てのひらのきおく
穏やかな声音でいわれたことは当たり前すぎる日常の言葉で、忍び装束で行き倒れた自分にかけられるものにしては、ちょっとあっけにとられるものだった。もう少し、緊迫しているか警戒していてもいいんじゃないかと、我ながら思うほどに。
だから、返す返事も思いつかず、カカシはなにも言わないでいた。
男は気にするようすもなく、続ける。
「それにしても、もう起き上がっているなんて、さすがに忍びの方はお丈夫ですね。あんなに酷い怪我だったのに、骨も折れていませんでしたし…ああ、そう、眼のほうはどうですか? 俺、眼はあまりよく知らなくて、血止めぐらいしか…」
せわしなく言いながら、キシキシという軽い床の軋みと共に寄ってきたらしい気配に、カカシはてのひらをかざした。気配がその場で止まる。
乾いた咥内から唾を集めて飲み下し、塞いだ喉をしかりつけるように無理やり声を出した。
「…手当て、は感、謝します。で、ここはど、こで、あん…は誰です、か」
「俺は―――」
擦れきった声でもなんとか言葉をつむぐことができた。男は答え返そうとした半ばで、ふと気を逸らして、違うほうへ行ってしまった。
「…?」
気配を追って顔を向けていると、
「水です。喉が渇いているでしょう、酷い声です」
答えが返ってきたが、それはカカシの知りたいことではなかった。
「そうじゃ、なくて」
「ここは火の国に近い名も無い村ですよ。木の葉の忍びの方もたまにいらっしゃいますよ。山に囲まれてて、みんな炭をやいているんです。薬草も採れるんです」
男の立てる音がひとしきり過ぎて、気配がカカシに近づく。
「俺はここで一応、医者みたいなことをしてまして、だからそんなに警戒しないでください。どうにかするつもりなら、眠ってるあいだにしてますから」
穏やかな声音とともに、カカシの手が取られて、湯のみのようなものが持たされる。男の暖かな手は、カカシの手から離れることなく支え、ゆっくりとカカシの口元へ湯飲みを持っていった。
唇に冷たいものがあたり、無意識に開いた口に甘い何かが流れてきて、カカシは一気に飲み込みたい欲求を堪え、慎重に飲み下した。
「そう、ゆっくり…ゆっくり呑んでください」
カカシの震えそうになる手を、上から重ねて包み込んでいる手の暖かさと、声の穏やかさが、見てもいないのに男の容貌を形作るような気がした。
「…すぐ、出て行きます」
飲むあいまを縫って、最重要に伝えなければいけないことをいえば、あっさりと、だが強い声音で返された。
「ウチはボロ屋だし薬草のほかはなんにもありませんが、あなたの居場所くらいここにはありますよ」
カカシの反論を聞かない、といっているかのような強い言葉で、手に添えられた暖かさがいっそう、カカシのなかで形を持った。
ちびりちびりと、時間はかかったが、ようやく最後の一口をカカシが飲み干そうとしたとき、壁の向こうがわで忙しない足音がして、待つあいだも無く近づいてきた。
そのまま、勢いで、ガラッと開けられたらしい扉の音。
「イルカせんせー、言われたの持ってきたよー! ウチのおとうのお古だけどいいよね? 拾ったヤツなんだし。イルカ先生もなんだよねえ、自分の口も満足じゃないのに怪我人拾うなんてねえ。信じらんねえっておかあが、あ、これおかあから。干し柿。甘くて美味かったよー」
足音と同じ忙しない少女の声は、イルカに返事の間を与えないぐらい早く、カカシは湯のみから口を離した。
「…いるか、せんせい?」
「あ、はい。俺の名前です。イルカといいます。先生、っていわれるほど人の役にも立ってないんですが」
確かに少女の言いようを聞くだけでは、けなされているように聞こえるが、慕われているようにも聞こえる。
イルカはカカシに、持てますか、と訊いたのでカカシが頷くと、傍らの空気がすぅっと動いた。
「ありがとう、カエデ。助かるよ。カンジさんとミツバさんにもよろしく。あと、声が大きいよ。お客さんがいるときは声は小さく、ってお願いしてただろう?」
「えー? お客さん、ってただの行き倒れじゃん」
「こら、そんなこと言うもんじゃない。ああ、干し柿だ、美味そうだな」
「だろー。もー、ほっぺた落ちるぐらい甘くてさー」
「なんかイッコ減ってるな…」
「え、あー、持って来るとき落っこちたかなー。あ! なんだ、もう起きてんじゃん、行き倒れさん! やほー、あんた悪人、罪人? 逃げてきた人?」
「こら! カエデ!」
やたら音の塊のようなものが、騒がしい台詞と、床の軋みとともに近づいてきて、カカシは無意識に上半身をのけぞらせた。床の音が耳に突き刺さるようだ。
耳だけの感覚を差っ引いても、身体に響きそうなほど。声から想像できる所作ならある程度は仕方ないのだろうが、それにしても床の軋みが酷いのだろう。本当に耳に刺さる。イルカの立てる音と違いすぎて。
「えー、すごい男前じゃない? ね、ね、あんた、名前は?」
だが、うるさい気配と音は、ある一定の場所から近づいてこなかった。ギシギシと音がうるさい。あのイルカという男が静止してくれているのかもしれない。
「カエデ、まだ彼は起きたばかりなんだ。質問なら今度にして、今日はもう」
「カカシ」
二人のいるだろう方へ向かって、答えた。
え、とどちらか分からない戸惑った声が聞こえて、カカシはもう一度、カカシだ、と言った。
「カカシ、さん」
「はは、面白い名前じゃん、カカシね! あたしカエデ! よろしくね!」
やはり少女の声は鼓膜に痛く、カカシは眉をしかめた。
それ以外にも、身を起こしていることが辛く、カカシは背を緩く丸めた。体中が軋んでいるような気がする。
「カエデ…」
イルカが少女をたしなめ、それでも食い下がろうとしたやりとりの後、やっと辺りが静かになった。少女は帰ったようだった。
「カカシさん、もうすこし眠ったほうが良い。打撲が酷いこともありますが、体中が疲労しているようです。まるで寝ないで丸二日、炭焼きをした人のようです」
それはチャクラを限界まで使ったからだ、とおもったが、たとえの場所柄に、笑えた。といっても、寄った眉が緩んだぐらいのものだったが。
静かな足音のあと、温もりがカカシの背を支え、横たえた。
肩口から下にかけて、何か幅広の布のようなものが身体にかけられる。
きっと先ほどカエデという少女がもってきたというものではないだろうか。多分、着物。衣服からする染み付いた匂いが、イルカの匂いと違う。イルカのものであればまだ我慢できるのに。あの暖かな掌の持ち主ならば。
不快だな、と思いつつ、カカシの意識がまた薄い闇のほうへと沈んでいった。
2007