てのひらのきおく
昼ごろ、壁伝いに歩きながら、ふと右目が痒く、指先で触った。
ふ、と視界が色に溢れた。
くすんだ渋色に、壁の透間から差し込む日の光。
天井やそこらからぶら下がっている薬草の束のざわめかしい形や、桶や鍋の置かれたかまどのあたりの細々とした生活の様子。
カカシの歩数にして、横幅五歩ほどの広さだと分かっていたが、目でじっさいに見る部屋は目算より狭かった。屋根も低く、カカシが立って、手を伸ばせば梁に届きそうだった。イルカがボロ屋だといっていたが、悪いけれど本当にそうだな、と思ってしまった。
イルカはいま居ない。
昼前に、昨晩カカシが挽いた薬草の粉や、いろいろなものを合わせて、煎じ薬を作って出かけている。室内に薬湯の匂いが漂って、息苦しいほどだった。
イルカが出かけていった後、すぐに忍犬が帰ってきた。イルカが出かけるのを待っていたようなタイミングで、カカシの膝のうえに新しい忍び服をぽふんと置いた。
忍犬は、新しい命令書も持っていて、読み上げてもらうと、安全のために一度帰還せよ、とあっさりしたものだった。無駄だろうと問い合わせた、この付近の任務請負状況の返事はなかった。まあ守秘義務があるから当然か。
カカシとしても帰るだけなら目さえ開けば異存はない。
だが、が、心にかかるのはやはり世話になったイルカのことで、つらつらと考えながら足を動かしていると、ふいに視界が戻ったのだ。
間が良いのか、悪いのか。
まだ少しむず痒い右目をこすると、目脂のように血の欠片がぽろぽろと掌にこぼれた。糊のようになっていたのだろう。
視界は右目だけの範囲だが正常で、安心した。
左目はまだ開かないが、カカシは触って確かめることはしなかった。
代わりに、手早く着替えてしまい、額宛はつけずにいつもの格好に戻ってから、室内を横切って土間へ降りた。
冷たい土が足の裏につく。かまわずに、火の落ちたかまどの上にある窓へと顔をよせた。紙も張っていない小さな格子の窓の枠には、小鳥が啄ばむような粒が散っている。
鼻をよせ臭いを嗅ぐ。
木の葉の里でときおり鼻につく臭いだった。
また、任務中でも嗅ぐときがある。
木の葉で使う連絡用の鳥のための、餌の匂いだった。
鳥はこの餌以外には寄らず食べず、近づかないように訓練されている。ゆえに、特別な調合で、木の葉の関係者でなければ手に入らないようになっているはずだ。
カカシはあたりを見回し、ほかに何か木の葉の手がかりはないのかと探った。
だがめぼしいものは見当たらず、特定できるようなトラップも一つとしてなかった。本当に忍びか、と自分の判断を疑いたくなる無用心さだが、あの窓の餌屑だけは、やはりイルカを忍びだと証明している。
さてどうしたものか、と土間から床の間へ上がる段差に腰を下ろした。
イルカが他里の忍びなら最悪、殺しあうこともある。木の葉の忍びである可能性も高いが、盗んだという可能性も捨てきれない。イルカが自分から木の葉の忍びだと言って額宛でも見せてくれればいいのに、とさえ思う。
そうすればカカシも、信じたいという自分に無条件で降伏して、イルカのことを信じるのに。
考えながら、脱ぎ散らかしていたイルカからの借り物の着物をたたむ。よくたたみ方がわからなかったが、なんとか四角くなってホッとする。
イルカの着物の色は地味で、でも好ましいと思った。
当座のところ、敵対はしていないのだからこのまま、イルカが帰ってこないうちに消えるというのが最良かと思われるが、カカシは腰を上げたくない。
「イルカ先生、まだ帰ってこないのかなー…」
むしろ会いたいぐらい。
帰らなければと右目だけの視界は主張するのに、閉じた真っ黒の左目は、まだ居たいと強請っている。
上半身を床に倒して、寝転がった。
冷えた床は震えがくるほどだが、頭の先のほうにあるいろりの熱がカカシの頭のてっぺんあたりを温める。
眼がとろりと霞む。
回復した体力も、普段の五分の一ほど。
帰るだけなら問題はないけれど、カカシは昼寝することにした。あれこれ悩んで、疲れてしまった。
「どうしよう、かなー…」
呟いて右目を閉じる。
ふと、見えないときに得たものは、見えるようになれば消え去ってしまうのだろうか、と不安がよぎり、カカシは寝返りをうった。
あの掌の熱も、冷えてしまうのだろうか。
掴めない不安を抱いて、カカシは浅い眠りに落ちていった。
イルカを待つために。
2007