てのひらのきおく




 それから一晩、眠ったらしい。
 目が覚めてから、カカシがまず言ったのが、便所に行きたいということと、自分にかけられている衣服を、イルカの衣服へと交換してほしいということだった。
 便所のほうは容易く、とはいいがたく目のために不便なことも多々あったが、なんとか叶えられた。
 だが、衣服のほうは、イルカが渋った。
 理由はくたびれているからということらしいが、いまだ目の開かないカカシには関係がないし、それよりも目が使えない分、敏感になった鼻が訴えてくる臭いが我慢できなかった。
 衣服を与えられて贅沢だろうが、どうせ数日もしないうちに自分はでていく。その間だけでもと頼み込んだ。
 しまいにイルカは頷いて、一枚しかないという代えの着物をだしてきて着せてくれたが、礼を言うと、もともとカカシの着ていた服を治療のために裂いたのは自分だから、とイルカは返答にならないようなことを言った。
 イルカの出してきたという仕舞われていた着物は、イルカの匂いがしていたが、不快に感じることはなく、カカシはイルカに立たせてもらいながら、嬉しくなった。

「イルカ、先生」
「先生はよしてください。忍びの方にそういわれると恐縮してしまいます」
「あんたは俺の命を助けました。だから、先生。俺の命の恩人」
「よしてくださいって」

 ふざけるそぶりで、着付けてくれるイルカを抱きしめると、イルカが痩せていながらも筋肉のついている体だと分かる。
 ああ、やっぱりな、と嘆息する。
 イルカも忍びだ。
 どこの里かはわからないが、身のこなしが静かすぎると思った。普通のものなら、意図せずに動けばあのカエデのようにうるさく動作音がつきまとうものだ。
 イルカの足音はうるさくはないが、わざと音をたてている感じがして不自然で、よけいにカカシに確信を抱かせた。

「カカシさん、帯むすびますから腕、上げてください。そう、そのまま少し、上げていてください」
「すいませんねえ、本当に」
「いえ、寝てばかりいては足腰が萎えますからね」

 けれど、こうしてカカシの懐に安易に入ってきて、帯を結んでくれるイルカは、忍びには見えない。
 装っている風でもなく、油断しているようでもない。
 同里の可能性もないではないが、それでは一晩たった今も黙っているのも分からない。
 不器用に帯を結んでいるイルカの肩口に頭をのせて、しばらく考えてみたが、やはりイルカにすれば今のカカシの命をとるなど簡単なことで、今まででくびり殺されていないということは、これからもそうである可能性が高いということだ。

「はい、カカシさん、とりあえず結べました」
「ありがとうございます。じゃあ、しばらく歩いて足を慣らしてますんで、イルカ先生はイルカ先生の仕事なさっててください」
「大丈夫ですか? まだ、目が見えていないんでしょう?」
「ゆっくり手探りでいきますから大丈夫ですよ。いろりがあるのも知ってますから」

 イルカの手が、カカシを気遣って触れている。その部分が暖かく、カカシは微笑んだ。

「…しかし、やっぱり」
「何かあったら大声だして呼びます。助けにきてくれます?」
「……はい」

 仕方ない、というようなため息もついて、イルカはようやく外へと出て行った。
 衣服の問答のまえに、ベストや荷物を返してもらっていた。その中の兵糧丸を摂ったので、しばらくは腹は減るものの飢えることはないが、イルカは違う。
 目的はわからないが、ここで暮らしているのだろう。
 でなければ、この冬のさなかに土いじりをしている道理が無い。
 ときおり、土のなかから掘り出したらしい石ころが投げられて落ちるカツンという音がする。
 外に雪は積もっていないらしい。
 畝をつくっているのだろうか。
 ゆっくり、ゆっくりと隙間風の通る壁を支えに歩きながら、イルカの動作も脳裏で追う。
 壁からかけられている、乾燥した薬草の束が、ときおり手にあたってカサコソと葉をならす。

『あなたの居場所くらい、あります。』

 どんな意味でイルカは言ったのだろうと考える。
 単純に寝る場所があるという意味か。
 または、最初から言っていたように忍びであることは分かっていて、その上で怪我人は大人しくしていろという意味か。
 怪我をして行き倒れた忍び装束の人間など、放っておけばいいものを、お人好しだ。
 普通なら、まず拾わない。
 争いに巻き込まれるだろうから。
 なのに、どうして拾ったのか。
 言葉どおり、カカシの居場所がここにはあるということか。
 カカシひとり、人ひとり分ぐらいの居場所が。

 そうだといいな。

 イルカから感じる色んな思索や疑問と、自分の願いが混ざる。
 疑うべきだと考える忍びの己と、彼から与えられた温もりを信じたい自分。

 まるで出来損ないの醜い天秤だな。

 軋む体と、兵糧丸のせいで熱い胃を引きずって歩く。
 ぼんやりと天秤の行く先と、イルカの言葉を思いながら、カカシは一心に足を動かし続けた。




2007