愛について4







 目が覚めた瞬間、傍らにはカカシが仁王のような顔をして座っていた。
 口布をしていたから口元はわからないが、きっとひん曲がっているだろうというほど、眉間に皺が刻まれていた。視線は、イルカに固定されている。
 場所は朝まで寝ていたテントのようで、ベストも服も取り去られ、素肌に包帯のみの格好になっていた。腹から足にかけて掛け布がかかっている。時刻はよく分からない。テントの布に日光が透けている。
 イルカの最後の記憶から、ここまで飛んでいるということは、誰かが運んでくれたようだった。申し訳なさが募る。
 カカシは、イルカが目を覚ましたことにもちろん気づいているだろうに、何もいわない。
 あまりに何もいわないから、イルカが口を開いた。

「…お疲れ様です、おかえりなさい」

 言ってみても返事は無い。
 ただ、視線はイルカをじっと見ている。
 怒っているのだろうなあ、とは分かった。
 まあ当たり前だ。
 前日にあれほど、無茶をするな等の主旨を、怒鳴りつつも懇々と伸べていたのだ。
 出かける直前にさえ、安静にしていろと念押しし、あまつさえイルカは大丈夫だと胸を張ったのだ。
 見事に裏切った。
 森のなかで倒れていた自分を運んでくれた誰かにも、そしてカカシにも、心底すまなく思う。

「カカシさん…」

 返事もしたくないほど怒っているのか。
 昨夜のように怒鳴るでもなく、説得するでもない。
 ただ黙っている。
 視線だけがイルカを非難していて、途方に暮れる。

「すいません、でした……」

 これだけは言わなければと謝ったが、これにも返事がない。
 首を動かすと、濡れた布が両側の首筋に張られていることに気づいた。両脇にも同じようにひんやりとしたものを感じる。
 起き上がろうと上半身を動かせば、不動だったカカシが始めて動いた。
 肩を手で押して、起き上がれないように床に押し付けられる。寝ていろ、と言うかわりに行動で示しているのだろうが、喋ってくれないことが寂しかった。そんなに怒っているのだろうか。

「カカシさん、すいませんでした、カカシさんが気をつけろって仰っていたのに無理をしてしまって…」

 それでも無言で、カカシはずれてしまった濡れ布を折変えてから、また同じ場所に挟んでいる。
 嫌われて…しまったのだろうか。
 こんなに近くにいるというのに、返事も声もきかせてくれないカカシに不安が募り、そんな情けないことまで考えてしまう。嫌われることの前提は、好かれていなければいけないのだから、それを考えると土台無理な話だと思うのに。
 カカシに期待するな、とここにきても相変わらずの自分の予防線が叫ぶ。
 昨夜のカカシに何かを求めることを、躊躇する自分。
 目の前に居れば、こんなにも触れたくなり、声を聞かせてほしいと願うのに。

「カカシさん、何か…何か仰ってください。俺が馬鹿なことをしたから怒ってらっしゃるんでしょう? 本当に、すいませんでした。迂闊でした」

 手をカカシのほうへと伸ばすと、手甲をしていない手が掴んでくれた。
 ホッとする。
 不安に歪みかけた顔が、緩んだ。

「ごめんなさい…俺は、カカシさんのご迷惑になってばかりですね…」

 自然と反省が口をついて出た。
 イルカの手を掴む指が、ぴくりと動く。
 怒りが含まれた視線はそのままだったが、少しだけ安堵した。

「任務も俺のせいで支障がでたのでしょう…? 手間もかけさせて、俺は自分が情けないです。自己管理も、…自分で自分のケリも着けられない。頼るとか、そういうのではなくて…ただ、自分が情けないです」

 中にはカカシが無理にと通した部分もあったが、総じてカカシに世話になってばかりだったように思う。
 見られたくはない部分も見られ、駄目な自分をたっぷりと見せつけてしまった。

「カカシさんは、自分のこと大切にしろって言ってくださいましたけど、なかなか…自分の後始末をつけられないうちは難しいですね。俺なんて、カカシさんにそういってもらえる程の人間じゃ…」

 自嘲がぽろぽろと零れる。
 カカシの圧倒的な力量差を見せられ、気遣いと暖かい言葉をもらい、あれこれと世話を焼かれた。
 そんな価値が、自分にあるのだろうか?
 一度、そう疑問に思うと止められなかった。
 互いのことを分かり合っていない、分かり合いたいというようなことまでカカシは言ったが、そんな知ってもらう程の人間が自分だとは、とうてい思えない。

 今までカカシが自分に構いつけるのを、カカシについて期待しないことで、相殺してきた。
 カカシが傍らにいてくれる理由を探るな、どれほど釣り合いがとれていないか考えるなと念じてきた。それが、ここにきて、脆くなった土壁が剥がれるように、弱音が零れでた。

「これでも、カカシさんにみっともない所をみせないように頑張ってきたんですけど…さすがにモトは隠せませんね。迷惑ばかりです」

 自嘲がもれた。
 返事がなく、声もきかせてもらえないことが、こんなに惨めな気持ちにさせる。
 怒ったような視線さえ、軽蔑されたのかと思う。

「だから、もう、俺のことはいいですから、里に帰って…―――」

 言いかけた途中で、ふいに目の奥がつんときた。
 いけないと思ったが止められず、涙が溢れ出て頬を伝った。
 カカシの不機嫌そうな顔が驚きに変わり、指が雫を掬う。

「―――どうして泣くの。辛いの?」

 やっと、喋ってくれた。
 落ち着いた声音に、余計に涙がでた。

「辛い、です…―――」

 潤んだ声で答えた。
 辛いと訊かれれば、辛いに決まっている。
 自分自身への情けなさや不甲斐なさを足しても、カカシに幻滅される辛さのほうがまだ辛い。

「カカシさんに、なにも、見合っていないのに、手間ばかりかけて、情けなくて辛いです。あなたがここに居るほど、俺は、辛い…―――」

 イルカの目尻を撫でる指先が止まった。
 瞬きをすると、潤んだ目からまた雫が伝った。

「あなたに迷惑をかけないように、失敗しないようにといつも気を張っているから、とても疲れるし、自分が頑固で嫌な人間になっていくのが分かります。あなたに…せめて、…せめて遠ざけられないように…近くに居られるようにいつも緊張しています」

 手を動かして、頬をなぞる手のひらを触った。カカシの体温が、イルカの指先を包んでくれた。
 心底、この体温が狂おしいほど好きだと思う。

「カカシさんが…―――…いつか、離れてしまっても大丈夫なように…頼らないように、自分一人で全てが出来るように、頑張って……、あなたが居るほど気を張っていないと、自分が緩んでしまいそうで、怖くて…辛い」

 カカシの顔が歪む。
 衝動のまま、カカシへと腕を伸ばした。
 腕が絡まり抱き寄せられる。

「でも、緊張したり疲れたり、辛かったりしても、カカシさんと居たい…みっともないけど、でも…ただ、一緒に居たいんです…―――」

 腕をぎゅっと首に回して、カカシに抱きつく。カカシも、泣きながら言葉を継ぐイルカを宥めるように、寝床から浮いた背中へ腕を回して、抱きしめてくれた。

「―――…カカシさんと居たいって、ずっと、考えてます。嘘じゃないです。迷惑かけても、釣り合って無くても、駄目だって分かってるのに考えてしまいます。…考えても、考えても、辛いだけなのに」

 カカシの手のひらが、イルカの背を、優しく撫でる。

「どうして辛いの」

 耳朶に穏やかな問いが吹き込まれた。
 枯れそうな涙が頬を伝ってこそばゆい。カカシの肩口へ頬を摺り寄せると、雫が服へと滲み込んでいった。
 理由を考えても、答えはひとつしかないように思えた。
 カカシが好きだからだ。
 報われない想いだからだ。
 けれどいまさら、この時に、いえるわけがないと思った。
 瞬きをすれば涙が零れる。
 いつまでも邪魔をする、自分の予防線が、本当に言いたい言葉と違う答えを用意した。

「―――…あなたと俺が、違う人間だから」

 ぽつりと呟けば、カカシは苦笑したようだった。
 当たり前のことをと笑ったのかもしれない。
 そうだね、と小さな囁き。

「違うから…―――、違う人間だから、俺たち二人、辛いんだね」

 抱きしめられた腕の温かさと穏やかさ。
 囁かれた言葉には、少しだけ遣り切れない響きがあったのかもしれない。
 分かり合おうとすること。
 互いが、違う人間であること。
 けして相反しない事象であるのに、どちらもを叶えようとすると、どうしてこんなに辛く、難しいのか。
 それでもなお、共に居たいと願わずにいられない心があって。
 抱きしめた強さだけ、越えられない相違の分だけ、カカシにこの心が伝わればいいのに、とイルカはカカシを抱きしめ、カカシもまた、イルカを抱きしめてくれた。




2007.05.6