愛について4








 瞼を開いたとき、自分が気絶していたのだと分かった。
 視界いっぱいにあるのは、ぼやけた夏の青い空と、それを遮るくすんだ緑の枝葉。形や色彩がぼやけ、瞬きを繰り返しても、空と緑は鮮やかにはならない。
 また聞こえる音や振動も、なぜか膜があるように隔たって感じられ、気絶する原因を思い出した。

 あのとき、カカシと自分は酷く苛立ち、興奮していた。
 今までにしたことのない言い争いをして、周囲のことに無頓着だった。
 だからといって、あんな間近になるまで人の気配に気づかないなど、失態もいいところだった。

 見たのは、昨日捕らえたはずの、老人。
 よたよたと木立から現れる背の低い影は、けして素早くはなく、けれど余所事に気を取られていたカカシとイルカには充分な素早さでもって、あの男の前へとたどり着いた。
 実際、気を失っている男は木立に限りなく近い位置にいたわけで、その前に立つのは苦もなかったろう。
 懐から取り出していたのは、きっと爆薬。
 導火線に火をつけたところをみれたわけではなかったが、臭いを嗅いだ気がした。

 とっさにしたのは、老人から一番近い位置に、それも背中を向けて立っていたカカシの手を引くこと。
 それだけは、危険だと感じた瞬間に、考えるまでもなく体が動いていた。
 自分がどうなるかなど問題でなく、視界とその他全てを覆った爆音と熱さ、真白になった五感に残ったのは、自爆するまえに老人が、やったぞと泣き笑いのまま喝采を上げて弾けた人間の体、その瞬間の映像だった。

「あぁ、気がついたの」

 気配がよく掴めなかったが、声だけが他の音よりもはっきりと聞こえ、視界に影がかかった。
 自分がどこに横たわっているか分からないが、傍らに居ることはなんとなく分かる。
 女の声が降ってきた。

「あなた、酷いものよ。全身包帯だらけ。まだ寝ていなさい、じゃないと死ぬわよ」

 言われていることに衝撃は受けなかった。
 むしろ生きていることのほうが驚きだ。あんなに至近距離で爆発を受け止めて、いまだ命があるほうが不思議なほどだと冷静に思う。
 声を出そうとすると、喉からは吐息のできそこないのようなものしか出なかった。
 無理に搾り出そうとしても、腹に力など入らない。

「―――…カ……さ、ん…」
「喋らないで」
「……じ……、す」

 無事ですかというたったそれだけが言葉にならない。
 柔らかい手が、イルカの口を閉ざした。

「喋らないでって言ってるのに。あなた、自分の状態、分かってるの? 死に掛けたのよ」

 それでも、訊きたかった。
 自分は守れたのだろうか、あの人を。
 首を捻ることもできず、辺りの様子はわからない。

「カカ、シ、さん…は…」

 手に阻まれてくぐもっていたが、女は分かってくれたようで、はぁあ、と大きなため息が降ってきた。

「まったく、あなたって……―――…まあ、いいわ。カカシは無事よ、あなたの傍に座りこんじゃって邪魔だったから、ちょっと薬を取りにいってもらってるの。すぐに戻ってくるわ」

 思わず、安堵のため息が、唇から弱々しく漏れた。
 カカシが無事だった。
 それだけでいい。
 自分の怪我の具合など、カカシに傷がないのなら、どんなに酷くでもいい。

 安心したせいか、意識に薄闇がかかる。
 瞼が重くなる。
 上げようとしても緩慢な瞬きになった。女が、眠りなさいと言う。

「眠って、体力を回復させなさい。あなたは昨日から働きすぎで怪我をしすぎよ。私も働きすぎでいい迷惑だわ」

 苦笑を含んだ穏やかな声音に、瞼の上に乗せられた温かさ。掌の体温に導かれて、ゆっくりと闇が降りてきた。すいませんと言葉が音になるまえに、イルカは眠っていた。








 随分と眠っていたようだった。目が覚めたとき、テントの中にいることがわかった。虫の音が聞こえる。夜になっているようだ。
 運ばれたことも分からないほど熟睡していたのだと思うと、恥ずかしさを覚えた。自分の力不足と未熟さが、思いしらされる。
 瞬きを繰り返し、テントに吊るされた小さな灯りの明るさに慣れる。試しに首を動かしてみれば、横を見ることができた。あれからまた治療をしてくれたらしい。
 感謝しつつ、見える範囲でテント内を観察すると、一人用のテントのなかには、イルカのほかには誰も居らず、テントの端にイルカの荷物らしきベストなどが置かれている。

 カカシは任務に戻ったのだろうか。
 そうであればいい、とぼんやり思った。
 カカシがここにいることが辛い。

 初め、木立から現れたカカシをみたときは、幻かと思った。だが、一番に居て欲しくないとおもう人の姿を、幻にみるわけも無く、カカシは確かにそこに居た。女がカカシへと歩み寄る姿を見ていられずに、背中を向けた。朝もやのなか、親しげに寄り添った二人を見るのは、どうしても耐えられなかった。
 加えて、自分のこのみっともない姿。

 見られたくはなかった。
 くだらないプライドもあったと思う。けれどそれ以上に、怖かった。女のたおやかな声や体もなく、平凡より上でも下でもない自分の体と顔は、でこぼこと脹らみ変色し醜かったろう。手鏡は荷物の中で、額宛もいつのまにか外されていたから、自分の顔をみることはできなかったが、水辺で紫色の歪んだ顔のようなものだけ確認できた。
 カカシが自分に欲情することを思えば、きっと容姿にこだわりがある男ではないとおもう。
 それでも、見せたくはなかった。
 自分がもっと上手く立ち回っていれば無かった負傷だと思うと、なおさらだ。

 そのくせ、カカシは近寄ってきた。
 子どもの使いだと誤魔化して、任務だろうに追ってきてかかえ上げさえして。
 カカシのことを想うからこそ余計に、はやく任務に戻り、はやく立ち去って欲しかった。
 必死で頼んだというのに、カカシの様子は硬くなるばかりで、イルカにはどうしようもなく―――。

「……」

 あの副隊長のことにしても、カカシが手を汚す必要はなかった。
 カカシは殺気を立ち昇らせるほど逆上していて、縋り付いて止めたくとも、体は満足に動かず、カカシに躊躇いはなかった。カカシは怒鳴りさえして、イルカの傷が許せないと言っていた。

 優しい人だとおもう。
 カカシが心を痛める必要は無いのに、イルカの弱さにまで責任を感じたのだろうか。
 どんなに関係がないといっても、言うほどにカカシの態度は硬くなり、止めるイルカをも詰った。
 カカシには、イルカの面倒をみる必要などないのに。
 まるで、イルカの弱さを詰られたような気がして、悲しかった。
 自分の始末も付けられない、自分で報復もできない人間なのだといわれたようだった。

 テントの低い布天井にむけてため息をついた。
 薬くさい息が抜けていく。
 涙が出そうだ。
 カカシは優しい、けれどその優しさは身勝手だ。
 泣きたい気持ちが喉までせりあがって、掠れた声になった。

「…嫌いだ」
「――――――俺のこと?」
「…!」

 吃驚した。
 動かないはずの体が、一瞬ビクッと飛び上がった気がしたほど。
 首を捻っても、カカシの姿は見えない。
 たしかにカカシの声だったはずなのに、気配もない。しわがれた声で探した。

「…カ…シさん…?」
「いるよ、ここ」

 音も無く空気だけが動き、カカシの姿がイルカの視界の中に入ってきた。頭側の視界に入らない場所に居たらしい。気配を消しているなど、今の状態で気づきようもない。
 カカシはいつもの姿で、額宛も面布もベストも異常ないように見え、ホッとしたが、独り言を聞かれて憮然と黙っていると、カカシも無言のまま、イルカの頭の下に腕を差し入れ、木椀を口元へ近づけてきた。ゆっくりと傾けられる椀のなかには無色透明の液体が揺れていて、イルカは大人しく口をあけて飲み下した。このときになって、口元のあたりまで包帯が巻かれていることに気づく。

 何も味はしないはずなのに、水はやはり美味かった。
 丁寧な動作で頭はまた戻され、唇を柔らかい布で拭われる。
 一連のことをカカシは表情もなく行っていて、イルカはじっとカカシを見上げた。激したカカシが、一番新しい記憶だ。その様子とまるで反対で、純粋に不思議におもった。

 カカシさん、と呼びかけても、カカシの視線はただ平坦に、イルカをみるだけ。
 今までにない様子に、腕に力をこめて、動かしてみた。
 助かったことになんとか曲げることができ、持ち上げようとしたところで、カカシの掌に止められた。
 手を握られ、指がカカシの低い体温にくるまれる。

「カカシ、さん…?」
「どうして、こんなこと、したの」
「え…」
「俺が、ありがとうとでもいうと思った?」

 思っても見なかった冷たい声。
 戸惑い、とっさに返事ができなかった。
 ありがとうなど、言われるとは思っていなかったし、想像もしなかった。
 なにも、考えてなどいなかった。
 ただ―――

「―――体が、かってに、動いただけ、です」

 カカシが硬質な視線をイルカに向ける。
 素顔が整っているからこそ、冷たい表情はいっそう冷たく見え、イルカはかけられる言葉がなくなった。
 冷たい視線同様の、硬い声音。

「そうだね。あなたが、勝手に動こうが、あなたの勝手でしょうね。俺にはあなたのすることを止める権利なんて、あなたから見たら、どこにも無いんだろうね」

 包まれた指先が解かれ、カカシの手が離れていく。
 無性に寂しくなった。
 だが、カカシの温もりを追いかけようにも、腕は思うように動いてはくれない。

「あなたは好きに動けばいいよ。それで満足なんでしょう? ―――でもね、あなたが良くても、俺は良くない」
「カカシさん…」
「あなたに庇われたって、嬉しくも何ともないんだよ、俺は!!」




2007.04.29