愛について4







 カカシが扉を閉める寸前、イルカも失礼しました、とだけ言えた。
 いったいなんだったのかと、疲れがどっと肩にのしかかって気がして、イルカがため息をついていると、カカシも首をほぐすようにしながら、

「百年も待ってたら、俺もイルカさんも火影様より爺さんになっちゃいますよね」

 と笑った。
 言葉尻をとらえれば確かにそうだろうが、あれは言葉の言い回しに過ぎない。
 イルカにとって問題は、火影があんなにカッカしていたことのほうだ。

「いいんですか? 火影様があんなにお怒りになるなんて珍しいことですよ。一体どうして紅白饅頭なんて用意されたんですか」
「いいんですよ。だって、饅頭っていうだけで指定は無かったし、あれ、お店の人がおめでたいときに人にあげるもんだって言ってたから、イルカさんも一応無事だったし、それでいいかな〜って」

 一応、と言うあたりに当てこすりを感じるが、今は無視した。

「何がめでたかったんですか? それが分からなかったんですけど」
「え? えーと、何だったかな…あぁ、お店の人がさ、一緒に住んでる人と偉い人のとこに揃って挨拶しにいく、っていったら、これが良いよっていわれたんだ。思い出した。白とピンクの饅頭なんて初めてみたから。聞いてみたら、めでたいことにはこれだよって。…俺も何がめでたいのか分からなかったんですけど、めでたいんだなあって」
「はぁ…そうですか」
「何でも、こういう挨拶って身をかため―――」
「―――カカシ、はっけーん!!」

 いきなりの大声に、イルカの心臓が大きく跳ね上がった。
 誰かと問う隙もなく、瞬間的にカカシを挟んだ横に、見知った姿が現れた。
 いつも元気そうなアンコだ。
 ばん! と勢いよくカカシの背中を叩いて、カカシをふらつかせる。
 イルカは目を白黒させるだけで一杯だ。

「ちょっと聞いたよー! おもしろいことしてんじゃない! 行く前にちょっとぐらい教えてくれたっていいじゃない、協力してあげんのに! って、あー、イルカじゃん、おかえりー。どうだったコイツ。ぷっつんきてたんだって?」

 テンションの高さにクラクラした。
 返答に困ることを聞かれて、腰が引けたこともある。
 逃げるつもりは全くなかったが、無意識に及び腰になってカカシへと体が寄ってしまった。
 カカシの手のひらが背中に添えられて、現金なことだがホッとする。

「いえあの、そういうことは無かったと思いますが…」
「あー、そっかー」

 あっさり納得したかと思いきや、アンコは心底遺憾だといいたげに眉を下げて、

「本人の前じゃそりゃ言いにくいよねー」

 などいうものだから、焦ってしまった。

「そういうことではなくてですね…っ」
「分かってる分かってるって。ちゃんとあんたの心ンなかはアタシにちゃあんと伝わってるからね!」
「で、ではなくて…」
「なんかさー、もうちょっとした伝説よ? アンタたち。木の葉病院じゃカカシは怒らせないでおこうって話になったらしいよ、凄いよねー! 面白そうだったから見てきたら、顔がごま塩の肉団子になっててさ、なんだーってみたらアリンコだし! ホント、そのうちイビキがスカウトくるんじゃない? あんた才能あるって! マジで!! でさあ―――」
「―――あ」

 え? と思ったときには、体がふわりと浮いていた。
 何かに気づいたような声を上げたのは、多分カカシだったとおもう。
 その場に居たのがアンコと、カカシとイルカで、アンコは大声で喋っていたしイルカは圧倒されて黙っていた。
 瞬身の術を使われたことも、すぐには分からないほど、素早い移動だった。

 ぐるんと世界が回るような感覚のあと、我に返ったときには報告所から近いところにある中庭の木陰にいた。
 中庭といってもただ建物に三方を囲まれたようになっているだけの広場だが、木の点在する空間はよく忍びの憩いの場となっている。
 その木の根元に体を降ろされていた。

 あまりに一瞬のことで、気が付けば目の前の景色が変わっていた、という感じだ。
 降ろしてくれたカカシは、視線を火影の執務室があるほうへと向けていた。

「あーあ…」

 などと呟いている。

「あ、あの…いきなりどうされたんですか? アンコさんに失礼だったのは…」
「いいのいいの。ほら、よく聞いたら聞こえてくるよ。火影様のおっきなカミナリさま」
「え?」

 カカシにならうように耳をすませると、確かに火影の声が聞こえてきた。
 内容は、扉の前で五月蝿い、ということと、その内容についての厳しいお小言のようだ。
 内心、気の毒に思った。
 火影は穏やかに優しげなときが多いが、怒るととても大人気なく怖いのだ。

「さっきのは、火影様が出てくるのが分かったからですか」
「うん」
「―――アンコさんも一緒に飛べばよかったのでは…」
「だって五月蝿くしたのはアンコだし、自業自得でしょ」

 スパッと言い切る姿に苦笑してしまう。

「それより体は大丈夫? 火影様も話が長いんだから。辛くない? 帰るまで持ちそう?」

 心配性にもほどがあるカカシに、ますます苦笑いをしてしまう。
 まるで自分はどこかの肉体労働知らずのお嬢様のようだ。
 どこからどう見ても、日焼けした健康体の、平凡な男だというのに。

「まったく健康体です。ラーメン食べて帰れるほど元気です」
「ホントに? イルカさんはすぐに隠して無理するからなあ…」
「人聞きが悪いです、本当です」

 指輪を探すために抜け出した一件で、随分と信頼をなくしたようだと呑気に思う。
 日差しが強く、イルカは瞬きをした。

 いきなり建物の中から日中の野外に出たものだから、光彩が鮮やかで眩しい。
 木陰がくっきりと濃く落ちていて、空は随分と爽やかに晴れ渡っている。
 午後の温い風も、影だからか少し涼しく感じられた。
 影から日なたをみると、なにもかもが眩しいぐらいに明るく輝いていて、穏やかな里の風景とあいまって、なんともいえず安心する。
 帰ってきた、という気持ちになった。

「良い天気ですね」

 肩の力が抜けて、気持ちが良かった。
 木にもたれて根元に座り込む。
 カカシが覗き込んできた。

「やっぱりしんどいんじゃない? 帰ろうか」
「いえ、ちょっと座りたくなっただけです、ここが気持ちよくて」

 そういえば女が言っていた。
 体のほうは治療をして以前と変わりがないように思えるだろうが、酷い怪我になると、心のほうが痛みを忘れずに厄介だと。
 こんなに平和そのものの風景を見ていると、そんな言葉が信じられないほどだが、少し怖い。
 幻視に惑わされず、落ち着いて現在を確かめろといわれた。
 イルカにとっての現在を確かめる方法なら、やはりカカシが隣にいることかもしれない。
 座ることなく木にもたれて、ときおりイルカを窺いつつも、無理に帰ろうとは言わない心配性の男を見上げる。

「ん、どうしたの」
「いえ、なんでもありません。…ただ、カカシさんが居てくださってよかったなあ、と自分勝手なことを思ってしまって」

 言いながらも、やっぱり自分本位な思いであることを再確認して、目をそらして後頭部に手をあてた。
 髪は昨日、カカシからもらった紐で括ってある。それまでは自分の紐を使っていたのだが、ありがたく使わせてもらっている。
 カカシからの返答を避けたくて、目を遠くにやると、ちょうど知った姿が歩いてくるのが見えてホッとした。

「あ、紅さんですよ、カカシさん」
「え、あ。うわ、ほんとだ。帰ろうか、イルカさん」
「? どうしてですか?」

 確かカカシと紅は、知り合いよりは友人といってもいいほどの間柄のはずだ。
 忌避する理由が分からずに、首を傾げた。
 カカシは苦虫を噛み潰したような顔をして、答えず、そうするうちに姿は肉声が届く距離になっていた。
 紅の柳眉が和み、眩げに目を細めてこちらを見ていた。

「お疲れ様、こんなところで噂の二人に会えるなんてラッキーだわ」

 座ったままでは失礼だと立ち上がり、挨拶しようとすると、先にカカシが口を開いた。

「やっぱり…さっきアンコも言ってたけど、下らない話でしょ、どうせ。イルカさんに変なこと言わないでよね」
「カカシさん?」
「あら、アンコに会ったの? 凄いわ、探すって言ってたのさっきなのに。流石ねえ」
「変なとこで感心してないで俺の話聞いてる?」

 妙な緊迫感がカカシから出ていて、イルカは困惑する。
 紅といえば意に介さないように、楽しそうに唇を弓なりにしている。
 馴れた様子だ。
 聞いてるわよ、と笑う。

「でも私に口止めしたって、私も受付所で聞いたのよ、もうかなり広がってるんじゃないかしら。誰かの口から耳に入るでしょ。イルカだって、今知ったほうがいいわよ、ね?」
「え…はあ、どんなお話でしょうか」
「あのね、あなたが熱烈に求愛されてたところにカカシが横からやってきて、相手の男をズタズタにしたあと顔を潰して肉団子にしたうえに、あなたを攫ってお姫様抱っこで報告所に入っていったって話。しかもその後、火影様に結婚しましたの挨拶にいったらしいじゃない」

 じゃない? といった風に紅は小首を傾げるが、顔は笑ったままだ。
 からかわれている。

「あなたは今頃カカシと新婚旅行に行ったに違いないって、受付所でみんなが話してたわよ」
「……、なんだか、…事実のところもあるようで、全く無い話ですね」

 合っているようで、色々と激しく間違っている。
 とどめが新婚旅行だ。

「馬鹿馬鹿しいですね。アンコさんもそのことを仰っていたんでしょうか」
「多分ね。受付所でアンコと一緒だったのよ。ホントに探すとは思わなかったわ」

 可笑しそうに笑う紅と対照的に、カカシは眉を顰めている。

「アンコを止めてくれよ、そういうときは。アイツは騒げることが大好物でしょ」
「大好物なのはアンコだけじゃないわよ。私もみんなも好きなんじゃない?」
「みんな?」

 紅とカカシの会話を、不思議な感覚を覚えながら傍らで聞きつつ、視線を周囲に流していたイルカが、一番最初に気づいた。
 ゲンマが歩いているのが見える。

「みんなって言ったらみんなよ。カカシが火影様にワイロを渡して里抜けしたってときも、みんな大騒ぎの大笑い。しばらくネタにさせてもらおうって言ってたら、さらにネタを下げてあなたが帰ってきたのよ」
「そんな話になってたんだ…ていうかワイロじゃないし、里抜けでもないし」
「分かってるわよ。すごい血相だったっていうから、これはもう、理由は一つしかないでしょ?」

 イルカが見ていると、視線で気づいたのか、遠くで手で軽く挨拶を向けられて、イルカが会釈をすると、その姿がこちらにやってきた。
 イルカが会釈したことで、紅とカカシも気づく。

「どーも」
「ねえゲンマ、聞いた? この二人の噂」
「紅、やっぱりあんたが言いふらしてんじゃないか」

 近寄ってきたゲンマは、いつものように楊枝をふらふらさせながら、ニヤリと笑った。
 器用だな、とこっそりイルカは思う。

「ああ、聞きましたよ。さっきまで待機所に居たんですがね、若いヤツラが騒いでましたから、嫌でも」

 同じ室内に居れば聞こえる、ということなのだろう。カカシが嫌そうに顔を顰める。
 ふとイルカをみてゲンマが、お疲れさん、と言ってくれた。頭を下げる。

「ゲンマさんもお疲れ様です」
「なに、お前さんほどじゃないさ。気苦労が耐えねえな」

 首を傾げて苦笑いをしてしまった。
 この噂のことなら、今は気苦労というよりも、カカシの機嫌が下降の一途を辿っていることのほうが心配になる。
 後日になれば、きっと職場で胃の焼ける思いをすることは簡単に想像できたが。
 そういえば、とゲンマが楊枝をふらりと上下させた。

「アレは結局、解決したんですか、カカシさん」
「あれって?」
「両隣黙らせてるって話ですよ。原因はそれじゃなかったって話しでしたっけ。それで結局、引越しはしたのかい」

 後半はイルカに向かってだった。
 いきなり話が飛んで、咄嗟に首を横に振ったが、家移りの原因のことを思い出して、顔に血が上った。
 夜の騒音がもとで家移りを迫らせた、などと外聞が悪い上に、カカシに言えることではなかったから、大家が何も言わなくなったのをこれ幸いと、忘れていた。
 引越しの話しをカカシにできるかどうか、がイルカのなかで最大でただ一つの障害だったから、いまさらこんな場で話しが出るとは思わなかった。
 それらのことを一気に思い出して、顔に上った血が、背筋を駆け下りていく。




2007.05.22