上書き保存の恋




 バン! と彼の自宅の玄関を開けると、彼が驚いて俺を見つめていた。
 多分、俺の気配を少しまえに感じて、扉を開けようとしていたんだろう。そのまえに、いつもよりずっと勢い良く俺が玄関を挨拶もなしに開けたから、間に合わなかったんだ。
 その彼を俺も見つめて、宣言、いやお願いした。

「俺の記憶を、消してください」
「―――は?」

 これでも色々考えた。
 ちらっとでも、絆されてやりたいと思わなかったか、といえば嘘になる。

 けど俺はどうしても、最初の彼の行為が許せなかった。
 どんなに後の行為が優しくても、最初の言葉もなく力で俺をねじ伏せる行為が、俺の感情を押し留めていた。
 怒りってのは案外、すぐに薄れる。
 嬉しさも、慣れると感じなくなったりする。
 でも恐怖ってのは、無くしたいと願えば願うほど、深く根をはるものだ。

 彼は俺を力でねじ伏せる人なんだ、と俺はもう知ってしまっている。
 例えば俺が彼の思い通りにならないときには、俺は自分の意思など関係なく、彼の良い様にされるだろうと簡単に想像できる。

 そんな人間相手に、心の緩い部分を晒せるほど、俺は弱くなかった。
 俺にとっては幸福なことに。
 彼にとっては、多分、残念ながら。
 …多分、なんて言ってしまうほどには、彼のことを知っているつもりになっているのに、本当に、残念だ。

「だから記憶を消してください、あなたのことを、全部。俺の頭から」
「ちょっと…待って下さい…突然、なにを…」
「あなたほどの方ならできるでしょう、俺から望むことですから術もかけやすいでしょう。お願いします」
「話しが分かりません。とにかく上がってください」

 俺のほうへ腕をさしだした彼へ、俺は手のひらを掲げて留まってくれるように示した。もしここで、力技によって情事にもつれこまれて、話しがうやむやになるのは嫌だった。

「あなたがやってくださらないのなら、相応の機関に行くか、やってくれそうな人をあたることにします」
「でも、話しが急でいったい…」

 まあ確かに急ではある。
 でも最初が通告もなしの夜道で強姦から始まった関係なんだ。これぐらいの急展開、ついてきてもらわなくては困る。というか、俺はもう、彼のした行為と、彼にほだされそうな自分のあいだで、グラグラして苛つくのに堪えられそうにないんだ。
 言葉にしない彼の視線や仕草、行動に、俺への想いを感じることが、辛い。

「あなたが…カカシさんがしたことを、やっぱり俺はどうしても許すことができません。だから、あなたに関する記憶を消してくださいとお願いしています」

 自宅だったからだろう、額宛てもなく口布も下げていた彼の顔は、今日も綺麗で整っていて、俺の言葉で、ちょっと強張った。

「それは…分かってるけど…」
「いまさらどうしてあんなことを、なんて言いだしても無駄だと分かってます。やってしまったものはしょうがない。あなただってそう思ってるから、何も言わないんでしょう?」
「イルカ先生、その言い方は」

 違うか?
 違わないだろうが。
 あんたの心の中を覗いたわけじゃないけど、最初の暴行以後、バカみたいに優しくなった扱い方や、俺に美味いものを食わそうとしてるのは、どう考えても言葉にしないだけの『ごめんなさい』だ。

 どんな事情があるにせよ、やってしまったものはしょうがない。
 言い方がひっかかるなら言い換えてもいいさ。
 起こってしまったことを覆すことはできないんだ。
 それを分かってるから、あんたは俺に優しくし、俺に美味いものを食わせる。

「いま理由をきこうとは思いません。どんな理由であれ、許せないから」
「……」
「だから―――」

 なんだか自分がとんでもなく恥ずかしいことを言おうとしてる気がしてきて、俺は一度、口ごもった。
 目の前の色男は、強張った顔のまま俺を見ている。
 ああ、そんな顔でも俺には綺麗にみえて、悲しくなる。

 本当は、ちょっと嬉しそうに目を細めて微笑むあんたが一番だと思うんだけど。
 それを言うのは、俺の許せない部分が邪魔をするんだ。
 だから。

「最初から、やり直してください―――俺の記憶を消して」
「イルカ、せんせ…」
「あなたがやったことを、全部、俺の中から消して、それから、やり直してください。そしたら、きっと、俺だって…、きっと…」

 きっと、なんだっていうのかは言えなかった。
 言えるわけない。
 俺は、情けない語尾になったのを誤魔化すように、「あなたさえ良ければ」と付け足した。
 彼の顔が、ちょっと歪んだ。
 泣きそうだと思った。

「…それがイルカ先生の望みなんですね」
「無理にとは言いません。してくれそうな心当たりはあります」

 これでもアカデミーと受付もしてるんだ。忘却術をかけられた忍びがまず世話になるだろう、って医者も知ってる。昔、腕利きの忍びだったらしいその医者は、得意な術が忘却術だったそうだ。いまはもっぱら解くほうに腕をふるっているが、そんな昔の腕を頼ってみてもいい。
 そんな心積もりもあって、いささか結論に走りすぎると、すこし慌てたように、待って、と彼が言った。

「…します。俺の知らないところでするなら、あなたが俺にというなら、俺が、あなたの記憶を消します」

 そんな泣きそうな気配を垂れ流さないでくれ。
 ゆっくりと俺に近づく彼を見ながら、俺はそう思う。
 俺まで苦しくなる。
 彼の指が俺の額にかかった。
 ひっそりと彼の唇が動く。

「俺は…俺はあなたが俺を許せなくてもいいとおもった。その方が良かった。あなたの中に、俺が残るなら、それで。あなたの苦しさより、俺は自分を取ったんです」

 自分勝手な告白を俺は聞く。
 彼の左の瞼がゆっくりと上がり、その色素の薄い面立ちからは異様なほど、紅い瞳が現れた。

「もっと違う方法があったでしょう」
「…そうかな?」
「ええ」
「イルカ先生がいうならそうかもしれませんね」

 ちっとも信じていない、泣きそうな顔。
 吐息がかかるほど瞳が近づく。
 捕らえられているかのように、視線が外せない。
 三つ巴が燃え盛る焔のように動いている。

「俺に対してなにかしたいなら、もっと他に方法があるんですよ…ちゃんと、あるんです…」
「…うん、そうかも、しれませんね」

 ぼんやりと霞がかかってくる頭から、俺は言葉を振り絞る。
 自信のなさそうな、まるで無理だろうというような気弱げな彼の返事が、とても気に障って、俺は彼に優しくしてやる。

「俺にしたように、飯に行ったりすればいいんです。あと…もっと言葉を多く、話してください。そうすれば、簡単なことです。簡単なこと、なん…です…」
「俺には難しいです、イルカせんせ」
「いい…え…、きっとかんたん、です…それができたら…」

 意識が遠くなって身体の感覚もなくなって、俺の全てがぷっつりと切れる寸前、俺が口のなかで呟いていたのは、一楽のラーメンおごってあげます、だった。
 それが彼の耳に届いたかどうかは知らない。
 届かなかったほうが良かったのかもな。
 ちょっとしまり無い別れの言葉だったから。









 さよなら、カカシさん。










2007.09.06