てのひらのきおく
翌朝、イルカに手を引かれて、室内の土間のようなところまで行き、冷たい水で顔を洗った。
そういえば昨日は濡れた布で顔をぬぐっただけだったから、切られるように冷たくとも、気持ちがよかった。
水のしずくを拭いながら、瞼に触ってみた。柔らかい皮膚の下に弾力を感じて、安堵と憂鬱が混ざった気分になる。
触った感触もあるし、眼球も動かせるので、機能的には問題はないとおもうのだが。
早く機嫌を直して使えるようになってくれよ、と思うが、いつもどおり使えるようになったのなら、イルカの手を煩わせる理由もなくなる。
こうして、部屋の隅にいくだけで手を引いてもらえることもなくなるのだ。
「カカシさん? 目が痛みますか?」
指先を目にあてたまま考え込んだカカシに、イルカが心配そうに声をかける。
「―――いえ、痛むわけじゃないんです。ただちゃんと目があるのを確かめてただけで」
「ああ…―――、大丈夫ですよ、きっと見えるようになります。大きな傷はありませんでしたし、痛みがないなら、きっと」
「ええ、本当に、ありがとうございます」
「礼なんて」
大したことをしていません、と言うイルカを諭したい気持ちになった。こうして手を引いて、冬の水で冷えた手を温めてくれるだけでも、充分です、と。
できるなら抱きしめたいぐらいだ。
「イルカ先生が好きだな」
ぽろりと告白が転がり出た。
カカシ自身も驚くほど好意の塊のような、純粋な気持ちの吐露で、子どもの告白みたいだった。
イルカも、すこし驚いたのか間が空いたが、すぐにアハハと笑って、
「ありがとうございます」
と言った。それから、
「カカシさんぐらい綺麗な人にいわれると、ちょっと嬉しいですね」
などと付け足した。カカシにしか分からない程度だけ、掌の温度が上がった。
「俺、綺麗ですか」
「綺麗ですよ。もしかして言われたことないんですか」
「ありませんね。そんなこと」
ウソだ。
実際は、ハァハァと息遣いも荒く圧し掛かられながら言われたことはある。が、話の通じるものは断ったし、話の通じないものは半殺しにしてやったから、心情的にはカウントゼロだ。
「信じられません。そんな…顔なのに」
「はは、そうですか?」
とぼけて見せたが、この顔は任務上でも役にたつこともあったし、便利な顔ではあるとおもう。今も、イルカが微妙に言いにくそうにしているということは、やっぱり役に立っているのだろう。
足の裏が土の感触から、石の冷たい感触、それから木の乾燥した感触に変わって、イルカが座るようにと動作で示してくれた。壁に手をつきながら、ゆっくりと座る。
離れていく手が惜しかった。
そのまま熱が離れていかないようにと、話題を続けた。
「ねえ、イルカ先生は?」
「俺ですか? まあ…普通ですよ」
「それじゃ分からないですよ。俺見えないんですから」
「んー…」
普通の顔、を表現しかねているイルカへと、カカシは両手を伸べた。その動作に、イルカの体が近寄ってきて、カカシは掌を用心しつつ、イルカの顔に添わせた。
よくイルカの顔を知りたいと指先を滑らせる。
「そんな良くないです。カカシさんと比べたら、もう、ほんとマズいぐらいです」
しばらく熱心に触っていると、いいわけのようにイルカがいった。
「そう? んー、目がふたつと鼻と口があるぐらいしか分かりませんね」
「そりゃありますよ」
イルカの唇の端があがって、顔が綻んだことが分かる。
指先が、顔の中心あたりのわずかな盛り上がりに触った。
なぞっていくと、もりあがりは顔を横に走っているようだ。
「イルカ先生、もしかしてこれ」
「ああ、傷です。子どものころにやっちゃいまして。だからカカシさんみたいに人に見せれるもんじゃないです」
「俺も目の上に傷、ありますよ。酷いもんです」
「カカシさんのは…カッコいいですよ」
「イルカ先生、矛盾してる」
ゆっくりと、カカシは傷だという皮膚の盛り上がりをなぞってみた。目が見えなければ、傷はただの指先の突起にしかすぎなかった。
「してません、俺のはみっともないですが、カカシさんのは忍びの方として誇らしいものじゃないですか」
「そんな、いいものじゃないですよ」
してみれば、目が見えないということも、悪いことばかりではなく、イルカの暖かさを感じるうえで必要で、イルカに触れ、イルカを知るために必要だったのだろうか。
「イルカ先生のと、なにも変わりませんよ」
言いながら、失うことで得るものがあるのだと、言い古された教訓が頭を掠めた。
2007