愛について4







「あなたに庇われたって、嬉しくも何ともないんだよ、俺は!!」



 ビリッとテントが揺れた気さえした。
 怒号がイルカの肌を刺し、血の気が引いた。
 カカシからの一方的な怒声など、初めてだった。
 成り行きも経緯も一瞬、頭から消え、怒鳴られたことへのショックが、体に堪えた。
 体が弱れば、心も添うようにある程度弱るのだろう。少なくとも、この時のイルカはそうだった。呼吸が止まり、喉が収縮して息がうまく吸えず、胸が苦しくなった。針で刺されるような痛みが全身を襲い、軋む体が反射的に丸まろうとして、さらに痛みを誘発させ、イルカは呻いた。

「イルカさん…!?」

 慌てた声に被さるように、バサッというテントの入り口をまくる音と共に、女の声がした。

「なにやってるの、カカシ!」
「イルカさんが痛がってる、どうしよう、俺、どうすればいい…!?」
「いいから退きなさい、いまのあなたは居るだけでイルカの害よ」
「そんな…っ」
「怪我人に怒鳴るなんてもってのほかよ、頭冷やしていらっしゃいな!」

 バタバタと人の立ち回る忙しなさのあと、静けさが戻った。苦しさに息を詰めて、痛みをやり過ごそうと必死で、二人のやりとりを窺う余裕などなかったが、発作のような辛さが収まったときには、イルカの額には女の柔らかな掌がのせられていた。肌の暖かさが伝わってくる。

「す…みませ…」
「あなたが謝ることないわ。…全く、どうしちゃったのかしら」

 ため息混じりのなかに馴染みの親しさを感じて、こんなときだというのに、イルカは傷からだけでない苦しさを覚える。カカシの昔馴染みの女。気を強く持っていたときは、考えまいとしていた下らない想いが、疼くような痛みと苦しみに交じり合う。

「俺が…馬鹿なこと、したから…でしょう…」

 情けなさがここにきて、止めようが無いほど押し寄せてきた。自分自身への不甲斐なさ、カカシの過去、その実力、みっともない姿、そして、カカシの不満にしかならない自分の行動。
 消え去りたい気分だ。
 今すぐ、カカシの前から消え去りたい。

「俺が死ねば…良かった」

 単純な願いが、言葉になって、吐息に混じって零れ出た。そうすれば、カカシを不快にさせることもなったのに、と。その途端、布ごしの鼻をつままれた。そして、女の顔が、視界を占領した。綺麗な眉が吊り上がっている。

「―――そんなこと言ってるとほんとに死ぬわよ。馬鹿ね」
「……はい」

 馬鹿なのは本当だろうから、素直に返事をした。自分を治療してくれた人間の前で死にたいなどと、思っていても口にだしてはいけない。それでも言ってしまったのは、自分が愚かだからだ。

「あとカカシの前でも言わないでね。今でも充分荒れてるのに、これ以上は手に負えないわ」

 やれやれといった風に女は言い、そしてイルカの体の上に手をかざした。暖かなチャクラの流れが、上半身から全身へと広がっていく。瞬く間に治療する、というわけにはいかないようだったが、治癒の効果で徐々に呼吸も楽になってくる。全身を刺すようだった痛みも、疼く程度にまでおさまった。

「…火傷が酷いのよ、本当に瀕死だったわ。駆けつけたとき、手遅れかと思った」
「あの老人は、どうして…」
「分からないわ。私たちも気づいたときには、爆発を聞いていたの。あとになって、あなたが捕まえたうちの一人がいないことがわかって、テントからけっこうな量の爆薬がなくなっていることが分かったの」

 老人たちを寝かせておいた場所はたしか物置だった。
 暗くて、イルカには何があるかよく分からなかったが、明るくなったテントのなかでは、爆薬を探すことは簡単だったろう。

「もう一人の怪我人のほうは、呑気に寝てたけれどね。カカシから話を聞こうにも、あなたに引っ付いてろくに話をしないし、あなたは死にかけてて事情をきくどころじゃないし、辺りの様子は酷いものだし。結局、捕まえた一人が足りないっていうので、自爆されたって分かったのよ」
「あの…」
「訊きたいことは分かるわよ。アイツでしょ? ほんと、残念」
「え…」

 柔らかな癒しのチャクラが途切れ、イルカは動かしやすくなった首を動かして女を見た。本当に残念そうな顔で、女は言い捨てた。

「生きてたわ。顔もどこも酷いものだけど、自業自得よね。アイツがいなきゃ、あなたにもっとチャクラを割けたんだけど。…まあ、カカシも居るし、生きてたほうが可哀想なのかもね」
「生きて…ましたか。そうですか、良かった」
「ちょっと、なに言ってるの。あなた、ひょっとしてあんなのが好みなの?」

 驚いたように言われて、イルカのほうが驚いてしまった。焦って言い直す。声が楽に出せるようになっていた。

「ち、違います…っ。ただ、もしあれで死んでいたら、カカ…俺の責任だと思ったので…」
「……ふぅん、なるほどね。どうりで顔が特別酷かったわけね。納得」
「あ、あの…」
「いいのよ。そう…それでも気がすまなかったのね」
「…?」

 一人ごちるような言葉は腑に落ちなかったが、女は説明しなかった。
 イルカに疲れた笑みをみせ、

「当たり前だけど、まだ動ける状態じゃないわよ。動くと皮膚が破れるわよ。カカシがうるさいから色々、無理に治してあるの。反動で熱がでるとおもうから、カカシに薬を渡してるあるわ。飲ませてもらって」

 先ほどのカカシの様子を思い出し、正直なところ気が進まず、頷けなかった。これ以上、カカシの手を煩わせるのは避けたい、そう思ったが言い出しづらく、黙っていると、苦笑された。

「もしあなたが自分でしたいって言っても、きっと無理に世話を焼いてくるわよ。こうなったのはカカシのせいでもあるんだから、こき使ってやりなさいな」
「これは…俺のせいです。カカシさんのせいなど…」
「んー…その気持ちは分かるわ。私も昔、同じようなことしたもの」
「……」

 女の口調にふと、その相手はカカシなのだろうかと感じた。けれど訊くには躊躇いや捻くれたものがありすぎて、イルカは黙ったまま、口を閉ざした。
 でもね、と女は続けた。

「カカシがあんな様子だもの。あなたがどう思おうと、カカシはやりたいようにするわよ」
「そんな…、それに…任務、が…」
「―――ああ、あれ」

 可笑しそうに笑った女に、また胸がチクリとした。情けない。

「あなたとカカシをみてたら、もうおなか一杯。お饅頭なんてなくても甘ったるくてゴチソウ様ね。ちょっと悔しかったけど、正直、呆れちゃうわね」
「は…?」

 意味が分からずに、間抜けな声がでてしまっても、女は笑うだけで説明してはくれなかった。

「さて、私ももう限界。寝るわ。何かあったらカカシを寄越して。…あぁ、でもカカシがあなたに乱暴したらどうすれば良いかしら…」
「カカシさんはそんなことされる人ではありませんよ」

 酷い言い様におもわず反論すれば、女は吐息のような笑いを漏らして、イルカはからかわれたことに気づく。

「知ってるわ。じゃあね、また明日。おやすみなさい」
「…ありがとうございました、おやすみなさい」

 視線でテントを出る女の背中をみていると、入り口の布が、女が引き上げないうちにスッと上がった。潜めるでもない声が聞こえた。

「そんなこと、しないよ」
「言われてもしかたないことしてる、って自覚してね」
「…」
「暴力はもちろん、怒鳴るのも駄目よ。具合が悪くて呼びに来ても、知らないフリするわよ」
「…酷いね」
「酷いのはあなたよ。おやすみ」
「……おやすみ」

 女と入れ違いに入ってきたのは、カカシだった。
 テントの傍で話をきいていたのか。今の状態だというのもあるだろうが、気配をまったく感じなかった。先ほどの独り言を聞かれたことといい、居心地の悪さを感じる。カカシがいつものような穏やかな様子でないのも、その要因だろう。
 カカシは無言のまま横たわるイルカの傍らに胡坐をかき、ただじっとイルカをみている。怒鳴ったときのような激しさはおさまったようだが、声をかけることを躊躇わせる気配だ。
 居心地の悪さを、動けない体のために身じろぎで誤魔化すこともできず、イルカは瞼を閉じた。カカシがなにか言いたいのなら、そのうち言うだろうし、なにより疼くような熱と気だるさが酷かった。

 水が飲みたいな、と思う。
 さきほど女がいったように薬もあるのなら、飲みたかった。
 熱っぽいため息を無意識に吐いていたらしい、額に低い体温を感じた。掌の感触が心地よく、瞼をあけると、カカシの心配げな眼差しが覗き込んでいた。

「薬、飲める?」

 わずかに上下に顔を動かすと、カカシは丁重な動作でイルカの頭を抱えて、同じように水と薬、最後にまた水を飲ませてくれた。唇をまた布で拭いてくれるのかと思えば、口布を顎まで下ろしたカカシの唇が一瞬だけ触れて、それだけだった。間近の距離で、ごめんなさい、とカカシが囁いた。

「怒鳴って、ごめんなさい」

 いいえ、とイルカも囁くように返した。もとよりあまり大きな声はでない。ホッとして力が抜けたせいもある。こんな状況でも、キスされて心が浮かれる自分は、外見をさておいていじらしいのかもしれない。
 カカシの指が、イルカの髪の生え際を撫でて、梳いていく。
 一瞬だけ、なぜか甘い匂いがした。

「―――目が焼けなくてよかった。手のほうが酷いよ…たぶん、顔を庇ったんだね」

 話題を探すように、カカシが言って、イルカは自分の顔の上半分が火傷を負わなかったことを知った。そういえば爆風を浴びたとき、反射的に両腕が上がって顔を庇った気がする。口元が包帯に覆われているのは、腕で覆いきれなかった部分だろうか。きっと、今の自分の姿は間抜けなのだろな、と思った。
 カカシの指先の感触が気持ちいい。火傷しなかった部分があってよかった。

「…髪の毛、けっこう焦げて、ちょっと短くなったかも」
「そうですか」

 どうせ半分以上無精で伸ばしていた髪だ、このさい短髪にしてもいい。括れる程度ならいいが、中途半端な長さなら切ろうと思った。けれどカカシが頭のなかを見たように、釘をさした。

「また、伸ばしてね。イルカさんの髪、長い方が良いな」
「…はい」

 自分のなかに可愛げがあるなら、きっとカカシに対してだけ発揮されるものに違いない。そんな自分が可笑しくて、少しだけ唇の端が綻んだ。

「…カカシさんは」
「うん?」
「怪我はないですか…? 大丈夫でしたか?」

 カカシの容の良い眉がしかめられた。機嫌を損ねたらしい。

「ないよ。―――イルカさんが死に掛けたおかげでね」
「そう、ですか…」

 失敗した。せっかく、穏やかな空気が戻ったと思ったのに。
 カカシの周りの空気がまた、硬く冷たくなってしまった。
 この任務で、自分はカカシの気分を害してばかりのようだ。

 カカシは苛立たしいだろうし、イルカ自身も悲しく、情けない気持ちでいっぱいになった。それに、カカシにあの男とのことを知られてしまい、しかも気に入ったのかといわれ、どうしたらいいのか分からず途方に暮れた。そんなわけあるはずが無いのに。問われること自体が、苦しい。
 男の手前、幻術だと説明することもできず、かといって肯定するなどという芸当はできなかった。
 そんな小器用な真似ができていれば、顔を腫らすこともなかった。
 加えて、カカシに信じてくれといえるわけもない自分。
 あのとき味わった痛みと悲しさが、胸のうちに蘇ってきて、イルカは瞬きを繰り返した。涙がでそうになって、焦った。酷い怪我をしてすこし涙腺が緩んでいるのかもしれない。
 カカシがぽつりと呟いた。

「でも、言ったことは謝らないから」

 とっさに、あの気に入ったかという言葉のことかと思ったが、そんなわけはなかった。思考が読めるはずがない。

「ありがとうなんて―――絶対、言わないから」

 そう、カカシが突き放すように言い加えたから、少しだけ考えて怒鳴ったときの話だとわかった。

「俺の代わりにあなたが死にそうになって、俺がどんな思いしたか、わかってないでしょう」
「…すいません」

 イルカの顔や体の傷にあんなに憤慨していたカカシだ。自分の代わりに誰かが死ぬなど、許せないのだろうということは簡単に想像できた。だから、謝った。
 けれどカカシからの眼差しは和らぐことなく鋭いまま。

「謝るっていうことは、もう、あんなことはしないってことだよね?」

 言質を取りたがっているんだろうとは分かったが、はい、と言えなかった。また同じような場面になったとき、自分で庇えるのなら、絶対に、どんなことがあっても己の命を張るだろうということもまた、簡単に想像できたからだ。
 カカシが圧力を加えるようにイルカをじっと見ていたが、やはり頷くことはできなかった。
 しばらくの睨みあいのような沈黙のあと、カカシが大きなため息をついた。
 そしてゆっくりと言った。

「もう、しないよね?」
「……」
「イルカさん、どうして返事しないの」
「できません」
「…して。お願いだから」
「できません。俺の命であなたが救えるなら、俺は何度でも同じことをします」

 思ったよりもはっきり声を出すことができて、安心した。先ほどの治療で、やはり楽になっているようだ。
 カカシの視線はまるで責めるような強さでイルカをみている。
 それでも、頷けない。
 出来ないことを、いい加減に約束はできなかった。まして、カカシの命の話をしているのに。

「イルカさん、俺は、あなたが俺の代わりに怪我しても、全然嬉しくないって言ってるんだよ?」
「でも、俺はカカシさんが危ないときに、見ているだけなんて絶対に無理です」
「迷惑だっていっても?」
「…はい。迷惑だとしても。あなたが無事であれば良いです」

 カカシの整った顔が顰められた。面布もして額宛もしているが、見えている部分でも、ある程度はわかるものだ。  沈黙が降りた。長い沈黙に、イルカがまどろみそうになった頃、カカシが口を開いた。驚くような言葉を吐き出して。

「―――イルカさんの石頭」
「…、…は?」
「だってそうでしょ。イルカさんは、イルカさんのしたいように、生きるんだ。頑固者で我侭で意地っ張りで石頭だ」

 イルカはなんと言っていいか分からず、カカシを見つめた。すいっと目を逸らしたカカシは、イルカの限られた視界のなかでは、よく表情が分からない。

「どんなに怖かったか、イルカさんに伝わればいいのに。イルカさんは、俺を残して俺を置いていくんでしょう」
「でも―――…でも、カカシさんも、俺が止めてくださいっていっても、止めてくれなかったじゃないですか…俺がするのは、いけないんですか…?」

 我侭だといわれて、まず思い浮かんだのが、カカシだってそうじゃないか、という反論だった。
 譲れない自分の意思を通すことが我侭だというなら、カカシもそうしていた。イルカがどんなに来るなと頼んでも近寄ってきて、殴らないでと諭しても殴った。もとはといえば自分に端を発していることだから、カカシを責めようとはおもわないが、行動をみれば、カカシだって自分を押し通しているではないか。

「でも俺は死のうとしたわけじゃない」
「俺だってそうです。カカシさんを守りたかっただけで、死のうとしたわけじゃありません」
「…屁理屈だよ。それ、子どもの理屈でしょ」

 イルカが言ったことを、言い返してきた。その言い分こそが子どものようで、イルカは困惑する。
 任務先で思い出すはずのないアカデミーが、頭に浮かぶ。
 まだ幾年も勤めたわけではないが、子どもには毎日接してきた。
 まさかカカシが子どもと同じというわけはないだろうが。

「死んだら、屁理屈だって言えないんだよ」

 カカシの体温が、イルカの指先を包んだ。いつもより冷たいと感じた。もしかすると火傷のせいもあるのかもしれない。鈍い感覚のなかで、カカシの存在を感じて、こんなときでもホッとした。

「―――怒鳴ることだって、叱ることだって、できないんだ。喋ってもくれないし、触っても冷たいんだ……、頼むから、そんなの、想像させないでよ」
「……カカシ、さん」
「あなたが居なくて、俺だけ生きてて、俺は里のどこに帰ればいいか分かんなくなるよ」

 口調は淡々としていても、語る言葉は懇願に似ていて、どうしたらいいか分からず、イルカは力のあまり入らない指先を動かし、カカシの指をきゅっと握り返した。
 悄然と項垂れているようにみえて、イルカは焦ってしまう。
 カカシは苛付いていたのではないのか。
 感情の起伏の激しい男ではないと思っていたが、今はイルカが困惑するほどに、怒ったり焦ったり諭したり静まったりと忙しい。

「帰るって…カカシさんの家は…」
「うん、分かってるよ。俺だけ。俺のほうだけ、そう思ってて一方通行だって、知ってる。けど…」
「一方通行、って…」
「……」

 カカシの返答はなかった。代わりに、ねえ、とカカシは言った。

「どうして、―――イルカさんは俺を庇ったの」

 あまりに基本的な問いかけに、束の間、イルカは考え込んだ。
 どうしてといわれれば、カカシのことが自分より大事だからに決まっている。
 もし自分の目の前で、カカシが死ぬようなことがあれば、残された自分は耐えられないだろう。
 自戒と後悔で押し潰されて、一生を送ることになるだろう。どうして自分が生き残ったのか、自分になすすべがなかったのかと、想いが深ければ深いほど、自責の念は重くなるに違いない。
 そして、カカシの立場に立って考えてみれば、請うように庇うなというのには、イルカとは違う、上忍としての誇りゆえの悔恨が残るからだろうと思えた。むしろ、そうとしか思えない。
 もしかすると、変に優しいところのあるカカシだから、庇われたという事実に対しての負い目も感じるのかもしれない。
 そんなカカシに、あなたが大切だからです、などと言えるわけが無い。
 笑われてしまうだろう。
 イルカは、だから、カカシの重荷を軽くしたいと願って、言った。


「―――あなたが上忍で、俺が中忍だからです」




2007.04.29