てのひらのきおく
イルカが帰ってきた音で、カカシは眼を覚ました。
わかりやすい足音が近づいてくる。
視界にはいる壁の透間の光から、そんなに寝入っていなかったことがわかった。
おっくうながら起き上がろうとしたとき、ちょうど立て付けの悪い引き戸が開いた。
「カカシさん、ただいま―――、どうしたんですかっ? どこか痛むんですか、それとも熱が…ッ」
カカシが起き上がるより先の慌てた言葉。
バタバタと駆け寄ってきて、手がカカシの額にあてられた。
「え、いや、ただ昼寝を―――」
「良かった、熱はないみたいですね…、え、あれ?」
至近距離で合った視線。
びっくりした顔のイルカ。
カカシは、少し照れくさくて誤魔化すように笑って言った。
「―――…おかえりなさい」
「眼が、開いてる! よかった! 良かったですねえ!」
手放しで喜んで笑顔をみせるイルカを、まじまじと見る。
黒い長髪で、後頭部の高いところで一つ括りにしている。眼の色も黒色で、芯の強く、誠実そうな顔立ちだ。そして、笑った顔には、カカシもつられて微笑むほど愛嬌があった。
「なんだ、マズくないじゃないですか」
思わず、微笑みながら零してしまった独り言に、イルカが
「え? 何がですか?」
と反応したから、慌てて「いえいえ」と答えた。
額に当てられた掌の記憶も、暗闇で感じたものと同じだった。
そのことに、カカシは心底安堵した。
「少し前なんですよ、眼のあたりが痒くて掻いてみたら、開いたんです。瞼が血で引っ付いてたみたいで」
「そうですか、視界や視力はどうですか?」
「まあ右目だけなんですけど、今のところ異常ありませんよ」
「え?」
ずいっとイルカの顔がアップで迫って、カカシは起き上がろうとしたところを、少しのけぞった。
「ちょっと、見せてください」
膝立ちになったイルカがカカシを覗き込んでくる。
「左目も血が糊みたいになってますね」
「あー…」
カカシもそうだろうとは思うが、あえて放っているのだ。
帰らない理由のために。
だがそんなことはイルカには関係がない。
「すいません、ちょっと失礼します」
「? ……、!」
瞼を覆った熱と、肌を這う湿った感触。
それがなにか考え至るのに数秒をかけて、舌だと分かってもカカシは動けなかった。
ねろりと瞼の上を探って、閉じた眼の透間を舌の先でつついていく。
「え、ちょ、イルカ先生っ?」
「…じっと…してて下さい」
まるで猫が毛づくろいする熱心さで、カカシの頭部をわしづかみにして、舐めている。唾液と唇と舌で暖められた肌が、熱くなってきて溶けるかとおもうほどだった。
熱に浮かされるように感じるころになって、ぷち、と聞こえない音がして、左目が開いた。濡れた感触に包まれた左目から見えた世界は、ただ濡れて熱かった。
目的を遂げて、離れていくイルカの唇と舌が間近にみえた。
開いた両目を、真っ直ぐなイルカの黒目が覗き込んだ。
うわぁ、と歓声。
「カカシさんの左目、色が違うんですね。凄く綺麗です!」
満面の笑顔に、茹だったカカシの我慢の糸が、ぷつんと音を立てて切れた。
2007