愛について3
イルカの姿を探して、まだ靄のただよう森のなかを歩く。
足元の草が踏みしめられ細い道のようなものになっていた。それを辿っていけば、すぐに視界がひらけた。ひときわ大きな木がその中央辺りに立っており、添うように岩が盛り上がっていた。
その岩にイルカが座っていた。
苦しげに腕で自分を抱きしめるようにして体を曲げていた。
「イルカさん…ッ」
「―――何をしていらっしゃるんです」
とっさに駆け寄ろうとした足が、冷たい声音に止まった。
「任務中に他の任務と接触することは原則禁止されています。もしやむえず接触してしまったばあいは可及的速やかに現場を離脱し関係を絶つようにと、俺などがいわなくてもあなたならご存知のはずです。何をして―――いらっしゃるんですか」
足が勝手にイルカの近くへと歩み寄っていくが、その堅い眼光と雰囲気で、十歩以上の距離を残して立ち止まってしまった。気まずくて、後頭部をかく。
「…この先の街にちょっと用事なんです」
「任務、ですか」
「まあ……子どもの使いのようなもんです」
とてもではないが饅頭を買いになどといえる雰囲気でなく、カカシは取り繕ったが、それを誤魔化したと取ったのかイルカの周りの空気がいっそう堅くなった。
「―――そうですか、ならお気をつけて」
まるでもう会話は終わりだといわんばかりの言い方で、イルカはカカシから視線を外した。取り付くしまもない会話に、困りきってカカシはイルカの名を呼ぶ。
返答はない。
カカシが気にしているのは、イルカの上半身が包帯が巻かれただけの状態だということだ。いくら夏でも、朝早い靄のなかでは傷に障る。
「ね…そろそろ戻った方がいいですよ。足、痛んでるんじゃないんですか。そこまで付き添います」
「けっこうです。任務にお戻りください」
「イルカさん、怪我がひどくなります。はやく…」
「俺のことはいいんです。あなたこそ、任務に早く戻ってください」
「イルカさん、頼むから…」
見えているイルカの傷や、顔の痣。近くになれば、いっそう酷いものだった。
こめかみから目の周りは紫色に黒ずんで痛々しく、左頬骨は大きくガーゼが貼り付けられている。髪が降りているからわかりにくいが、顎のラインも奇妙に膨らんでいて、輪郭もいつもと違う。包帯だらけの体のほうがまだ綺麗にみえるほどだった。
本当は一瞬でイルカが顔を背けてしまったから、見えたのはわずかな間だけだったが、充分だった。
心臓が変な具合に早くなっているのが自分でも分かる。
イルカが傷ついていたらどうしようと想像していたよりも、ずっと現実はカカシに衝撃を与えた。自分の怪我なら大したことないと切って捨てるとおもう。顔など変形しても命に別状ないのだからと。
ただそれがイルカだから、自分はここまでうろたえる。
顔を背け、近寄って欲しくないという気配を全身から発しているイルカに、一歩、また一歩とゆっくり近づいていく。毛を逆立てた獣に近寄るように。
「さっき、辛そうにしてた。痛むんでしょう。我慢しないで」
「俺にかまわないで下さい!」
あと少しで触れられそうな距離で、癇癪玉が弾けるようなイルカの声。
「イルカさん…そんなこと無理だよ…」
「なにが無理なものですか。いいからさっさとご自分の任務にお戻りください」
無理だ。こんなにも間近にイルカが傷ついている姿をみたのに、のうのうと帰るなど。第一、カカシがここまできたのはイルカの無事を確かめずにはいられなかったからだ。
それを今のイルカに言えるわけがないが、カカシはイルカがどんなに言おうとこのまま去る気にはなれなかった。
イルカの具合が心配だ。
無駄に言い争っている時間が惜しく、カカシは残りの距離を一気に詰めて、イルカを抱き上げた。咄嗟のことに抵抗する間もなく、イルカは易々とカカシの腕の上に尻を乗せた格好で抱え上げられた。消毒液の匂いが鼻を刺し、肌はやはり冷えていた。
「…ッ、離して下さい!」
「暴れないで。暴れても俺は降ろすつもりはないから」
抱えているせいで今は上方にあるイルカの顔を見上げると、イルカは腕で顔を隠した。
全て隠れるわけでなく、痛々しく腫れている顎がみえて、カカシは口付けるように唇で触れた。ざらつく感触を舐め上げてやりたくなった。
嫌だ離れてとイルカが吐き捨ててカカシは傷つく。
嫌よ嫌よも好きのうちなどというが、こればかりは絶対に本気の拒絶だ。
だが離すつもりはなく、間近の傷を目をひそめて眺めた。
どう見ても、同じ里の忍びがやったのなら、過剰な暴力だ。
それだけでも許されないのに、相手がイルカ。
手出しはしないと火影には言ったが、どうにかしてやらないと気がすみそうにない。
冷えたイルカの肌の体温が伝わる。熱が出ている。
「カカシさん…ッ、頼みますから、離れて下さい…!」
「嫌だ、このまま運ぶよ」
「離れて下さいよ、歩けますよ、離れて!」
「ちょ…、イルカさん、傷が痛むよ、あんまり興奮しないで…」
言うあいだも、ぐいっとイルカの手のひらがカカシの顔を押して、遠ざけようとする。
あれ、と頭に上りかけていた血がすこし下がった。額あたりでカカシを押し返している手のひらと、背けたうえに隠そうとしているイルカの顔。よく見ると、擦過傷もみられる耳朶が、傷のためだけでなく朱色に染まっていた。
「イルカさん…もしかして」
「いいから、ひっつかないで下さい…!」
そんなことを言っても、抱え上げているのだから、どうしても密着する。右腕にイルカが乗っている状態だから、カカシは左手でイルカに手を伸ばした。
「大丈夫だよ、痛そうだけどちゃんと治るよ」
「…ッ、みっともないからあんまり近くで見るなっていってんです…!」
ほとんど叫ぶようにいったとたん、とうとう痛みが来たのかイルカが呻いた。カカシの血の気が引く。もたれかかるようにイルカが身を丸めて震えるから、どうしようもなく慌てた。
「大丈夫ッ? すぐに戻るから、ちょっとのあいだ我慢して…、―――…」
「…カカシさん…?」
唐突に動きをとめたカカシを、顔を隠しながらイルカが窺った。
そしてすぐに、イルカも異変に気づいた。
消毒液でも薬でもない、生臭い、―――血液の臭い。
どれほど先からでも分かるほどに酷い臭いが、近づいている。カカシが気配を探ると、先にイルカのほうが探り当てたらしく、体を竦ませた。
「知ってる人?」
「……副隊長です」
なるほど、と呟いた。ならば丁重に丁重を重ねた挨拶でもしたいところだが、あいにく、いまはイルカの体調を気遣うのがカカシにとって重要だ。それに殴り飛ばすのは、きっとイルカが止める。だからイルカがいないときの方が良い。
気配は一直線に、水場へと向かってきているようだった。
「イルカさん、いったんここを離れるよ。ちょっと揺れるけど、耐えれる?」
「自分で歩けます」
こんなときにまだ意固地なことをいうイルカにちょっと呆れた。
「足、痛いんでしょう」
「痛みますが歩けないことはありません。だから下ろしてください」
「体も痛むくせに強がらないでよ」
「強がってません」
「どこが。そういうのは強がってるっていうの」
言い合っている時間などなかったのに、堅いばかりのイルカの態度に、さすがのカカシも腹が立っていたのかもしれない。つい言い返してしまい、売り言葉に買い言葉だった。
「俺は歩きたいんです」
「ダメ」
「勝手に決めないでください!」
間近での言い合い。
二人ともいつもに比べて少しばかり意固地なっていた。
カカシは心配と怒りが混ざって。
イルカは情けなさを意地で抑え込もうとして。
結局、その無駄な時間が、全ての偶然を繋ぎ合わせ、多くの血が流れることになった。
けれどそのときのカカシたちには知るすべもなく、言い合う内に近づいた気配が、カカシとイルカの声に気づき―――。
「おや、これはこれは。どうして君がこんなところにいるのかな」
血塗れの姿の男が、真夏の深緑の木立の中から現れた。
湯気がたっているのではないというほどの鮮烈な赤と、真緑の対比が、怖ろしいほどくっきりと、二人の目に映ったのだった。
2007.04.15