愛について3
どうも、と答えるまえに、イルカが叫んだ。
「―――その血は…! だれを、誰を殺したんだ…!」
カカシの肩に置かれた手のひらが震えていた。
傷からの発熱のためか怒りのためか、カカシには分からなかったが熱く感じるそれに自分の手を重ねた。
落ち着いて、と上から軽く叩いた。
カカシさん、とイルカが見下ろした。
酷い顔を隠していたのに、それも一瞬忘れたらしい。
カカシは目を細めた。
そして血塗れの姿へ視線をむける。
「どーも。任務で通りがかったんだけど、この人の格好みてどんなに苦戦してるのかと思ってね。話を聞いてたとこだよ。…その格好みる限りじゃ、任務は終わったみたいだけど」
一人分の返り血ではない。
数え切れないくらいの断末魔と噴き出る血をみてきたカカシには、少なくとも片手以上の人数を殺してきたのだと分かった。
収束寸前の任務だ、そんなに任務対象数がいるわけがない。
頭髪から足先まで血の色が飛ぶほど人を殺す必要があるのかさえも、疑わしい。
ゆっくりと余裕を感じさせる動作で、深緑のなかから歩み出てきた男は、血を頬に貼り付けて笑う。
「ああ、終わったよ。君に心配されるまでもない、こんな任務、遊びのようなものだ」
「そうなの、それは良かった。俺も任務中だって言われたら手の出しようがない」
「なんの話だ」
「こっちの話だよ。死が訪れるのは誰にも平等に一度きりだけど、与えるのは全く平等でないってこと」
カカシの頬が緩む。
この男に通じる話ではないだろうが、可笑しくなった。
死はその回数においてこそ、誰の上にも平等に訪れるが、至るまでの実質においては全く平等ではない。
平等でない恐怖、苦痛、悲しみ、絶望、無への静かなる階段を登る時間でさえ、全く平等ではない現実は、怖ろしいものだ。
己が与えたいくつもの死に対して、一度きりの自分の死。
つりあうはずのない己と現実がときおり立ち竦むほど怖ろしく、人を一度、殺したならどうして、同じ回数だけ自分は死んでいないのだろうと不思議だった。
生き残ることが怖く思え、怯えた。
与えた分だけの死が襲ってこない世界は、現実は、残酷だった。
その残酷さを飲み込むために、水底に潜り、イルカに甘えてきた。
イルカが寄り添ってくれていたから、ふいに暗闇から訪れる過去も耐えることができたのだろうと思う。
そして、いつからだろう。
死が怖ろしいと同時に、慈悲でもあると気づいたのはいつだろう?
限りない苦しみを与えるには、無を与えるよりも、生かしておくほうが良いのだと気づいたのは。
「…ほう、写輪眼のカカシはずいぶんと詩人だな。だが今は君のポエムをきいているヒマはないんだが」
「そう? 自分のことじゃない、よく聞いといたほうがいいんじゃない」
「…なんだと?」
この男が仲間でよかったのかもしれない。
これまでの所業に見合った苦しみを、苦痛に満ちた生を与えることができる。
イルカを慎重に、岩の上へと座らせた。
小声で囁かれる声。
「―――もう、戦意のある敵は居なかった、怪我人と非戦闘員ばっかりだったんです。それをあの男、一人ずつ殺しながら遊んでたんです…! 昨日、俺が反抗したことで面倒くさくなったんでしょう、あれだけの血糊、全員を殺したに決まってる…! くそ、俺が…!」
悔しさが伝わってきた。
イルカの降ろしたままの黒髪を、一度だけ撫でた。
真っ直ぐな人だから、イルカは。
不当に奪われた命を惜しむ人だから。
生きることを尊ぶその真っ直ぐな性根が、カカシには慕わしかった水底の苦痛に似た、優しさに思えた。
カカシは立ち上がり、男へとゆっくり向き直る。
「たんに、人にそうした様に、自分もそうされても当然だよね、って話さ」
「はあ?」
芯から冷えた頭で、肌の表面だけがこれから行えることに対して歓喜していた。
とりあえず一発はそのニヤけた顔に渾身の力で叩き込んでやりたい。
それからイルカが目の周りを腫らしているように、目の辺りを変形させてやろう。
顎のラインは原型が分からなくなるぐらいにまんべんなく、丁寧に殴っていくことにしよう。
体の四肢のほうは、足は勘弁してやるが手は使い物にならなくても里に帰れるだろう。手のひらをクナイで突き刺してから指を一本づつ折ってやろうか。
爪と指先の間へ、扇の芯のように千本を指していってやってもいい。
自分の愉快な想像に、知らずに頬が緩んで気が高ぶってくる。
目の前の男に逃げられないように抑えていたが、肌の表面には張り付くように殺気があふれ出していた。
無意識に握り締めた拳。
一歩を男へと踏み出そうとした瞬間、―――拳がつかまれた。
「なにを―――するつもりですか」
俯いてカカシを引き止める声は、問うものでなく、確認のような響きだった。
こんなに間近にいるのだから、殺気に気づいて当然だ。
カカシも気づかれても構わないと漏らしたのだから。
「決まってるじゃない。…分かるでしょ」
「いけません」
はっきりとしたイルカの声。
どうして、と詰った。
顔を痛々しくしているイルカをみて、カカシは自分も傷つけられたように痛かった。
その痛みを返してやりたい。
それでなくても、この任務で男がしていることは、イルカがいったように、憤るようなことだ。
カカシがその想いを代弁して何が悪いというか。
けれどイルカの言い分は冷静だった。
「…まだ任務は正式に終わったといえません。ですからあなたがあの男に何らかの処置をされた場合、あなたが任務の邪魔をしたといわれるかもしれません。それは、いけません」
「イルカさん、さっき怒ってたでしょう。その傷だって」
「それとあなたとは別問題です。あなたほどの人が何をそんなに―――」
カッとした。
他の誰にいわれても我慢できるが、イルカに言われることは冷静さを失わせる。
カカシがイルカのことで頭に血を上らせてはいけないのか。
守りたいと願う相手のことで、取り乱してもいけないのだろうか。
言い返そうとしたとき、半分笑った声が横からかかった。
「おいおい、何をコソコソしてる。そこをどいてくれないか、この汚い血を洗いたいんだよ」
退いてくれないかというわりに、頭からカカシを含めイルカを侮るような態度で、その他もろもろの言い方もまとめてカカシの怒りを煽る。
静止もかまわず行こうとすれば、さらに手が引かれた。
「どうして」
「…ダメです、手を出さないで下さい」
「だから、どうしてっ」
苛立って、声が少し大きくなった。
男が、おや、と耳をそばだてたのが分かった。
イルカの声もまた、合わせるように大きくなった。
「これは俺の問題で、あなたには関係ないからですよっ」
「……っ」
体が震えた。
「殴られたのも俺で、この任務についているのも俺です。手出しは無用です」
「―――関係、あるよ。あるでしょうが」
「ありませんよ。この任務とあなたは無関係です」
「そんな話じゃないよっ。分かってて言ってるでしょう」
「分かりませんよ! あなたがそうする理由なんて、何一つありません…!」
悲痛な響き、といってもいい程の鋭さで、イルカは言った。
カカシは唇を噛み締め、どうして、と尚も言いたい気持ちを懸命に堪える。
イルカを大事にしたい気持ちや、心配しないではいられない自分。
それらが否定されたように感じた。
拳から力が抜ける。
同時にイルカの手も離れた。カカシから発せられる気配が緩んだからだろう。ホッとした様子を見なくても察することができて、癪に障った。苛立ちが生まれる。
視線を地面へ落としたとき、場違いに朗らかな声が響いた。
「なんだ、カカシ、君もイルカの飼い主の一人か」
カカシの肩がぴくりと動いた。
「さっきからどうも変だと思っていた。君もそうか、この反抗的なペットにてこずっているわけだな」
「……」
「全く昨夜は困ったよ。途中で逃げられてしまってね。改めてお仕置をしてやらなければならないんだ、イルカには。君もどうだ?」
怒りで血の気が引くことを、カカシは初めて知った。
男はカカシたちの立つ水辺のほうへと近づいて来ながら、軽く両手を広げる。
「憂さ晴らしにと思って呼んだのに、それさえ嫌がって逃げて。役に立たない駄犬だよ。君も尻で取り入られた口だろう。存外に夢中になっているという具合かな。もしかして反抗するほうが好みか? だが順番は守ってくれよ。私が充分に楽しんだ後は譲ってあげてもいいがね」
カカシの様子にも気づかず、上機嫌に歩み寄ってくる男。
血臭が、陽が昇りはじめた夏の森の匂いと混ざり、吐き気さえしそうなほど濃い。
男の目は高揚して虚ろにみえた。
血の臭いに酔っている。
だからといって、許してやる余地はどこにもない。
「まあ便所のようなものか? そのわりには悪くない締まり具合だったからな。君が騙されるのも分かるな。私も騙されたよ。きっと他のヤツラもそうなんだろうな」
「他…?」
あと五歩ほどの距離。
カカシはうっそりと視線を上げた。
目の端でイルカが顔色も言葉も失って、男を凝視しているのが見える。
カカシは殺気もなく、静かな奔流が体の中を渦巻いて弾ける瞬間を、じっと待つ。
男の血に濡れた足が、一歩、また一歩と近づく。
「なんだ、君は知っているだろう、猿飛や不知火さ。森野もそうだろう。驚いたよ、彼がそんな趣味があったなんて知らなかったしね。だからこそ、彼好みかと興味が湧いたんだが。不思議なもんだよ、まったく。言ってみれば、彼とおシリ合い、ってやつだ」
2007.04.26