌気がさすが、修羅場に立ち会うことのほうがもっと嫌だった。女が泣くのをみるのも嫌だし、怒鳴りあいが始まるのも、まったく御免こうむりたい。

 ―――あれ、どうして俺、カカシ先生が断るって決めつけてんだろ。

 不意に気づいた。
 そういえばさっきまでの会話も、すべてカカシが女の告白を断るという前提で話していた。
 変だよな、と思いながら、イルカは手元から預かっていたものを取り出した。
 女の目がそれを認めて、はっと息を呑む。次いでイルカの顔を見、カカシを見た。
 だがカカシは特になにも口にせず、ただ女を見ている。

「まだ―――渡してないから、―――」

 返す。
 言い終わらないうち、横から腕が伸びてきた。
 カカシの腕。
 それはイルカの手から、淡いピンクのそれを取り上げ、とっさのことで驚いている二人の前で、封を切った。
 かさりと音が聞こえた。
 中にはイルカの想像したとおりに一枚の紙片。同じ淡い色で。
 カカシは取り出したそれに、静かに目を落とす。嬉しげにするでもなく、笑うでもなく、ただ静かに読み、さほどの間もなく目を上げた。手元の紙片は、入られていたように二つ折りに戻して、封筒に同じように戻す。
 口も挟めず、イルカが女を見れば、同じ心地なのか、ただじっとカカシを見ていた。息を詰め、真剣な表情でカカシを見つめている。
 廊下向こう、ざわめきはまだ遠い。

「―――――どうも」

 カカシの声音が、静かに響いた。思うよりも柔らかい。言葉は続く。

「…どうも、こういうことは苦手なんですが」

 言って、カカシは苦笑に似た笑みを浮かべた。
 かさりとまた、乾いた音がした。もしかすればそれは、イルカにしか聞こえなかったのかもしれなかったが。

「けど、貴女のことは覚えてます。ありがとう」
「………、その……っ」

 ありがとう、と言ったカカシに、小さく女の声。だがそれも、にこりと笑んだカカシを見た途端に、熟れた林檎よりも赤く黙り込んだ。
 一方で、見知っていたのかと、イルカは心中で驚いていた。封書の後ろ書きから、名前を辿り来たのだが、イルカは初めて見聞きする名だった。カカシも特に何も言わなかった。それは、単に宛名を言わなかったためもあっただろうが、カカシ自身も初めて見聞きする名だからだと思っていた。違ったのか。
 ムカ、とまた、子供のように苛立った。なにやら、今度は腹の底が重い。
 変だな、俺。


「手紙は読ました、でも貴女と付き合えないので、これはお返しします」

 柔らかな声。美声。
 イルカが自身で評したその声が、酷く柔らかく響いた。
 一瞬、あまりのその自然さにカカシの言ったことが分からなかったが、数拍遅れて、理解した。やはり断るのだ。
 修羅場は嫌いだといったのに。
 だがそれよりも前に、カカシが動いた。
 イルカと同じ、カカシの言葉をすぐには飲み込めなかった女に近づき、その握り締められた掌を取る。丁寧な動作で、固まったような指を開かせ、その淡い色を置く。

「勇気が要ったでしょうね、ありがとうございました」

 イルカの立っていた場所からは、カカシの表情は見えなかった。
 だが女が、静かに泣き崩れて座り込むのを見た。
 そのままカカシが、女をどうするのかと見ていれば、ただ何もせず、カカシは踵を返した。廊下に座り込んだ女を放って。
 え、と心の中で、イルカは戸惑う。
 放っておくのかと。
 イルカの方へと戻ってくるカカシの面は、平素通りで何の感情の揺らぎも見られず、それが一層、女への戸惑いを強くさせた。放っておいていいのか。
 その思いが顔にでたのだろう、イルカの傍へと戻ったカカシが、イルカだけに聞こえる声音で囁いた。

「優しくしてどうしようっていうんです、さ、帰りますよ」

 腹、減りました。

 あまつさえイルカの二の腕を引いて、カカシは帰路を促した。
 至近でカカシの目を見れば、その中に感情はない。
 嫌だといったのに。
 人の感情が無為にされる場面は、嫌だといったのに。
 イルカの眸が、カカシと女の項垂れる姿を見遣って、揺れる。
 小さく、カカシが苦笑した。

「あなたが嫌いだといった理由が分かった気がします」

 けどね。



「そんな誰も彼もに優しくなって、どうするんです」





2003.3.6