愛について4
目を覚ましたのは、話し声がきこえたからだった。遅れて蝉の声が、せわしなく耳に届く。
女とカカシが話しているらしく、テントの外からきこえてくる内容は、任務の事後処理のことらしかった。
「―――じゃあ、呼んだほうがいいね」
「そうね、もう任務は終わってるも同然だから、早く撤収したいし…来てくれるならありがたいわね」
「今回のは処罰にかかるから、多分すんなり来るでしょ。俺が依頼書、出すし」
「あなたが?」
「うん、あんたが回収依頼だして、俺が調査依頼。ついでに回収も手伝えって出せば、まあ確実に来るでしょ」
「…あぁ、そういうこと。分かったわ、出しておくわ。街への引渡しもお願いしてるのに、悪いわね」
「気にしないで。どうせ行かなきゃいけない場所だったんだし」
引渡し、というのは捕虜にした二人のうち、残された一人のことだろう。
何が来るのか、どこに行くのかは分からない。
カカシが行くとしたら任務にだろうが、来るほうが分からない。
寝起きのよく動かない頭で考える。
日が昇っているのか、テントのなかは蒸し暑く、汗がじわりと滲みそうだった。できるなら、一昨日からの汚れも一緒に、贅沢をいわないから水ででも洗い流したいところだ。
「今から飛ばしたら、そうだね…今日の夜には来るでしょ。俺も昼には引き渡してくるし。明日には撤収できるんじゃない」
「早いわね。まあ、早くて文句は無いけれどね」
「俺も早く帰りたいから。イルカさん、早く休ませてあげたいんだよ」
「……あ、そう」
呆れ果てた、といいたげな女の声に、聞き耳をたてていたイルカのほうが恐縮してしまった。
「…それにしたって、ちょっとやりすぎじゃない?」
「なにが?」
「いくら腹に据えかねたからってね、あんな拷問みたいなことしなくても…」
「あんたも知ってたけど、放置してたんでしょ? どうだった、朝からもう大喜び?」
「大喜びって…、…まあね、備品からありったけの砂糖や生ものをあなたが持っていった、っていうのは聞いてたわ。あの辺りから甘ったるい匂いがしてたのも、知ってたし…けど、見たのは今日の朝。…駄目、思い出したくないわ。あんな風になるなんて思わなかったわ」
「見てきたの」
「当たり前でしょ。昨日も最低限しか治療してないから、死ぬかどうかっていうところだったのに、あなたのおかげで虫の息だったわ。顔や体も掻き毟ってて、血達磨状態だし…あれじゃまるで、あなたが悪人みたいよ?」
「それだけのこと、あいつはしたよ。やり返されて当然だよねって話もしたし。だから、良いんじゃない?」
話しはよく見えなかったが、大きなため息がイルカにまで聞こえてきた。そして、からかうような声。
「―――昔のあなたはどこにいったのかしらね」
「俺はもともとこうだよ。あんたが誤解してただけ」
「そうかしら。まあ、恋は人を変えるっていうけど?」
カカシの返事はなく、むしろ焦ったのはイルカだった。声を上げるつもりも無かったが、なぜか慌ててしまい、体を反射的に起こそうとしてかすかに呻いてしまった。ほんの小さな声だったにも関わらず、カカシは聞きつけたのか、即座に反応した。
「イルカさん? 起きた?」
布が引き上げられ、さっと野外の明るさが差し込む。
「大丈夫? 痛いの?」
矢継ぎ早に問いながら、イルカの傍らに膝をつき、カカシが覗き込む。額がふっと軽くなり、そのときになって濡れた布が置かれていたことに気づいた。
カカシの後ろから、逆光によって体のラインがなだらかな影になっている姿が現れる。
「痛いに決まってるじゃない。なに当たり前のことばっかり聞いてるの」
カカシを押しのけるようにして、イルカを覗きこんだのは、苦笑気味の女の顔だ。
「具合はどう? よく寝れたかしら」
イルカは頭を動かして頷いた。昨夜、あんなに悩ましかったにも関わらず、目覚めたいまは寝る前よりもずっと気分も良い。痛みが大分引いている。
「そう、良かった。思ったよりあなたって頑丈ね。痛み止めだけ飲んでれば、このまま動けちゃいそう」
「…おい」
「やだ、そんなに怖い顔しないでくれる? イルカが怖がるわよ」
そんなことはなかったが、カカシは下から見上げる視線から顔を背けて、そっぽを向いた。女が、笑う。
「食事を摂ってからにしようと思ったけど、今から治しちゃいましょ。それとも後にして、ご飯をカカシに食べさせてもらうのとどっちがいいかしら」
どうも、何かにつけてからかわれている感が強くするなあ、とイルカは思った。からかっているのが、イルカなのかカカシなのか、それとも両方なのか。
どちらにせよ、イルカの答えは決まっている。
「いえ…よければ今がいいです。ご迷惑をおかけしていて申し訳ないのですが、お願いできますか」
「分かったわ」
女は横のカカシへと、残念ね、とわざわざ声をかけてから、イルカの体へ手をかざした。
暖かい癒しのチャクラを感じながら、カカシを見ると、やはりからかわれて憮然としていた。
イルカの視線に気づくと、カカシは苦笑いをして、額から落ちた布をもって外にでてしまった。
包帯の下では見る間に傷が癒えているのだろう。
横たわったままではよく分からなかったが、まるで極上の温泉にでも浸かっているかのような心地よさで、癒しを実感する。
カカシはしばらくしても戻ってこず、イルカは思い切って口を開いた。起きたそのままで、暑さに喉の渇きを覚えながら、唾を飲み込みながら話しかけてみた。
「あの…先ほどのお話が聞こえてしまったんですが…」
「なあに。答えられることなら教えてあげるわ」
答えられないことがあるのだろうか、とふと思ったが、言葉に甘えて質問することにした。
「ここに何が来るのでしょうか」
「まだ来るかどうか分からないんだけれどね。ここでの任務が終わったでしょう? でも怪我人がたくさん出てね、帰れるようにまで私が治療してたんじゃ効率悪くて。医療忍者か、怪我人を運んでくれる人手か…まあそういうのを申請するつもりなの」
「そう…ですか。でも、怪我人というのは、俺と副隊長だけでは…?」
女はちらりとイルカをみて、すぐに視線を外した。その意味を図りかねて、イルカは女をみたが、よく分からない。
「あの…?」
「ん〜…それはカカシに聞きなさい」
「…どうして…ですか?」
「カカシも少しは困るといいんだわ」
答えになっていない。
「どうしてカカシさんが困るんでしょう」
「それは自分で考えなさい。自分でしたことの責任は自分でとらないと駄目よね。カカシが自分でそういってたんだもの」
「…?」
さらに分からなかった。体に手を当てて治療する女の横顔を見ていても、可笑しそうな表情がうかがえるだけで、種明かしはなさそうだった。諦めて、違うことをきいた。
「…砂糖や生もの、というのは一体…?」
しばらくの間が空いて、視線も動かさず女は言った。
「それもカカシに訊くといいわ」
「……朝になって酷いことになっていたというのもですか?」
「そうね」
カカシが何かしたということなのだろうか。
憶測するのもカカシに悪い気がして、思考が止まる。
「では…カカシさんがどこかに行くというのは…」
「まあそれもカカシに直接訊きなさいな。ふふ」
答えをはぐらかされているのか、本当にカカシに訊くべきことなのか曖昧だ。誤魔化されているような気もする。
頭にある質問が浮かび、一瞬だけ躊躇い、だがどうせ誤魔化されるのだろうと高をくくって、下らない質問をした。
「―――あの、カカシさんと、ご関係が…?」
女は少し目を丸くしたかと思うと、やはり可笑しげに笑い、それからはっきりと答えた。
「ええ、そうよ」
「…そう…ですか、…お答えいただきありがとうございます」
訊かなければ良かったという後悔と、訊いてもどうしようもなかったのにという諦めが、交じり合う。
誤魔化されるとおもったからこそ、できた質問だった。
計算高い自分がどうしようもなく馬鹿だ。
きっと今の自分の顔は、見ることができるならずいぶんと情けない顔なのだろうと思った。
女は、しばらく楽しげに笑っていたが、落ち込むイルカが無言のうちに、女の手からのチャクラが途切れた。包帯の下をめくって、傷の具合を確かめている。細い指がイルカの口元に伸び、包帯の下の皮膚を調べた。
「―――うん、これでいいわ。もう動けるでしょう。薄皮の状態だから、あんまり激しく動いたり傷を作ったり、熱すぎるお湯に浸かるのも一週間ほどは気をつけて。痛みを感じない程度だったら良いけれど…あなたの火傷は体の前半分で広範囲だったから、暑い日中とか、しばらくは用心すぎるほど用心して」
「…はい…わかりました」
治療するものとしての顔で女はハキハキと注意点を述べていく。先ほどの会話を横において、気を張った。一日も早く治すことが、今の自分にできることだ。風呂好きとしては熱い風呂に入れないことが残念だが、禁止条件は限られているから、それだけを頭に留めた。
「あと、傷は治ってるけどしばらくは熱が出たり痛みを感じるかもしれないわ。大きな怪我をした人にたまにでる症状で…まだ実感はないだろうけど、人の心って不思議でね、治ってるのに傷ついたときの瞬間に戻っちゃうことがあるのよ」
体が焼けた瞬間、のことだろうか。
自分の肉が焼ける臭いなど、そう思い出したくは無いが、ときには記憶が蘇るときもあるのかもしれない。
「…そういうときはね、落ち着いて深呼吸しなさい。そして自分の状態を確認して、触って、見てみなさい。落ち着いて、自分の体をよく見るの。治ってる現状を確かめるの。大したことないと思うかもしれないけど、意外と難しいと思うわ」
起き上がってみなさい、といわれ、恐る恐る上半身に力をいれてみた。昨夜なら、それで激痛が走り、皮膚が裂けるような恐ろしささえあったが、今はもう筋肉の力で、ゆっくりとではあったが起き上がることができた。医療忍者というのは偉大だと改めて実感した。
「あとで包帯を替えたほうがいいわね。最低限の手当てだったから、剥がすときに痛いかもしれないわ。ゆっくりと気をつけてしてもらいなさい。食事と…あぁ、服も居るわね、届けさせるわ」
どうもイルカの世話を焼く人間が、言外にカカシだと決められているようで、汗のでる思いだった。かといって、起き上がって自分でみて気づいたが、上半身どころか掛け布に覆われている下半身も、包帯に覆われていた。外にでることもできない格好だ。改めて女の尽力に頭が下がった。
「すいません…よろしくお願いします」
「怪我をするのはあなたの勝手だけど、治すのは私の仕事よ」
気にするなという言葉のかわりにそんな台詞で、女は立ち上がった。
待っていなさいと言い置いて、テントを出て行き、残ったのはイルカ一人。
カカシが入ってくる様子は無い。
結局、はぐらかされた答えもそのままで、訊き縋る隙がなかった。
自分の掌を見てみると、掌の大部分が水脹れが直ったあとのような、白っぽい、つるりとした肌に様変わりしていた。もしこれで擦過傷など作れば、すぐに肉まで傷つけるのだろうと思わせる、皮膚の具合だった。
大きく息を吐くと、肩の力が少しだけ抜ける。
髪をかきあげ、顔の下半分を覆う包帯を触ってみた。終わりの巻き込まれた先が分からず、肌を引っ掻かないようにあちこちを触るうち、首の前あたりからぱらりと鎖骨にかけて巻きつけが緩んだ。
緩んだ隙間に指をいれて引っ張ると、違う緩みが絞まり、どうにももどかしくて色々触っていると、今度は胴の部分が緩み、どうしようもなくなった。やはり先端を探して解いていったほうがいいのか、と治りかけの白い肌を見ながら嘆息する。
自分の体でないような、テントの影のなかでは薄紫のような色にもみえる肌だ。
緩めるほどだらりと垂れていく帯状のそれを、やりやすい胴の部分から巻き取っていく。やがて痛みを覚える部分に差し掛かり、それを残して、腕の部分を解いているとき、声がかかった。
「…イルカさん、いい?」
大丈夫だと答えるとカカシが入ってきた。一瞬だけ夏の日差しが入り込む。
カカシはなぜか束の間、イルカをみて黙っていたが、すぐに傍らまでやってきた。手に服らしき一式と、匙の入った椀をもっている。
「包帯、いいの?」
座り込みながら訊くから、頷く。
「先ほど治療をしていただきました。包帯を替えてもいいと言われたので…傷の具合をちょっと確かめたくて…外そうとしていたんです」
「そう…あとで俺も手伝うから、先に朝飯、食べましょ」
「はい」
返事をして椀を受け取ろうとすると、カカシが渡してくれず、イルカがさらに手を伸ばしても駄目だった。食べようとカカシが言い出したのに、どういうことだろうと小首を傾げると、匙がイルカの口元にやってきた。
「え…あの…」
「包帯が解けかけだから食べづらいでしょ」
「いえ、食べれると思うので…大丈夫です、そこまでしてもらうわけには…」
さすがにそこまで手間をかけるのは恐縮どころか、ありえない事態だ。それに巻き取った包帯や緩んだ包帯は後でどうにかすればいいし、まだ口元の包帯は残っているが、食べるのに邪魔になるというほどではない。むしろ、こんな見っとも無い姿を見ないでくれと頼みたいぐらいだ。
2007.05.6