愛について4







「―――あなたが上忍で、俺が中忍だからです」
「……」
「俺が生き残るより、あなたが生き残る方が、ずっといいからです。ずっと意味もあるし、価値がある。だから、カカシさんは何も責任なんて感じる必要は無いんです。俺が死んでも、どうか当然だって顔しててください」
「……そう」

 カカシの相槌は、笑いを含んでいたようだった。指に触れていた体温がゆっくりと移動して、イルカの視界を塞ぎ、柔らかなものがイルカの唇に触れた。触れるだけのキスは長く、やがて離れると、目を覆っていた掌も離れていった。間近で、カカシの細められた目をみた。
 テントの中の灯りは眩しいものでなく、影になったイルカからはよく見えなかったが、笑っていたように思う。
 けれど、ひやりとした何かを感じて、イルカは眉をひそめた。

「カカシさん…?」

 呼びかけると、ふふ、と唇に吐息がかかった。可笑しげに笑ったようでもあり、泣いているようにも思えた。
 カカシの右手がイルカの額や、頬を壊れ物のように撫でる。カカシに触れたくて腕を動かすと、左手で包まれた。仕草だけを見れば、優しげなのに、どうして感じる空気はこんなにも悲しげなのだろうと思う。
 握った指先から感じるのは体温だけで、カカシの思っていることが伝わらないかと思うほど。どうしてそんなに打ちのめされているようなのか、イルカには分からなかった。

「カカシさん、どうし…」
「―――イルカさんより、俺のほうが価値が高いのかな?」

 イルカを覗き込んでいる体勢のままに訊ねてきたカカシの様子に気圧され、イルカは頷きたくとも頷けなかった。

「価値が高いから、俺よりイルカさんが死んだほうがいいのかな?」
「それは…」
「俺が死ぬよりイルカさんが死んだ方が、みんな、喜ぶのかな?」

 問う内に、その真剣な眼差しは歪み、イルカの頬に水滴が落ちた。まさか、と疑う前に、カカシの顔がイルカの包帯に覆われた首筋に埋められる。くぐもった声が、耳朶に響いた。

「俺は―――、俺はあなたが生きてるほうがずっと嬉しい」

 問いかけの答えが、カカシ自身によってイルカに囁かれる。

「イルカさんが生きてるほうが、絶対に良い。あなたは自分のことをそんな風に言うけど、俺にとってあなたは代わりのない、たった一人の人なんです。だから、自分を大切にして。お願いだから。俺と価値を比べないで。俺にとって大切な、かけがえの無い人だって分かって。自分を―――大切にして」

 お願いだから、と懇願が耳朶に直接吹き込まれた。
 思考が止まる。
 あまりのことに返事も相槌も打てずに、全身の血が逆流するかとおもった。
 顔といわず耳や首筋の表皮、つま先までが一気に熱くなった気がした。途端に、せっかくの薬の効果も空しく疼くような痛みが体中に広がり、体が強張った。

「ぅ、あ…」
「イルカさん? 痛い、の? どこ?」

 呻いた瞬間、ガバッとカカシの顔が上がり、顔を両手で挟まれて覗き込まれた。どこ、といわれても全身が疼いているのだし、具体的に答えようもなく、むしろ真剣に心配されているということを、さらにイルカに意識させることになった。
 何かを言いたいのだけれど、痛みと羞恥に言えもせずに、強張った体からとにかく力を抜こうと喘いでいると、焦ったカカシが、

「俺、あいつ呼んできます。ちょっと待ってて、すぐ連れてくるから―――!」

 というに至って、イルカは痛みも忘れて咄嗟にカカシの腕を掴んだ。
 勢い余って立ち上がりかけたカカシに引き摺られ、さらに痛みが倍増する。そのイルカをみて、カカシがまた焦り、イルカを抱きこむようにしゃがみこんだ。

「なにしてるんです!? 待ってて下さいって、すぐ呼んでくるから…ッ」
「い、良いんです、じっとしてたら収まりますから…だから呼ばないで…ぅ、く…ッ」
「とにかく寝て…! 動いちゃ駄目っていわれてるのに、なんでっ」

 カカシの掌がイルカの背中に添えられ、丸くなってやり過ごそうとする体をどうにか横たえてくれた。
 引き摺られたにせよ起き上がった体勢が、思ってもみないほど痛みを呼んで、浅い息を吐きながら、自分の体がどれほど傷ついていたが、今更ながら怖くなった。自分の体が焼かれる熱さなど、思い出そうとしても記憶があいまいではっきりとしないが、こうやって傷からの痛みは、恐ろしさを充分に知らせてくれる。

「ごめん、なさい…」
「喋らないで。深く息を吸って、…そう、吐いて…」

 言われるままに大きく深呼吸を繰り返して、痛みを逃がす。完全には引かないが、安静にしているに近い状態まで、何度も呼吸を繰り替えした。
 カカシの手が心配げに額に当てられる。熱っぽさが、その辺りだけ静まるように感じられた。カカシの体温だというだけで、イルカにとっては、そんなわけはないのに薬と同じほど効果があるようだ。

「大丈夫…?」
「はい……はい、すいません」
「そう…」

 カカシがため息をついた。それから、大雑把な動作で後頭部を掻いたかと思うと、ごろりとイルカに寄り添って寝転んだ。自然、イルカの視界間近に、カカシの顔がきた。とっさに視線を天井へと逸らす。あまり間近でみるにはカカシの顔は整いすぎて、自分を省みてしまいそうになる。関連して、先ほどの言葉や声音も思い出しそうだった。
 まだ頭のなかが混乱しているようで、聞いた言葉は思い出せるが、どう考えればいいかなどというところまでは思考が発展しない。イルカの頭のなかは今、混乱することで手一杯だ。
 だから、カカシが手枕をして瞼を閉じたときは、ホッとした。

「イルカさん、怪我してるのに長話ししちゃ、ダメだったね…俺こそ…ごめんなさい」
「い、いえ…」
「寝ましょう。寝て、治して、話はまたそれからにしましょう」

 内心、少し怯んだ。あんなことを聞かされて、また後日同じように乞われれば、あっさり自分は意地を曲げてしまうだろうと思った。口先だけの約束をしてしまいそうで、怖い。
 自分を大切にすることと、カカシを大切にすることを天秤にかければ、カカシに比重がかかることなど、どんなに乞われても変わることはないのに。
 カカシの言葉がまるで砂糖菓子のように甘すぎて、おかしくなりそうだ。
 どう考えても、イルカにかけるべき言葉とは思えない。
 カカシにとってかけがえのない人間だといわれる覚えがない。
 自己卑下するわけではないが、カカシと釣り合わない自分を確認しながらの日々が長く、カカシからの甘い甘い言葉を飲み込もうとしても、容易に飲み込めるものではなかった。

「…イルカさん? 寝ないの?」
「え、ぁ、はい…寝ます、はい…」
「どうしたの」

 視線を天井に向けていたものの、考えに夢中になって目を閉じていなかったらしい。気配でも起きていることは分かったのだろう、カカシが手枕を解いて、肘で起き上がって覗き込んできた。
 随分と近い。
 また体温が上がりそうになるが、痛みを繰り返すのはイルカとしても避けたく、落ち着けと自分に言い聞かせる。それでも、心臓がイルカのなかで早足になっていた。
 カカシの視線が近いところから、まっすぐにイルカに注がれる。
 落ち着けと自分に言い聞かせなければ、逃げたくなるほど真剣に。

「―――さっきの、考えてくれてるの」

 やがてカカシが言ったのは、確認のような言葉で、イルカは視線をうろうろと彷徨わせることになった。考えています、と答えるのがなぜか無性に恥ずかしかった。
 カカシの首元や、その背景のテントや、夜明かりの明暗を意味無く見つめて、それからイルカは降参した。
 はい、と答えた。

「でも…、その…カカシさんの言われるように、自分を大切にしたいとは思いますが…でもやっぱり、今日のような状況になれば、俺はカカシさんを守ります。自分より、カカシさんを」
「―――どうして?」
「カカシさんが自分より、大事だからです」

 嘘偽りない、イルカの真実だった。
 視線は相変わらず合わせられなかったが、だからといって中途半端な気持ちじゃない。真剣だ。もっとも、既に行動で表している分だけ、現状は言葉より雄弁だ。
 カカシが大きなため息と共に、視線を外した。
 再び手枕をつくり、イルカの傍らに横たわった。

「イルカさんとさ、俺って価値観とか、考え方とか、すごい違うよね」

 ぽつりとカカシが呟いた。
 少し考えて、確かにそうだなと心のなかで同意した。
 今までのやりとりに限らず、言ってしまえば出会いでさえお互いの違いに驚いていたぐらいだから、境遇や性格はもちろん、価値観や考え方が違っていて当たり前といえば、当たり前だ。
 カカシは返事がいらないようだった。
 なにも言わないイルカにかまわず、吐息のような呟きを零した。

「俺はあなたのこと大事だって思って、イルカさんにも大事にしてほしいのに、イルカさんは俺のほうが上忍だから大事だっていうし。自分はかまわないっていうし、口出しするなって俺のこと拒否するし」

 言われてみれば、そのとおりのことをした覚えがあるのだが、カカシのいうことを聞いていると、自分がとても意固地に思えた。だからカカシは石頭などといったのだと納得してしまった。
 けれど、イルカにはイルカの考えがある。
 だから仕方のないことだと、言ってしまえばそうなのだろう。
 カカシが虫の音に紛れそうなほどの、頼りない声音で言った。

「違う人間なんだから当たり前なんだろうけど……―――…寂しいよ」

 顔を動かして横をみると、カカシが伏し目がちにしていて、イルカの視線に気づき目を上げると、自嘲気味に苦笑した。

「変かな? でも本音だよ。あなたが自分のこと、自分でしたいっていうのを責めるつもりじゃないよ。でも、俺に頼ってほしい、ちょっとぐらい信頼してほしい、甘えて欲しいって思ってるのもホント。寂しいんだよ、俺は」

 想像もしてなかったことをいわれて、返事もできずに瞬きを繰り返した。
 本当に並んで横たわっているこのカカシは、本物のカカシなのだろうか。そんな愚にも付かない疑問さえ浮かぶ。
 直視すれば赤面しそうなほど男振りのいい人間など、イルカにとってカカシ以外にはいないというのに。

「イルカさんのこと…俺はなんにも分かってないって、今日のことで…よく分かったよ」

 堪らずに、イルカは俺もですと呟いた。
 カカシがあまりに寂しげに、責めるでもなく、自嘲して言うものだから、イルカまで遣る瀬無くなった。

「俺だって、カカシさんのこと分かってません。今日だって、驚いてばかりで…」
「そう? そうは見えなかったけど」

 苦笑したカカシに言い募る。

「本当です。カカシさんがいらっしゃったのも信じられなかったし、あんなに怒鳴ったり手を上げたり…俺には驚くことばかりでした」
「…そう言われると、俺、ロクなことしてないね」
「あ、いえ、そういうことじゃ…っ」
「いいよ。その通りだし。いいから、落ち着いて、熱が上がるよ」

 カカシの手が額に乗せられる。ふとカカシが動いて、どこからか布を出すと水で湿らせた。揉みこんでから四角に折り込むと、それでイルカの額から頬にかけて、柔らかく拭ってくれた。

「…ありがとう、ございます」
「ん」

 夜になってもまだ蒸しているから、拭いていったあとはひんやりとして気持ちよかった。一通り拭き終わると、また少し水で濡らして、額に置かれる。すぐに体温でぬるくなるだろうが、今は心地良いことと、カカシの気持ちが嬉しかった。

「気持ち、いいです」
「うん。良かった」

 様子をうかがうように覗き込んでいるカカシの目が、嬉しげに細くなった。穏やかな笑い方で、イルカも同じように表情を緩める。なんとなくキスしたいな、と思いついたが言い出せるわけもなく、口を閉じていると、カカシの顔が近づいて軽いキスをくれた。包帯が邪魔だな、と少し思う。

「…だからね、俺ってイルカさんのこと、知るの下手だなって思ったよ。本当に、下手」
「そんな…それなら、俺だって…」
「じゃあ二人とも下手なのかな?」

 苦笑して、柔らかな口調が囁いた。

「じゃあ―――俺たち、お互いを分かりあうのが、凄く下手なんだろうね」

 穏やかに言いながら、額の布の面を変えてくれる。それから指が乱れた髪の毛を梳いていく。
 幾度もされていたその仕草が、急に、照れくさく感じた。
 なんだかとても大事にされていることを実感させる仕草だということに、急に気づかされた。
 カカシから視線を逸らし、目を閉じる。
 見られているようだと感じたが、今、口を開けば埒も無いことをいってしまいそうだった。
 しばらくして、カカシが穏やかにいった。

「もう、寝ようか。イルカさんは、寝ないと。早く良くなってもらわないと、俺が怖いから」

 閉じた瞼の裏に、ちかりと光が走り、心臓が高鳴る。
 もう寝ようというのに、寝にくくしてどうするのだろうか。
 嬉しくて高ぶりそうになる自分を、カカシを責めることで紛らわそうとする。それでも、収めきらない喜びは、イルカのつま先までもを熱くしたけれど。

「―――寝ます。…おやすみなさい」
「うん。おやすみなさい」

 イルカが目を閉じても、しばらくカカシの指はイルカの髪を弄っていたが、やがて離れていった。
 心臓がまだ静かな高鳴りを覚えていて、イルカは落ち着けと自分に言い聞かす。
 とても寝付けそうにないと思ったが、疲れきって傷ついた体は簡単にまどろみを連れてきて、浮かれた心だけがふわふわと変な感じだった。

 起き上がれないほど体が重いのに、まるで浮遊しているような感覚があって、イルカは自分を笑う。
 カカシからの言葉でこんなに浮かれている自分が可笑しかった。
 分かり合うことが上手くない二人。
 その通りなのだろう。
 カカシはきっと、浮かれている自分を分かっていない。
 こんなに、浮かれていて、それでも駄目だと心に不安という安全装置を付けたがるイルカを知らないのだろうと思う。
 臆病だから、自分は。

 石頭や頑固者といわれたけれど、それ以上に臆病だとは、まだカカシは知らないようだ。
 そのことが少し可笑しい。
 柔らかな闇が思考を覆っていく。
 明日になれば、この体も、心も、もう少しマシになるのだろうか。
 分かり合う努力をすることで、カカシとの関係も、もう少し歩み寄れるのだろうか―――分かり合えていないお互いを、体が寄り添うように傍らに感じることができるだろうか。
 それには、カカシだけでなく、自分自身の不安や恐れを、踏み越える必要があるだろうことは分かっている。
 けれど―――。

 眠りがイルカをゆっくりと、確実に飲み込む。
 穏やかな休息に包まれる前に、イルカの脳裏に浮かんだのは、もし自分の色んな枷を破り、カカシへと踏み出すことができたなら、どんなにか自分は苦しく悲しく、そして嬉しさをも感じるだろうという想像だった。

 本当に望みたい日々を築くために、臆病な自分が踏み出すべき一歩。
 その必要を感じながらも、自分自身の不安や恐れを飲み込むことや、カカシの言葉と、行動の真意をもう一度受け止めることを、いまだ躊躇う自分。
 そして、臆病な己の背中を押す、カカシへの想い。

 数えようの無い、相反する想いが交じり合い、全てがまどろみに包まれたあとは、虫の音が、昼間の騒々しさを忘れたようにただ静かに響いていた。




2007.05.5